第23話 豚の生姜焼きと『売れない本屋と勿忘人形』.4
とある町の一角に、一軒の寂れた本屋がありました。
扱っている本は子供向けの絵本から医学生が読むような専門書の類まで何でもござれといった素晴らしい品揃えで、本好きの人間にとっては夢のような店でした。
しかしながら、その店は常に閑古鳥が鳴いていて、お客さんはほとんど訪れません。
なぜなら、その店の主人がかつて多くの悪事に手を染めた悪い魔法使いだったからです。
男は魔法を使って多くの人を困らせ、沢山の人達に迷惑をかけたことを反省せず、散々暴れ回った町を飛び出して国の各地で悪事を働いていた悪人で、その時の悪行を覚えている町の人々からは忌み嫌われていたので、誰も男が開いている本屋になど、いくら品揃えが良くても行こうとはしません。
男は当然の報いだと言います。
自分はそれだけのことをしてきたのだから仕方がないんだと、誰もいない店の中で話すのです。
たった一人だけいる、自分だけの大切な宝物に向かって。
店のカウンターに置かれた、今は亡き愛娘の宝物だった人形に向かって今日も彼は語りかけるのです。
やりたい放題の暴れん坊の魔法使いだった自分に初めて出来た宝物。
可愛くて可愛くて仕方がなかった、世界に一つだけの宝物。
人を傷付け続けてきた自分が、初めて命を懸けてでも守り通したいと願った最愛の娘。
本が大好きだった娘。
いつか自分だけの本屋さんを開くのが夢なの! と元気に夢を語っていた娘。
自分を変えてくれた、小さな小さな命だった。
彼女がもしも生きていれば、開いていたかもしれない本屋。
どうしようもないほどの悪人だった自分を変えてくれた彼女に恩返しが出来るとすれば、彼女の代わりに彼女の夢を叶えることぐらいしか思いつかなかった元悪い魔法使いが開いた本屋には今日も誰も訪れません。
「やあ、今日も誰もお客さんはこないよ」
「今日は雨降りだ。こんな日は皆家に閉じこもってしまうから、誰も来ないだろうなあ」
「外では綺麗な花が咲いているんだ。皆、本よりもそちらに夢中だから今日もお客さんはお預けだな」
「今日はうだるような猛暑だ。こんな熱気では読書どころではないだろうなあ」
「少し肌寒くなってきたな。皆厚着をして通りを歩いているけれど、この店の前は素通りさ。まあこれも、昔色々と人様に迷惑をかけた罰ってやつさ。自業自得なんだから、誰も責められんよ」
「町中雪だらけだよ。店の前の雪かきをしておかないと。万が一にもお客さんが来た時に店に入れないからなあ」
男は毎日毎日、誰もいないお店の中で優しくそう呟くのです。
魔法使いは娘の誕生と死を経て、今までの自分の愚かな所業を悔い改めて改心しましたが、人々にとってはそんなことは関係ありません。
人は他者からの悪意をいつまでも覚えている生き物です。
悪人がどれだけ改心しようとも、過去の行いを引っ張り出して『だけど、アイツは』『しかし、彼は昔……』等と言い、誰も魔法使いの今を見ようとはしません。
しかし、魔法使いは人々を恨むことはありませんでした。
彼にとっての宝物は大切な娘であり、彼女の遺した宝物であり、彼女の夢であったこのお店なのです。
それさえあれば十分だったのです。
魔法使いは、今日もカウンターの中の椅子に座り込みながら、娘似の人形の頭を撫でながら、物思いに耽ります。
人は死んでしまえば、そこまでなのかもしれない。
けれども、遺された人間にはそこからがある。
遺された人間が、死者に対して直接出来ることはない。
出来ることと言えば、忘れないこと。
その人が確かにここにいたんだということを忘れずに、その人の想いを忘れないでいることぐらいだ。
だから魔法使いは忘れない。
自分が娘のことを、娘の想いを忘れてしまった時、娘は本当に死んでしまうのだと思うから。
自分が娘のことを忘れずに、胸の中にいつまでも彼女と過ごした思い出を抱き続けている限り、娘は生きてそこに居続けてくれるのだから。
魔法使いはそう思い続けながら、このお店を続けています。
いつ来るかもしれないお客さんを待ち続けながら。
そして、魔法使いは今日も誰も来ないだろう店の掃除を始めようとかと腰を上げます。
棚にしまった掃除道具を取り出そうとゆっくりと歩き出そうとした刹那、ふと立ち止まります。
魔法使いは思いました。
耳がおかしくなったのだと。
私の聞き間違いなのだと。
きっとそうに違いないと。
彼はおずおずと首を曲げます。
振り返る。
そして、彼は目元に熱い雫が溢れてくるのを感じながら、今までずっと口にしたくても口に出来なかった言葉を紡ぎます。
