第18話 プリンアラモードと『泣き虫ルビーちゃん』.6
目の前に置かれた幸せの魔法を前に、ミーナはゴクリと思わず喉を鳴らす。
見れば見るほど、早くその魅惑的な味を味わいたいと願ってしまうのに、それと同じ程美術品のように美しく彩られたこの食べ物の形をスプーンで崩してしまうのが惜しいと思ってしまう。
勿体ないと思う。
しかし、この魔法のデザートはマスターが私一人の為に作ってくれた物。
それに手を付けずにこの店を去るという選択肢はミーナにはなかった。
銀匙を手に取り、宝石箱の如き煌きを放つ魔法にゴクリと生唾を飲む。
私とマスター以外に誰もいない店内。
今もなお降りしきる雨が窓を打つ音と、マスターが厨房となっているカウンターの中で洗い物をしている音だけが室内に響いていて、そんな静寂な空間を明るく照らす天井に吊り下げられたランタンの明かりが私を照らしていた。
そんな幻想的な空気にあてられたのか、魔法使いの家に迷い込んでしまった童話の少女になった気持ちになりながら、私は匙を魔法へと向けた。
「まずはどれにしよう……」
このデザートは中央に鎮座する黄色のプルプルとした不思議なお菓子と、その周囲に美しく散りばめられた果実とクリームのコントラストが非常に見事だ。
それゆえに、一体どこから食べ始めれば良いのかがよく分からない。
多分、正解などはないと思う。
どれから食べてもマナー違反という訳ではない筈だ。
見るからにこのデザートのメインである中央のプルプルからでも、その周りに飾られた甘い果汁を滲ませた断面を見せているスライスされた果実や白雲のようなクリームからでも問題はない。
「……どれから食べよう」
こんなに魅力的な物を散りばめられていれば、決めるに決められない。
匙を手にした手を顎の近くに寄せ、そのまま思案に耽ってしまう。
そして、そのまま数分程も硬直してしまっていたことにハッと気づくと、私は匙を再び器に向けて覚悟を決める。
「早く食べないとデザートが生温くなってしまいまうから、もう食べないと。ええっと、まずはこれから」
このデザートは器越しからもひんやりとした冷気を漂わせていて、冷やした状態で食べることを想定されたお菓子であることは容易に察せられた。
今は瑞々しい果汁を見せている果実も時間が経てば渇き、せっかくのサッパリとしたフルーツの甘さや果汁滴る果肉の食感が台無しになってしまう。
本命である中央から攻めずに、まずその脇に添えられた薄緑色の果肉を覗かせる果実のスライスに狙いを定めることにした。
匙からフォークへと持ち替え、ゆっくりと刃先を果肉に沈めてみる。
「うわぁ、何の抵抗感もない。それに刺しただけで果汁が泉みたいに溢れてくる」
フォークの刃先に穿たれた穴からは透明度の高い芳醇な甘さを放つ果汁が滾々と湧き出し、濃厚な果実特有のべたつきのないサッパリとした香りが鼻腔をくすぐり、私は待ちきれずにそれを口に運んでしまう。
口に含んだそれをゆっくりと味わう。
そして、一噛みした瞬間に大きく目を見開く。
「! 甘いけれど、ネットリとした感じもなくて後味もサッパリしていて、すごくおいしい!」
鼻腔を突き抜けた甘く芳醇な香りには強烈な甘みがあったので、てっきり砂糖の塊のような甘すぎて口にベッタリと残るような後味を予想していたけれど、それを良い意味で裏切る程の濃厚でありながらも、口の中をスッと通り抜けていく清涼感のある風味が最高の一言に尽きる。
果汁が豊富で水分を多量に含んでいるのにシャバシャバとした薄味でもなく、柔らかな果肉を噛む度に口の中に広がるジューシーな果汁の海に溺れてしまいたくなってしまう。
