第13話 プリンアラモードと『泣き虫ルビーちゃん』.1
雨は好きだ。
ビチャビチャになった制服が肌にベッタリと張り付く感触も。
足首まで雨水が溜まり、濡れた靴下が水分を吸って足が重たくなる感覚も。
自分の中に溜まったグチャグチャになった濁った感情を雨と一緒に流してくれるかもしれないと思うと、本来なら不快に感じるそれらも悪くないと思えてくる。
全身が天高く浮かぶ雨雲から降りしきる雨に打たれ、同級生に無理矢理切り刻まれた乱雑な形になってしまった栗色の髪から雫が垂れ落ちる。
雨で濡れすぼった通学鞄の中に入っている『死ね』『消えろ』と書き殴られた教科書は既に水浸しになって紙もグズグズになってしまっている。
だけど構うものか。
知ったものか。
もう何もかもどうでもいい。
道行く人達が傘も差さずにびしょ濡れになったまま歩く私を見て奇異の視線を向けてくるけれど、そんなもの学舎で向けられる臓腑を抉り取られるような気持ち悪くて吐き気のする視線に比べれば生温いものだ。
辛くなんてない。
大丈夫だ。
私は大丈夫だ。
……本当に?
毎日学舎に通い、同級生達から言葉のナイフで心をメッタ刺しにされる毎日。
美容室ごっこと称して私の髪を笑いながら切り刻んだ彼らの楽しそうな笑顔。
「やめて」と言えば、「生意気だ」と殴られた。
何も言わなければ、「根暗な奴」「気持ち悪い」と殴られた。
勇気を出して軽く叩いたら、「調子にのるな!」と何度も殴られた。
なんにも変わりなんてしない。
他人が変わるなんてありえない。
この地獄は永遠に続くんだ。
終わりなんてない。
「……死にたいなあ」
自然と口が動いていた。
ああ、もう駄目なのかもしれない。
思っていたよりも私の心はボロボロになっていたのかもしれない。
この雨に打たれていれば、こんなどうしようもないほどの悲しみも苦しみも一緒に洗い流してくれると、そんな何の根拠もない願望に縋って濡れネズミになりながら町を歩き続ける私はさぞ滑稽なことだろう。
自分が惨めで矮小な存在に見えて仕方がない。
通りを歩く自分以外の人は何の辛いこともなく、ただ毎日を幸せに過ごしているんだという風に思えてくる自分の不幸な姿に酔いしれようとするけれど、そんなことをしようとしている自分が余計に惨めで小さな人間に思えてくる。
この世界には私の生きていい場所が見当たらない。
世界なんて大層な言葉を使っているけれど、学舎と家、それが私の世界の全てだ。
学舎は気持ち悪い。
家には優しいお母さんがいるけれど、お父さんが去年に病で死んでから一人で家計を支えているお母さんに余計な心配をかける訳にはいかない。
今日の私は帰り道で傘を突風で壊してしまい、ビチャビチャに濡れてしまったドジな娘として家に帰らないといけない。
同級生に嫌がらせで傘を壊された、弱い女の子として帰る訳にはいかない。
大好きなお母さんを悲しませたくなんてない。泣かせたくなんてない。
だから、いじめを受けていることは絶対に言っちゃいけない。
だからこそ、遠回りをして気持ちを落ち着かせる時間を作っているんだ。
家に帰ってから泣き出してしまわないように、心を殺す時間を。
私の心にずっと染み込んでくる惨めさという毒が少しでも薄まるように雨に打たれるんだ。
グチャグチャと、ドロドロと、形容しがたいこの汚い想いを洗い流すんだ。
私は茶色く濁った水溜まりを踏み、靴底にジワリと雨水が染み込む感触に自虐的な笑みを浮かべて足を進める。
自分を打ち付ける雨の雫に強張った笑みを浮かべ、瞳から流れ落ちる塩辛い雫と混ざり合った水が地面に落ちていく。
惨めで、無様で、哀れで、情けない。
私なんて、私なんて、誰にも助けてもらえない。
私を救ってくれる人なんている訳がな……
「お嬢さん、よければ雨宿りしていきませんか?」
横から投げかけられたそんな言葉にハッと顔を上げる。
ゆっくりと声のした方向に顔を向けると、柔和な笑みを浮かべた優しそうな顔立ちをした男の人がこちらに軽く手を振っていた。
「誰ですか?」
「僕はここのお店のマスターをしている者です。趣味で小説を書いているんですが、執筆に夢中で雨が降っていたことに恥ずかしながら気付かず、宣伝用の黒板を軒下に移動させる為に出てきたところで随分と濡れてしまっている貴女を見つけたので、お節介かと思ったのですが、つい声を掛けてしまいました」
