第14話 プリンアラモードと『泣き虫ルビーちゃん』.2

 マスターに招き入れられたミーナは、浴室に備え付けられたシャワーという温かいお湯がとめどなく湧いてくる不思議な魔導具や、柑橘類のサッパリとした香りがする液体の石鹸という未知の道具の数々に目を白黒させながらも、入浴前にマスターに教わった通りにそれらを利用して入浴を済ませた。

 脱衣場に出る前に用意してもらっていたフワフワのバスタオルで髪と全身を拭いて脱衣所の床を濡らさないようにして脱衣場に出ると、すぐ側の棚に置かれた藤籠の中に着替え用の衣服が収まっていた。

 マスター曰く、このお店で働いているもう一人の家族が以前着ていた服で、今はタンスの肥やしになっているから遠慮なく着てほしいということだった。

 シンプルで飾り気のない白地のシャツに黒と赤のチェック柄の膝丈のスカートという組み合わせで、普段は身に着けない趣味の服だったが、厚意で用意して貰った物を着ないのも失礼だし、たまにはこういった服を着てみるのも悪くはないのかもしれないという思いを抱きながら着替えを済ませる。

 着替え終わり脱衣場を出て廊下に出ると、


「ええっと、確かこっちだよね」


 他人の家でお風呂に入るなんて初めての経験で、まだ落ち着かない心地だが、マスターに案内してもらった時に通った廊下を歩き、照明の光が足元から漏れ出している扉を見つける。

 ゆっくりとノブを回しドアを開けると、店内の天井に吊り下げられているガラス製のランタンに灯っている暖かな光が差し込み、その思いがけない眩しさに思わず目をつむる。


「おや、もう上がられたんですね? もっとゆっくりとお湯に浸かっていても良かったんですよ?」


 少しチカチカをする目元を服の袖でゴシゴシとこすっていたら、カウンターの奥からヒョッコリと顔を覗かせたマスターと視線が合い、私は反射的にばつが悪そうな態度で、


「ひ、人様の家のお風呂だと落ち着かないので……」


 と可愛げのない返答を返してしまう。

 ああ、私ってどうしてこうなんだろう。

 人からの厚意に長い間触れてこなかったせいで、相手からの優しさに対してどんな言葉を返したらいいのかが分からない。

 ついつい棘のあるような声音が口から飛び出し自己嫌悪に陥ってしまう。

 ……嫌われただろうか?

 人から嫌われるというのには慣れている。いや、慣れるしかなかった。

 他人からブスブスと悪意で心を刺され続ける痛みは馴染み深いものだけれど、自分が他人を傷つけて嫌われるという構図はいじめられ続ける事の痛みとは異なる痛みを伴うような気がする。

 恐る恐るマスターの顔色をチラリと窺う。

 するとそこには、こちらの言葉に気を悪くした様子もなく、


「ああ、それは確かにそうかもしれませんね。私もミーナさんの立場なら、慣れない他人の家のお風呂でのびのびとくつろぐというのは中々出来ないかもしれません」


 と納得した表情で気の良い微笑みを浮かべてこちらを優しげに見詰める男の人がいた。

 それを見た瞬間、知らず知らずのうちに強張っていた顔や肩の緊張が自然と和らぎ、肩がストンと落ちてハァーッとお腹から息が零れる。

 人は怖い。人と接する事が怖い。

 学舎という小さな世界でありながらも、子供にとって学舎で過ごす時間というのはまるで世界の半分にも錯覚する程の空間だ。

 世界の半分から否定され嫌悪され続ける日々の中で心が摩耗していく度に、人と話す事が怖くなっていった。

 意地悪なクラスメイトが隣に立っただけで、文字通り息が詰まるような感覚に陥って心が苦しさに溺れていく。

 そんな汚泥のような痛みに心が浸蝕されていくような気持ち悪い感触に苛まれていた日々が続いていただけに、今のような何の打算も邪気もない本当に私の事を心配してくれていたんだという暖かな気持ちにまるであてられてしまったかのように、心が弛緩してしまった。

 思っていた以上に体全体が緊張感に支配されていた事実に今更ながらに気付いて足元がぐらつくような感覚に飲まれそうになり、咄嗟にドアの近くの壁に背中を押し付けて体重を預けてもたれかかる。