嗚咽の滲んだ我ながら情けない声でしたが、
「ようこそ。いらっしゃいませ」
そう、魔法使いは笑顔を浮かべて言いました。
入口のドアベルを鳴らした初めてのお客さんらしき人物に深々とお辞儀をする世界で一番大切な父のことを、世界で一番大切な娘はずっと見詰めていました。
互いを忘れることが出来ずにいた親子は、それぞれの一番大切なものをずっと忘れることなく、この沢山の想いが詰まったお店で一緒に居続けていたのかもしれません。
読み終わった本をパタンと閉じる。
「……ふう」
読み続けている間にいつのまにかお腹に溜まっていた息を吐き、ほっと一息をつく。
そして、先程まで浸っていた物語の表紙を見つめて、しばしの間そのまま物語の余韻に浸った。
……心にスッと染み込んでいくような話だなこれは。
読み終わった時に感じたのは、心の中にポッカリと口を開いた部分に温かな水がゆっくりじんわりと馴染んでいくような、そんな不思議な感覚だった。
亡き娘の宝物を大切にして彼女のことを思い続け、娘の夢を叶える為に努力するも、己の過去の悪行の積み重ねによって店の経営が成り立っていない魔法使いの男。
自分の夢を叶える為に誰も訪れることのないお店を毎日毎日開いている父親のことを、毎日毎日見守っている娘の人形。
自分の大切なものをずっと守り続けているような温かくも、どこか寂しさを感じさせる儚い物語だ。
ゴーフは本を撫でていた指の腹を一瞥する。
厚く硬くなった皮膚だ。
毎日毎日、雨の日も風の日も腕がもげるのではないかと錯覚する程の長い距離を、ずっしりと商品の詰まった荷馬車の手綱を握り締め続けて分厚くなった指。
自分の店を持つようになってからは若干柔らかくなってきた指の皮の厚さだが、これはゴーフにとっての勲章だ。
多くの人々に様々な物を届け、多くの利益を得た。
沢山の土地に行って見知らぬ様々な物や、多種多様な人種の人々とも交流した。
自分の妻となる女性と出会えたのも、長い長い旅路の果てだ。
苦労の多い人生だった。
……だが、
「決してそれだけではなかった」
確信に満ちた言葉で断言する。
惚れた女性と結婚できた。
己の腕で眠る娘の重さと、安心したように笑みを浮かべながらスヤスヤ眠る娘の顔を見た時は涙が止まらなかった。
自分の人生を賭けてでも守りたい宝物ができた。
そして、ある日最愛の人との間にできた私の宝物は言った。
『私、パパのお店で看板娘になりたい! パパの大好きな場所で、パパが大好きな私とお母さんと一緒にお店をやりたいなあ』
それは子供が自分の無邪気な夢を口にしただけだったのだろう。
だけど、その言葉を聞いた私は、その夢を叶えたいと思った。
子供の他愛のない願いだったとしても、自分の店を持つという願いは私の長年の夢だった。それを自分の娘と共に叶えられるというのは願ってもないことだ。
それが私の夢と、娘の夢が重なり合った瞬間だった。
それから必死に働いて金を稼ぎ、やっと開いた店がゴーフ雑貨店だ。
様々な土地の民芸品や雑貨が大好きだった私と、私が蒐集したそれらを目を輝かせて眺めていた娘の夢が詰まった大切な場所だ。
しかし、私は折角作ったその夢の場所に妻子を呼ばず、多くの客が賑わう人気の店になるまでは情けない姿は見せたくないと自分の意地に拘っていた。
「……妻と娘をアイルベンに呼ぼう」
大切な宝物は見守っているけれど、魔法使いはもう二度と娘には会えない。
だけど、私は違う。
しかし、このままつまらない意地に囚われていれば、いつまで経っても私達の願った夢は叶えられない。
魔法使いのように大切なものをなくしてしまってから悔やんでも遅いのだ。
今できることがあるのなら、後悔しない内に行える方がきっと良いに違いない。
『売れない本屋と勿忘人形』
この店で出会ったたった一冊の本。
その中に詰まった不思議な物語に魅せられ、自分の叶えたかった夢を再認識することが出来た。
本当に大切なものを思い出すことができた。
本の表紙を優しく撫で、私はそっと息を吐いて、
「いつか、私の娘にもこの物語を読ませたい。それが私の新しく出来た夢だな」
そんな新たな夢を口にして、久方ぶりに心の底から笑みが溢れてくる感覚に浸っていると、ウェイトレスの少女がゆったりとした歩みでこちらの席に歩み寄り、待ちかねた待望の料理をそっとテーブルの上に置いた。
「お待たせ致しました。豚の生姜焼きでございます」
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