「お店?」
その言葉に釣られて男の人の周りを見てみると、お洒落な外観の2階建ての建物を背に立っている彼の手には雨で滲んでしまって読めなくなってしまった折り畳み式の黒板が握られていて、『本日のオススメメニュー』とチョークで書かれた文字がかろうじて読める程度に残されていた。
どうやら、ここはレストランか何からしい。
自分でもこんな見知らぬ店のある路地にまで無意識のうちに足を運んでいたことに驚きを感じる。
しかし、私の家は貧乏だし外食をするような手持ちもない。
彼の言葉に甘えて店の中で雨宿りをさせてもらったとしても、何も注文せずに雨が止むまで居座れるだけの度胸が私にはない。
だから、答えは決まっている。
「いえ、遠慮させてもらいます。お金もありませんし、もう全身ずぶ濡れで雨宿りをする意味もありませんから」
「お代はいりません。それに、私は貴女は好きで雨に打たれている様子ですし、別に止めるつもりはありませんから」
「……どうして、私が好きで雨に打たれているなんて思うんですか?」
雨に好き好んで打たれようとする変わり者なんて普通はいない。
雨が降っていれば濡れないように傘を差したり、軒下に慌てて駆け込むのが普通の反応だ。
私のように自ら雨の中に進んで入っていく人間なんて、変人の類だろう。
だからこそ、このお店のマスターがなぜ私の気持ちを見抜いたのだろうと若干の好奇心が鎌首をもたげる。
マスターは私のそんな思いを孕んだ視線にふっとどこか寂しさを滲ませた笑みを浮かべ、
「僕にも似たような経験があったもので。その時の私の姿と、貴女の姿が重なって見えた。ただそれだけのことです」
「似たような経験ですか?」
「ええ。どうしようもなく苦しくて辛くて悲しい時は、雨の中に飛び込んで意味もなく歩いてみたり、ただ立ち続けていたりすると、まるで自分の中のゴチャゴチャとした気持ちが雨と一緒に流れ落ちる気がするので」
「……」
「雨に打たれている時間は好きなんですが、これには難点があります」
「難点?」
「洗濯とお風呂に入るのが面倒臭い」
「……ふっ」
「あっ、今笑いましたね?」
「あっ……すみません」
まさか自分と同じような感性の持ち主がいて、居住まいを正すようにして言ったのがそんな冗談みたいな言葉だったので自分でも思わずクスッと笑みを浮かべてしまっていた。
久しぶりに頬が緩む感覚に、どこか慣れない感じがするけれど、この男の人に少し興味が湧いて来た。
「お代はいりません。温かいお風呂も洗濯も無料。そして、私のオススメメニューが楽しめる不思議なお店、異世界レストラン『サクラ亭』のおもてなしで貴女の心も晴れやかにしてみせましょう」
「……気持ちは嬉しいですけど、そんなのは不可能ですよ」
この泥水のように濁った気持ちが澄むことなんてあり得ない。
それは私自身が一番よく分かっている。
だけど、マスターは自信ありげな笑みを浮かべていて、それがどうにも気にかかる。
異世界レストラン『サクラ亭』。
聞いたことのない店の名前。
どんな所なのかは分からないけれど、もし雰囲気も良く落ち着けるお店だったらお母さんに教えてあげたら、喜んでくれるかもしれない。
私は別にどうでもいいけれど、お母さんが喜んでくれるなら少しだけでも覗いてみるのもありなのかもしれない。
「私、見ての通りビチャビチャなのでお店の中汚しちゃいますよ?」
「床は拭けば綺麗になります。ですが、心は早く温めないとどんどん冷え切っていくものです。少しでも貴女の心が温まれば私も嬉しいので、是非ご来店して頂けると嬉しいですね」
「……それじゃあ、少しだけ」
「はい、どうぞ」
私は全身から雨水をしたらせたみすぼらしい格好に恥ずかしさを感じつつも、ゆっくりとマスターの所に歩み寄り、
「ミーナです。少しの時間ですけど、雨宿りさせてもらってもいいでしょうか?」
「勿論です。一名様、ご案内させて頂きます」
ミーナはにこやかに微笑むマスターに軽く頭を下げ、未知の世界が広がるお店の中へと足を踏み入れた。
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