第22話 豚の生姜焼きと『売れない本屋と勿忘人形』.3

 注文を終え、このレストランの不思議なサービスである読書を楽しもうと、ゴーフは店の奥に置かれた本棚の前に立って、棚に収められている本の背表紙を眺めていた。


(さて、一体何を読もうかな)


 眼前に整然と並べられてある本はどれも見事な装丁が施されており、タイトルを見ても全て見聞きしたことのない物語で占められていて、ここの店にしかない世界に一冊だけの本がこうして目の前に存在していることに高揚感を覚えた。

 この店を訪れる客しか読むことの出来ない物語に触れることが出来る。

 それはとても独占欲を刺激して、ゴーフは本のタイトルを順繰りに目で追っていく。

 空き時間は毎日の売り上げアップの為の案を練ることに注力する生活が長い間続いているので、久しく読書という習慣からは離れていた。

 紙の書籍というのは案外重く、何冊も持ち歩いていれば背負う鞄の重量も相応なものになるので体力も消耗する。

 なので、行商人時代は本を購入する機会もなく、本に触れることも少なかった。

 しかし、経営状況に大きな不安があるものの、まがりなりにも自分の店を持つことが出来た今では、都市の古本屋で安売りしている文庫本を数冊購入して、就寝前に鎧戸を開けて月明かりを取り込んだ寝室で読書を楽しむ時間が癒しとなっている。

 なので、美味しい料理と読書が楽しめるというコンセプトのこの店は、かなりゴーフの好みだった。

 豚の生姜焼きが届くまでの間、有意義な読書タイムを満喫しようではないか。


「ギルバートさんが絶賛していた『赤猫キキの大冒険』というのは……おや、見当たらないな」


 黒帽子を被った雌の赤猫が表紙に描かれているらしい、ギルバートお気に入りの一冊を是非読んでみようかと思ったが、生憎と不在のようだった。


「本棚にないということは、他の客が読んでいるのか?」


 今の店内にいる客は自分を入れて3人。

 ゴーフ以外はギルバートと、カウンター席にいる少女のみだ。

 ギルバートはゴーフの店で購入したぬいぐるみの入ったラッピング付きの箱を手に、どのようしてアンナという少女にプレゼントしようかと思い悩んでおり、手渡す際に何か気の利いた台詞はないかと思案中だ。

 ならば、残る一人は……。

 ゴーフがカウンターに視線を向けると、カウンター席に座っている栗色の髪の少女が熱心に一冊の本を読み続けていて、すっかり物語の世界に没入しているのが見てとれた。

 先程まではこの店のマスターらしい少年にチラチラと熱い視線を向けていたが、今は自分の目の前に広がるもう一つの世界にどっぷりと浸っており、周囲の様子は既に眼中にはない様子だった。


「……あれでは、読ませてほしいとは言えないな」


 本は自分を全く別の世界に連れて行ってくれる魔法のような物だ。

 魔法にかかっている少女に無理に声をかけるのは無粋だろう。

 ここは別の本を探す方が得策か。

 視線を本棚に戻し、他に興味を引かれるような本はないかと物色していると、とある本の背表紙が目に留まる。


「これは……」


 目に入ったタイトルが気になったその本を取り出して表紙を向けると、そこには沢山の本に囲まれた本屋の店内で本を読む口髭を蓄えた中年男性と、テーブル上に置かれた小さな女の子の人形がその男性をじっと見詰めているというあまり見たことのない構図というか取り合わせの絵が精緻に描かれていた。

 不思議な絵柄の本だなという感想を思い浮かべながら、背表紙にも書かれていたタイトルにそっと指を這わせて、指先に感じるその文字の羅列を読み上げる。


「『売れない本屋と勿忘わすれな人形』か……」


 金色の刺繍文字で書かれたタイトルを口にし、『売れない』という言葉に奇妙な仲間意識を感じて、小さく相好を崩す。


「私は売れない雑貨屋で、こっちは売れない本屋か。どっちも気苦労の多い生活だな」


 本が自分の苦労や逼迫した経営状況の愚痴になんて付き合ってくれる訳がない。

 全て自分が己の境遇とこの本の表紙に描かれた閑古鳥の鳴く本屋の主人を重ね合わせているだけだ。

 だけど、ついつい零してしまった独り言がじんわりと本に染み込んでいくかのような不思議な感覚に浸ってしまい、自然とこの本が読んでみたいという気持ちになってくる。

 偶然目に飛び込んできた本の中では一番この作品が気になっているし、ギルバートのオススメの本は恋する少女を物語の世界へと誘っている真っ最中だ。

 ならば、日々の苦労を忘れさせてくれる手慰みの相手としては、この相手が現状では最適だろう。

 ゴーフはその本を手に席に戻り、頭の中で目を掛けている衛兵見習いへのスマートなプレゼントの渡し方の構想を練っているらしいギルバートに一応軽く会釈をして(案の定、頭をフル回転させているらしく周囲の様子になど全く気が回っていないギルバートはこちらの動きには気付かなかった)、ゆっくりと本の表面を優しく撫でる。

 未知の料理が届くまでの間、自分はこの本でどんな未知の物語を垣間見ることが出来るのだろう。

 自分が見たことのない世界を知らせてくれた瞬間。

 自分とは異なる視点や考え方をした登場人物達の想いに触れる瞬間。

 そんな瞬間に出会えた時、本という別世界に連れて行ってくれる魔法にかかったことに大きな感激と感謝を感じる。

 本とは、読み手を自分だけではきっと思い描くことも出来なかった様々な世界へと導いてくれる案内人だ。

 この本はどんな世界を、どんな想いを見せてくれるのだろう。

 まだ見ぬ世界に旅立つ時の不安と、どうしようもない程のワクワクとした高揚感。

 行商人として様々な未知な土地や料理、人との出会いを得た自分が今まで体験してきたようなそんな感情が、まだ見たことのない世界が本の中には詰まっている。

 だからこそ本を読むことは面白い。

 読書は旅だ。

 行商人を辞めた自分でも、商売が上手くいかずに行き詰まっている自分でも、ゴーフという男はいつでも旅に出ることが出来るのだ。


「さてさて、お前さんはどんな店をやっているんだい。私の寂れた店とどっちがいい勝負か、見させて頂こうかな」

 

 行商の旅を終えて自分だけの止まり木を見つけた筈なのに、今度はそこを守ることばかりに囚われてどこにも飛び立てなくなってしまった自分と、この本の中で暮らす同じ商売人ははたしてどう違うのだろうか。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、ゴーフはゆっくりとページを開き、未知なる世界へと旅立って行った。

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