第16話 プリンアラモードと『泣き虫ルビーちゃん』.4
パタンッと、真っ赤な宝石の書かれた表紙の本を閉じ、ミーナは胸元の服の生地をギュッと握り締め、顔を伏せた。
心が痛かった。
傷付きボロボロになった心の傷の間にそっと入り込んでくるこの物語の持つ悲しさや苦しみ、そして……貴女は生きていてもいいだよと言われたかのような不思議な温かさが染み込んでくる。
ズキズキと胸が痛い。
だけど、ポカポカとした温もりで心がそっと包み込まれるような安心感が本を通して流れ込んできて、心が落ち着かなかった。
マスターが、「サービスです」と言ってカウンターテーブルに置いてくれた水差しから透き通ったガラスのコップにお水を注いでコクコクと喉を潤すと、柑橘系の清涼感のある爽やかな後味が心のモヤモヤとした気持ちも一緒に洗い流してくれるかのような思いになった。
一気に飲み干してしまったコップを置き、水滴が付いたコップから一筋の涙のような雫が机上へとガラスを伝って流れていくのを眺めながら、厨房で『魔法』の準備をしているマスターの手元をなるべく覗き込まないように配慮して、素直に言葉を漏らす。
「……美味しいです」
「それは良かったです」
「マスターさんはどうしてこのお話を私に勧めたんですか?」
「何となくなんですが、今の貴女には読んでほしい物語だと思いましたので」
「……私が学舎でいじめられているって分かったんですか?」
「そこまで詳細に察することは難しいですね。ただ……」
マスターは作業の手を止めて、寂しげに口元を緩め、
「雨の中に立っていると自分の心の中に溜まった嫌な気持ちが洗い流されるように感じる気持ちは……私にも分かりますから」
そう言って微笑んだマスターの表情の私は息を飲んだ。
その顔は優しげで私への気遣いに溢れていた。
だけど、ほんの僅かだけれども、その笑顔の底にはどうしようもない程大きな傷をひた隠しにしているかのような寂しさを感じさせるような笑みだった。
ああ……この人はとても優しい人だ。
傷付いた人がいれば、関わらなくてもいいのに迷わず手を差し伸ばしてしまうようなお人好しな人だ。
そして……自分が傷ついていても、それを笑顔の裏にそっと隠して誰かの為に自分の辛い気持ちや悲しい想いに蓋をしてしまうような優しくて、優しくしたいと思えるような人だ。
この人も過去に大きな傷を負って、その傷口を癒すかのように、その傷口から胸の中の澱んだ感情を流して欲しいと願って雨の中に立ち尽くしたような日があったのかもしれない。
だからこそ、身も心もズタズタに引き裂かれて絶望の中に閉じ込められていた……いや。閉じこもっていた私が雨の中に立ち尽くす姿を見て、この不思議な物語が詰まった不思議なお店に私の手を引いてくれたのだ。
全ては想像だ。
全部私の恥ずかしい勘違いで、間違っているかもしれない。
だけど、今はそう思っていたい。
この胸が落ち着いていくような奇妙だけど穏やかな気持ちに浸っていたかった。
ミーナがそんな思いを抱いていると、マスターは作業を再開しながら私の手元に置かれた本に視線を向けた。
「その本はどうでしたか?」
「そうですね……。とっても悲しいけれどもとっても優しい。そんな不思議な気持ちになるお話でした」
「ははっ、まあ、確かにそんな感想を抱くと思います」
マスターは私の感想を否定することもなくにこやかに笑いながら、自分で書いた物語の書き綴られた本の表紙を見詰める。
「『泣き虫ルビーちゃん』は私の書いた作品の中でも結構暗めのお話なので、読まれた方からは賛否両論あるかと思う作品だと思います」
「……確かに、明るいお話が好きな人にはあまりオススメし辛いお話だと思います」
「ええ。でも、私はそんな万人にはオススメ出来ないけれども、ルビーちゃんのお話を通して書きたかったんです」
「……何をですか?」
「自分の価値、自分が生きていても良いのかという存在理由を他者からの評価で全て判断してしまうのは、絶対にやめておいた方がいいということです」
声のトーンは平坦だが、どこか実感のこもったようなその言葉に私はハッと息を飲む。
胸に刺さる言葉だった。
まるで自分のことを言われているような気持ちになってビクッと肩が強張る。
自分の価値をそれで、それだけで決めてきた私にとってはその言葉は胸にとげが刺さるかのような痛みが伴うことだった。
その言葉を認めてしまえば、今までの自分を認めないような気になって、ついカウンターに手を付いて反論を口にしてしまう。
「でも、人に必要とされないと生きていたって仕方ないじゃないですか」