 突然私が体調を崩したかのように映ったのだろう。

 マスターはハッとした表情を浮かべてカウンターの端に駆け寄って跳ね上げ式の天板を上げてカウンターを飛びだすと、私の側に駆け寄ってくれる。


「ミーナさん、大丈夫ですか!? まさかお風呂でのぼせたのでは?」


「い、いえ、大丈夫です。ちょっとふらついただけなので……」


 思ったよりもかなり心配している様子のマスターになるべく愛想が良さそうに見えるように笑みを返すと、ひとまずは問題はないと判断したらしいマスターはそっと私から離れる。


「それなら良いのですが……。体調が優れないようであれば、遠慮なく言ってくださいね」


「ありがとうございます」


「いえ、どうかお気になさらずに。お風呂上りで喉が渇いているでしょう? 冷たいお水でもお出ししますからカウンターに腰掛けていてください。……あっ、それから」


 カウンターの中に戻ろうとしていたマスターは、若干の気恥ずかしさを滲ませた頬に赤みの差した顔を私の位置から右側にある本棚の方に指を向けた。


「あちらの棚にある本は私の書いた本なんです。面白そうな本があれば自由に手に取って頂いて構いません。無料ですので、遠慮せずに読んで頂いて結構ですので。

 近くに置かれた丸テーブルには紙と羽ペン等が置いてありますので、もし自分で物語を書いてみたいと思ったら、自由に使って頂いて構いません。出来上がった原稿は私がお預かりして製本させて頂きますので、もしよろしければ」


「あそこにある本が自由に読めて、自分でもお話を作ってもいいのですか?」


「ええ、それがこのお店のサービスの一つでもありますから」


「……本なんて随分と読んでいないんです」


 いじめからの現実逃避にと休み時間にこっそりと読んでいた本が、いつの間にか学舎で飼育している家畜の糞処理場に捨てられているのを目にしてから読書をするのも嫌になってしまった。

 家にある本にも埃が被っていて活字を読む楽しさも久しく忘れてしまっている。

 今のような荒んだ心で読んでいても、純粋に物語を楽しむ事なんて出来ないだろうと思うから。

 自然と顔が俯いてしまい、床の木目と視線を合わせてしまうような根暗で卑屈な自分がピカピカに磨かれ清掃された床に移り視線がぶつかる。

 マスターはそんな私の姿を見てもげんなりともせずに、カウンターに両手を付いて声を届かせる。


「ミーナさん、私はこれから『魔法』の用意をします」


 恥ずかしがる様子もなく毅然とした面持ちでそう言ったマスターに思わず顔を上げて目を白黒させ、首を傾げる。


「ま、魔法ですか?」


 魔法を用意するというのは一体どういう事なのだろう?


「はい、魔法です。しかし、それを完成させるには少し時間が掛かりますので、ミーナさんには本棚にある一冊の本の試し読みをお願いしたいのです」


「……本の試し読みですか?」


「ええ、その本は先日完成させた新作で本棚に加えたばかりなのですが、まだお客さんにも読んで貰えていませんし、雇っている給仕の娘も生憎と買い出しに出ていまして……。

 ミーナさんに読んで貰えると書き手として嬉しいのですが、どうでしょうか?

 お礼にこれから作る『魔法』のお代は頂かないと約束しまうので」


「……分かりました」


 真摯な態度でこちらにそう頼んできたマスターの人の良さそうな笑顔を向けられ、反射的にそう答えてしまっていた。

 ずぶ濡れになった私をお風呂に入れてくれて、びしょびしょになった制服も洗濯しておくので明日取りに来てくれたら良いと言ってくれたこの男の人の役に立てるなら本を読む事ぐらい引き受けても問題ないと思った。

 私では何にもお返し出来るものなんてないし、そんな程度の事で恩を返せるとも思えないけれど何もしないよりはマシだろうと感じたのだ。

 それに……この不思議な雰囲気を纏ったマスターの作る魔法というのがどんなものなのか興味があった。


「その本の題名を教えて貰ってもいいでしょうか?」


 マスターに向き直ると、私が読書をする事を決めた事を察したマスターは何故か自信たっぷりといった様子で、


「『泣き虫ルビーちゃん』。に是非読んでほしい本です」


 

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