その未知の味に夢中になり、器の中に残っていた同じ果実もパクパクとお口の中に運び、気付けば器の中のあの果実はすっかりと姿を消してしまっていた。
うっ、美味しすぎてつい……。
「こんな果物、今まで食べたことない……」
フォークを片手に呆然と先程まであの果実の載っていた器の一角を未練がましく注視していると、その様子を見てクスッと口元に手をやったマスターがカウンターから顔を覗かせる。
「メロンはお気に召しましたか?」
「メロン? それが私がさっき食べた果実の名前ですか?」
「ええ、その通りです。他にも新鮮な果物を使用していますので、果実本来の甘さをお楽しみ頂けると思いますよ」
ニッコリと微笑むマスターの柔和な表情に頬が赤くなってしまう。
うう、どうして、マスターを見ていると顔が熱くなってしまうんだろう。
何やら良く分からない未知の熱感に戸惑いながら、私は匙を再び伸ばし他の果実も食べてみるが、どれも口の中でジュワッと果汁が爆発して、サッパリとした甘さがやみつきになってしまいそうな美味しさだった。
こんなにも素敵で美味しい物や、人の心を打つあんな物語を紡いでしまうこの人は本当に魔法使いなんだと心の中でそっと呟いた。
「……そろそろ、メインにいこうかな」
器をふんだんに彩っていた宝石の如き果実達の大半を味わい、最早それだけで満足してしまいそうになったけれど、このデザートのメインであろう中央のお山に匙を向ける時が来た。
自然とゴクリと喉を鳴らし、ゆっくりと匙で山の中腹辺りをすくってみる。
プルン。
何の抵抗感もなく、匙から伝わってきた想像以上の柔らかさに、「あっ、すごく柔らかい」と自然と口から言葉が漏れる。
匙から伝わる赤ちゃんのほっぺたのようなプルプルとして滑らかな感触でありながらも、匙ですくったにも関わらずすくったままの形を崩すことなく黄色く輝くそれに、まるで童心に帰ったかのように胸がワクワクしてしまう。
ゆっくりと匙を口に運び、私の心をときめかせる魔法を味わう。
舌の上に載せたそれは口の中でまるで糸がほどけたかのように溶けて……
私は魔法にかけられた。
「……美味しい。とっても美味しいです」
なめらかに口の中に広がるのは、濃厚な卵のまろやかな甘さ。
そして、それを引き立てているのは恐らくミルクだ。
このプリンと呼ばれるお菓子には強烈な卵のまろやかさがあるけれど、それを相殺してしまうことなくより味に深みを与えているミルクのコクが、濃厚な甘さを持ちながらも全くくどさを与えない役割を果たしているので、何度食べても飽きさせない風味に仕立て上げてくれているのだ。
シンプルな味わいでありながらも、何度でも食べたくなってしまう不思議な魅力に彩られたプリンというお菓子に私は一瞬で魅せられてしまった。
試しにふわふわの雲のように真っ白なクリームも匙にすくい、プリンと一緒に味わってみる。
「……これは禁断の味かもしれない」
口の中で優しくほどけて溶けていくプリンの身も心もとろけてしまいそうなまろやかな甘さと、滑らかな舌触りのクリームが口の中で渾然一体となって素晴らしいハーモニーを奏でる。
この組み合わせを考えた人は本当に天才だと思う。
こんな天上の世界にしか存在しないようなお菓子に出会えたことに感謝しなければいけないと思う程の美味しさに、私は既に心が満たされていた。
だが、ふと、プリンの最上部に位置する茶色のソース部分に目が留まる。
「そういえば、この茶色い部分は何だろう?」
揚げ物の味付けや料理の調味料として茶色っぽいソースなら見たことがあるけれど、まさかこの甘味の宝庫である盃にそんな甘辛いソースが使われているとは思えない。
貴族や王族のお菓子でチョコレートと呼ばれる茶色っぽい食べ物があるらしいけれど、まさかこれがそうなのだろうか?