「ミーナさんは誰からも必要とされていないと思うんですか?」
「はい。私は何の取り柄もないし、いじめのこともお母さんに心配をかけてしまうからって尻込みしてしまって言い出せない意気地なしだし……良いところなんて何にもないです」
「ミーナさんがお母さんにいじめのことを言えないと思うのは、貴女が自分の大切な人に辛い思いをしてほしくないと、涙を流してほしくないと願う優しい気持ちだと私は思います。それは、とてもとっても貴女の素晴らしいところですよ」
「そ、そんなの……私は弱いから、そんなことしか出来ないから」
「ミーナさん、私は思うんです」
どんどん言葉が力を失って萎れていく私の瞳を真っすぐに見詰めて、マスターは言った。
「大切な人を悲しませたくないと心が引き裂かれるような痛みに歯を食いしばって必死に耐えることが出来る人間が弱いなんて絶対にありません。
誰かの為に頑張れる人が弱い訳がありません。
胸を張って良いんです。
自分の大切な人の心を守る為に、自分の心の痛みをこらえて生きることが出来る人は最強なんです。
ミーナさん、貴女はとってもとっても立派で強くて優しい女の子なんですよ」
「……ははっ」
私は学舎でいじめられ続けて、心が摩耗していく中で自分なんて生きていても何の役にも立たない駄目な人間なんだと思い続けてきた。いや、思っている。
毎日の食事に毒を少量盛られているかのように、徐々にゆっくりと心を蝕んでいくかのように心がボロボロと崩れていった。
自分以外の皆は毎日笑顔で楽しそうに笑っていて、勉強や運動や何かしらの褒められることをして先生達から優しく接してもらっていて、休日には笑顔で両親や友達と街を歩いている姿を見かける。
だけど、私はどうだろう?
毎日毎日学舎に勉強に行く。
毎日毎日心を壊されに行く。
毎日毎日死にたいと心の中で唱え続ける。
人から無視される。
人から認めて貰えない。
人から誉めて貰えない。
ない。
ない。ない。
ない。ない。ない。
何にもない。
誰か。
だれか。
私を見て。
「うっ……ゔゔっ……ううゔっ」
気付けば泣いていた。
辛かったこと。
悲しかったこと。
苦しかったこと。
悔しかったこと。
色々な気持ちがぐちゃぐちゃになって涙が溢れて止まらなかった。
初めて自分を見てくれる人に出会えた気がした。
初めて自分を認めてくれる人に出会えたんだと思えた。
それがひたすらに嬉しかった。
「わぁ……わ、私……頑張りましたか?」
「ええ、とても頑張りました」
「わ、わだじ……つ、辛かったんです」
「ええ、ミーナさんは頑張りすぎたんです」
「わぁ……私、み、皆から嫌われて……」
「他の人が貴女を嫌っても、誰かの為に頑張れる貴女のことを私は大好きですよ」
「わ、私のか……髪が、ど、泥みたいな色だって……」
「綺麗な栗色で、私は好きです」
「わ、私は、隠れて本を読んでいて、ね、根暗で、き、気持ち悪いって……」
「夢中になって本を読む貴女の横顔は、とても綺麗だと思います」
「お、お前になんて、どこにも居場所がないんだって言われて……」
「それなら、ここを貴女の居場所にしてください。いつでも、このお店は貴女を歓迎しますよ」
……言葉が出ない。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
どんな言葉をこの人に届ければいいのか分からなかった。
私のすすり泣く声が雨音が静かに響くお店の中に響く中、マスターが私にハンカチをそっと差し出しながら、私の頭を撫でてくれる。
「人からの評価というのは人によって千差万別です。
もし優しくて心配りが出来るけれど仕事はあまり出来ない人がいれば、仕事の効率を重視する人はその人のことを役立たずでダメダメな人と評価するでしょう。
ですが、仕事の効率よりも人柄を重視する人なら誰かの為にせっせと気配りをしているその人のことをダメダメな人だなんて評価したりはしません。
貴女のことを嫌う人達の為に頑張る必要なんてありません。
貴方のことを大好きだと、大切なんだと言ってくれる人の為に頑張る方がきっと素敵に、そして何より楽な気持ちになれると思いますよ」
そう言ったマスターの掌の温もりを感じながら、私はそっとハンカチで涙を拭き取り、『泣き虫ルビーちゃん』の表紙を撫でる。
「私にも、大切な人と場所が出来たよ」
そう言った時、表紙に描かれた宝石がキラリと赤く輝いたような気がした。
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