第17話 プリンアラモードと『泣き虫ルビーちゃん』.5
ひとしきり泣いた後、ミーナはマスターの貸してくれたハンカチで目元を拭った。
とめどなく溢れていた涙も徐々に収まり、小刻みに震えていた口元や肩もある程度の落ち着きを取り戻した頃合いを見計らったようなタイミング(実際のところ、きっと私の心が少し楽になるまでそっとしておいてくれたのだと思う)で、気を遣って私の側をそっと静かに離れていたマスターがカウンターの前に歩み寄ってくる。
マスターはこちらの泣き腫らして赤く染まった目元を軽く一瞥はしたけれど、それには触れず、お冷のおかわりをグラスに注いでくれた。
「落ち着きましたか?」
「は、はい。すみません、随分とお見苦しい姿を……」
彼が差し出してくれたグラスのひんやりと冷たい硬質な手触りを感じながら、私はカウンターにおでこがぶつかりそうな勢いで頭を下げた。
自分自身を重ね合わせてしまう『泣き虫ルビーちゃん』の物語と、マスターの温かな言葉に心の中に溜め込んでいた澱んだ気持ちが決壊してしまって、溢れて止まらなくなってしまった。
冷静さを取り戻してくると、会ったばかりの人の前でボロボロと涙を零しながら、自分の弱っていた部分を曝け出してしまったことに対する気恥ずかしさと、私のような見ず知らずの人間に優しく寄り添ってくれる人に気を遣わせて迷惑を掛けてしまったことに対する申し訳なさで胸が一杯になってきた。
頬が羞恥の熱で赤くなっているのを自覚しながら、私がマスターにそんな自分のみっともない顔を見せたくないという思いに縛られて頭を下げたままでいると、コトッという何かを置いたような音がカウンター上に小さく響いて、反射的に顔を少し上げてしまう。
何気なく向けた視線の先には……マスターの『魔法』があった。
魔法使いの作った宝石箱。
最初にそれを見た時にそう思った。
美しく透き通ったガラスの器は、まるで神殿で祭事を執り行う神官達が祭壇に祀っているような聖杯を想起させる清廉さを感じさせるグラスで、底はそれ程深くはないが全体的に横に浅く広く広がったお皿の部分に当たる盃の上部に、まるで絵本に登場するような色鮮やかに輝く宝石達が綺麗に収められていた。
中央に鎮座するのは今まで見たこともない円錐台の形をした黄色いプルプルとしたお菓子。
触らなくても分かる程柔らかな質感なのに、一切型崩れすることなく見る者を魅了する濃厚な甘い香りを放つ黄色の大山は、天井から吊り下げられたランタンの光を反射してキラキラと輝いていて、まるで夜空のお星様がお菓子に姿を変えたかのような現実離れした感動を与えてくれる。
そして、その黄色い大きな幸せの塊の上には茶色っぽいソースがかけられているのだけれど、黄色のプルプルとした物から漂う果物の甘さとは異なったまったりとした濃厚な甘い香りを引き立てるような鼻を抜ける不思議な香りがとても気になる。
そして更にその上に雲のように浮かんでいるのはふわふわで真っ白なクリームのような物で、茶色のソースの上に混じりけのない白雲が載っている姿には自然と胸が高鳴ってしまう。
最後にその雲の頂点に置かれた真っ赤なルビーのように赤く光り輝くチェリーは、その紅潮したお顔全体に透明感のあるシロップを身にまとっていて、マスターが丹念にシロップ漬けにしてチェリー本来の甘さとシロップのハーモニーを奏でられるようにしっかりと計算をしているだろうと感じた。
だけど、中心にそびえている魅惑の大山だけがこの魔法の魅力ではなかった。
それらの周囲には瑞々しい果肉を覗かせるスライスされた美しい薄緑色の果物や真っ赤なベリーのような果実等といった色鮮やかな果物で贅沢に装飾されていて、謎のふわふわの雲も果物の側に寄り添うように盛り付けられている。
これは幸せの塊だ。
食べなくても、一目目にしただけでそう直感してしまう程の天使の食べ物のような美しい姿。
私は言葉を失って呆けたようにマスターの用意してくれた魔法に目を奪われてしまった。
マジマジと視線を向けていると、気の良い安心感を感じさせる微笑みを湛えたマスターが、カウンター越しから仰々しく横に水平に伸ばした右手をそっと自分の胸元に添えるようにお辞儀した。
脈絡のない唐突なその仕草に私は目を白黒させてしまう。
この光景だけを切り取ってしまえば、これはまるで貴族のお嬢様と執事のようだ。
物語の中にしか登場しないような魔法のような美しい料理に、その魔法の使い手である黒髪の魔法使い。
そんな現実離れした眼前に息を飲む。
いじめで磨り減っていた心の傷も、今だけは自然と心から消え去って、この変わった魔法使いさんの言葉を待っている自分がいた。
「どうでしょうか、可愛らしいお姫様。不肖の身ではございますが、私の魔法は貴女様の心に一時の癒しを与えることは出来ましたでしょうか?」
軽く頭を上げて、茶目っ気のある笑みを浮かべて口元を緩めるマスターのいたずらじみた言葉に最初は面食らってしまった。
パチパチと瞬きをし、ニコッと笑うマスターの顔を真正面から見詰めてしまう。
あっ、よく見ると耳元が赤く染まっている。
どうやら、この魔法使いさんは結構な恥ずかしがり屋さんらしい。
この仰々しく所作や言葉も恥ずかしさを内心で無理矢理抑え込んでの名演技みたいだ。
目の前の優しい魔法使いさんは、物語が好きな私の為に少し変わった趣向でおもてなしをしてくれているのだ。
暗い暗い泥の底に沈み込んでいく私を雨の中で見つけてくれたこの人は、少しでも私に楽しい気持ちになってもらおうと恥ずかしさを必死に押し殺しながら、見ず知らずの女の子に幸福の魔法をかけてくれている。
それを思うと……胸がとてもポカポカとした。
久しく感じた事のない安らぎ。
誰から傷付けられるばかりだった日々を送り続けて忘れかけていたその温もりを肌で感じたくて胸元に手を重ねながら、私は笑っていた。
笑えていたんだ。
「……ふふっ」
不器用な人だなと思う。
私はとっくに机の上に置かれた魔法にかけられていたのに、彼はもう一度私に魔法をかけてくれるらしい。
なら、私は……
「はい、素敵な魔法がかかりました」
この素敵で彩られた出会いに感謝しよう。
ずぶ濡れの濡れ鼠に声を掛けてくれたこの人に。
鏡映しの自分を見ているような気持ちになりながらも、視点や考え方を少しでも傾けてみれば今まで見ていた世界が少しでも変化するかもしれないということを教えてくれた泣き虫な宝石に。
夢物語にしか登場しないような、見る者の心を虜にしてしまう魅惑の魔法に。
胸を締め上げる痛みに耐えかねて沢山のものを諦めて、投げ出してきた。
だけど、そんな私に手を差し伸べてくれた全てのものに少なくとも今は『ありがとう』と言いたかった。
「外ではまだ雨が降り続いております。急ぎの御用などがなければ、私の店でもう少しだけ雨宿りをして頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい、雨が上がるまでこちらで雨宿りをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
ああ、やまないで。
「勿論でございます」
晴れないで。
「お願いします」
ここにずっといたいと願ってしまうから。
魔法使いさんは、はにかんだような笑みを浮かべて、私の眼前で光り輝く魔法を手で指し示した。
そして、彼は『魔法』の名前を告げた。
「こちらは『プリンアラモード』でございます。是非ご賞味くださいませ」
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