おずおずと匙で茶色のソース部分と、黄色のプリン部分を一緒にすくい、口元に近づける。
(あっ、ほろ苦そうな香り)
口元に持ち上げた匙から鼻腔へと漂ってきたのは、予想に反したそんな匂いだった。
一瞬、マスターがソースを煮詰める際に火加減の調整を間違えてソースを焦がしてしまったので焦げ臭い香りが残ってしまったのかと思ったが、プリンの卵と牛乳の新鮮さに溢れた濃縮された甘い香りと、このほろ苦い香りが合わさると何とも言えない心地良さで胸が満たされる。
私は正直言って苦みのある物は苦手だ。
珈琲は砂糖やミルクを入れないと飲めないし、飲んだことはないけれど大人達が赤ら顔で美味しそうに飲んでいる
だけど、このまるでプリンの強い甘さを邪魔することなく、まるで隣に寄り添うようにしているこのソースはそれらとはまた違った不思議な魅力を放っていた。
きっと、これがこの魔法の真骨頂に違いない。
それを感じ取りながら、私は意を決して口を開き、ソースごとプリンを咀嚼する。
「……」
私はそれを黙々と咀嚼し、ゆっくり時間をかけてから飲み込む。
そして、匙を器に伸ばして2口目を頬張る。
黙々と口を動かす。
そして再び3口目を頬張る。
そして、4口目も……。
その後は、手が止まらなかった。
ソースのかかった部分とプリンが口の中で溶け合って見事に調和する度に、とてつもない幸福感に襲われる。
クリームや果実と一緒に頬張れば、サッパリとした果汁の瑞々しい甘酸っぱさとミルクのまったりとしたコクに心が虜になる。
魔法だった。
これは魔法のデザートであることを身を以て再認識した。
プリンの濃厚な甘さを上部の茶色のソースのほろ苦さが引き立てていて、程よい苦みが口の中に残していく僅かな苦みが匙を動かす原動力になり、次々と匙が器と口を何度も行き来してしまった。
夢中になって食べ進めてしまった結果、見事に綺麗さっぱりと消えてしまったデザートの器を見て、あんな素敵な料理を最後まで堪能出来たことに対する満足感と、もう食べることが出来ないという物悲しさがない混ぜになった複雑な面持ちになってしまう。
こんなに不思議で、こんなにも心が躍ってしまう魔法の料理は食べたことがなかった。
きっと、お値段もそこらの喫茶店の軽食とは比べほどにならないに違いな……はっ!?
「そうっ、お金っ!?」
今までプリンアラモードに夢中になっていたけれど、私のお小遣いは母親から月に一回貰えるけれど、それを見計らっている様子の学舎でいじめを行っている同級生達にその度に無理矢理ひったくるかのように奪われてしまうので財布にはほとんど持ち合わせがない。
こんな王都の片隅のレストランじゃなくて、王宮勤めの料理人としても十分に通用しそうな素敵な料理を提供しているこのお店ならきっとそれに見合うだけの高額な値段設定になっているに違いない。
先程までの夢見心地な気分から一転して、切実なお金の心配に顔面蒼白になってしまう。
このままでは無銭飲食になってしまう。
すると、そんな私の様子を気付いたのか、カウンターの中で料理の仕込みをしていたマスターが怪訝そうな表情でカウンター越しがにこちらに歩み寄って来た。
「どうしましたか、ミーナさん?」
「あ、あの、実はプリンアラモードはとっても美味しかったんですけれど……その、持ち合わせが……」
あまりの申し訳なさと強烈な恥ずかしさで消え入りそうなくらいの小さな声しか出なかった。
だけど、マスターは私の声をしっかりと聞き取ってくれていたようで得心がいったような表情で頷く。
……怒られるのだろうか?
