第3話【桃花精】

 江蘇省こうそしょうの村のひとつに、ディンという家がある。

 代々その場所に住み続けてきたが、あるとき地域が開発区域に指定され、村人の一切が移住させられることになった。


 新たな住居が用意され、都市戸籍を得られることが決まり、こどもの教育にいいと喜ぶ者もいれば、長年手入れしてきた農地を捨てたくないという者もいた。

 読み書きもろくに知らず、農業ばかりを生業にしてきた我々が、どうやって都会で仕事を得るんだ?という者もいたし、何とかなるさ、という者もいた。

 どうあれ党の決定ならば、反対をしたところで、いづれは移らざるを得なくなる。


 ディン家の家長は移住を渋っていた。

 庭に桃の木があるからだ。


 長い間先祖より『この桃の木を大切にせよ。大切にすれば家はさかえ、粗末に扱えばおとろえるぞ』と伝え聞いてきた。

 この桃の木を捨ておいて、果たして移住していいものか。

 このまま捨て置けば、切られてしまうことは間違いない。移住先は高層住宅の団地で、庭はない。

 植え替えられないまでも、せめて枝のひとつでも残したい。しかしこの急場に枝をとったところで、きちんと根付かせることができるのだろうか。かえって枯らしてしまいはしないか。そもそも、大事なこの桃の木を、自らの手で切ってもいいものか。


 そんな風に悩み過ごしていたある晩、夢に美しい女が現れて、三日だけ待て、と言った。


 桃の木のことだ、とすぐにわかったが、妻の他には話さなかった。

 桃花精とうかせいが夢に出た、などと言えば、頭がどうかしたと思われるだろう。


 はたして三日後、二人の男が家を訪ねてきた。


 聞けば彼らは、資産家に頼まれて、庭に植える古木を探しているという。

 通りがかったこの家の桃の木を見て、ぜひ譲ってほしいということだった。


 都会の人がこんな田舎に通りがかるというのも妙だ。

 通りがかることがあったところで、ずいぶんと変わった申し出だったが、もしや桃花精のいう三日待て、とはこのことか、とも思われた。


 とはいえ、古い木を金を払ってまで植えたい、などという言い分はどうにも胡散臭かった。

 先祖からの言い伝え通りなら、とうに寿命は超えている木だ。大金をかけたところで、長く持つとは思えない。植え替えをするならなおさら弱るだろう。

 そのうえ大事な桃の木を、他人にくれてやる気にはなれず、ディンはつい二人を追い返してしまった。


 追い返しはしたものの、ディンの気分は浮かなかった。

 果たして己の判断が正しかったのかどうか、自信が持てなかったからだ。


 ちょうど引っ越しの相談をするために、出稼ぎ先から息子夫婦が里帰りしていた。

 食事の支度をしていた息子は、ふと父親の様子のおかしいことに気づいた。

 どうしたのかと息子が訊ねると、弱り切ったため息をついてディンは言った。

 あれほど代々、大事にするよう言い伝えられてきた桃の木なのに、他人に売っても良いものか。


 すると、幼い孫をあやしていた嫁が言った。


 お義父とうさんはどうしたら自分があの桃の木を持ち続けられるか、そればかりを考えている。

 桃の木の立場だったらどうだろう。ただ生き延びたいと思っているだけかもしれないのに。


 それでディンは心が決まった。

 桃の木は売ろう。

 ただしけして粗末にしないよう、大事にしてくれるように、よくよく頼もう。


 万が一のために、枝を数本分けてもらおう。

 もしもあの木が他人によって、すっかり枯らされてしまうようなことになったら、きっと悔いても悔い足りないだろうから。


 そんなわけで、桃の木は売れた。

 ディン家の家族は、思いがけず手に入ることになった大金のことは、孫の教育資金にしようとひっそりと決めた。


 木を取りに来た男は、根の一本をも傷つけないよう丁寧に掘り返して、麻布で包むと卡车トラックに乗せた。

 どこにどう根が張っているかをわかっているかのような、ふしぎと手際の良い仕事だった。

 おそろしく力持ちで、まるで物語に出てくる豪傑のような男だとディンは思った。

 ディンも息子も手伝ったが、殆ど役に立ったとは思えなかった。



 ほどなく村は、大きな都市の郊外の団地にそのまま移転した。

 丁家がくじで引き当てたのは、ことさら広く、日当たりのいい部屋だった。

 家が近くになった息子夫婦が、よく会いに来るようになったので、ディンは内心嬉しかった。

 生涯にわたって続けてきた畑を失った代わりに、毎日分け木した桃の枝に水をやり、根が張っているか確かめるのがディンの日課になった。

 枝は思うように根付かなかったが、さりとて枯れることもなかった。

 土を替えたり、米のとぎ汁を与えてみたり、思いつくことを様々にしてみたが、なかなかうまく根は張らなかった。

 桃は枝分けのむずかしい木だ。

 根が張らぬのに、腐らぬというだけでも不思議だった。


 手入れを欠かさないまま一年が過ぎた。


 丁は、息子夫婦が預けていった孫が、窓辺にの桃を置いているあたりをじっとみつめていることに気づく。

 桃にいたずらでもされてはたまらないと、孫の目線を追ったディンは、あっと叫んだ。


 桃の枝に芽がついている。

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