内心でビクビクと震えながら、マスターの顔を見ると、彼は私の心を安心させてくれるような柔和な笑みを浮かべて胸元で両手を振った。
「ご安心ください。今回は私が勝手に提供させて頂きましたので、お代は頂戴いたしませんので」
「えっ、でも、それは流石に悪いですし……」
お風呂も貸してもらって、本も読ませてもらって、デザートまでタダで頂いてしまうのは、こちらとしても落ち着かない。
マスターの厚意とはいえ、何かしらのお返しはしないといけないと思った。
私がそこだけは譲れないという面持ちでいたせいか、マスターが思案げに顎先に手を添えてしばし考え込むと、彼はそれならばと、私の目を優しげに見詰めて、
「私としてはプリンアラモードの代金は結構なのですが、ミーナさんはそれでは心苦しい訳ですね?」
「はい。ご厚意は嬉しいですけれど、そこまでして頂くのは申し訳なくて。お金は今すぐにはお支払いできませんけれど、一ヶ月以内には必ずお支払いに来ますので」
来月のお小遣いで代金が足りるのかは分からないし、お金がないと同級生達に言えばまた髪を切り刻まれたりひどい嫌がらせを受けることは間違いない。
だけど、一人ぼっちの濡れ鼠を優しくこのお店に導いてくれた人に何も返さずに立ち去るのはどうしても嫌だった。
「……それでは、代金の代わりにミーナさんには……」
「は、はい」
緊張を孕んだ私の声に、マスターは何か愛おしいものでも見るかのような温かな視線を向けて、
「またこのお店に来てください」
「……えっ?」
「暇な時で構いません。心が痛くて、苦しい時でも構いません。
貴女がここに来たい時と思った時にこの店のドアを開けて下さい。
ここは貴女の居場所です。少なくとも、ここに一人、貴女とお話をしたり、貴女が本の世界に浸っている時の横顔をまた見たいなあと思っている人間がいます。
読書をするだけでも構いません。
私と話をするだけでも構いません。
少し懐が温かい時には、またプリンアラモードをご馳走致します。
私はここで待っています。
ミーナさん……私は貴女とこうして出会えたことにとても感謝しています。
ミーナさん、またのご来店をお待ちしております」
「……ず、ずるいです」
本当にずるい人だ、この人は。
どうして。
どうして、本当にこの人は。
こんなにも、温かいだろう。
両目から塩辛い雫がポロポロと零れて、カウンターの木目を濡らしてしまう。
嬉しかった。
救われた。
私は一人ぼっちだった。
ずっとそうなんだと思っていた。
だけど、今日からは違う。
ここは。
この場所は。
この人は。
私の大切な居場所なんだ。
涙でグシャグシャになった顔をこの人に見せることに一瞬
私は、もうやり方も忘れてしまったぐらい前でぎこちなさを残していたけれど、
「絶対にまた来ます」
今の自分に出来るとびっきりの笑顔をマスターに返した。
『サクラ亭』を出て、マスターの貸してくれた傘を差しながら家路に着く。
降りしきる雨に打たれるのはもうやめよう。
濡れた路地の道を歩きながら、私は母にいじめのことを告白しようと決意する。
泣かせてしまうかもしれない。
どうして言わなかったのかと怒られてしまうかもしれない。
だけど、もう一人で抱え込み続けて自分を傷付け続けるのはもうやめようと思った。
『サクラ亭』で出会った素敵な人。
彼の生み出す素敵な本と料理。
小さかった自分の世界は、今日ほんのちょっとだけ広がった。
そこで出会ったものに感謝する為に。
教えてもらったことを無駄にしない為に。
時間はかかるかもしれないけれど、少し前を向いてみよう。
そうすれば、ほんの少しかもしれないけれど、世界は色を変えるかもしれないのだから。
濡れ鼠だった少女はそんな思いを胸に抱きながら、大切な居場所であるあのお店のある背後を振り返り、
「また、会いにいきますね」
優しく笑う彼を思い出す度に胸がドキッと弾んでしまいそうになる不思議な感覚に戸惑いつつ、母の待つ家へと歩き続けた。
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