第7話 アップルパイと『林檎売りのシナ』.3
見ているだけで、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
食べれば絶対に口の中に幸せな味が広がるだろう。
フィオナの目の前に置かれた白磁の皿に載せられたそれはそんな甘い誘惑の香りを漂わせながら、彼女の視線を独り占めにしていた。
幸せの贈り物。
それが私の第一印象でした。
真っ白な皿の上には、濃厚な甘~い香りを漂わせる林檎のパイが置かれている。
三角形にカットされているこんがりときつね色に染まったパイには余計な焦げは一つもなく、それ一つが洗練された芸術作品かのような美しさを放っている。
パイの上部は機織りで丹念に編み込まれたような格子状の生地になっていて、断面からは薄皮が何層にも地層のように折り重なっており、フォークで切ってみたらパリパリサクサクと気持ちいい音を奏でそうで胸が弾む。
そしてその下にこの料理の主役である林檎がいるのですが……。
「……大きい。そして、こんなにも綺麗な色。こんなの食べる前から舌が蕩けてしまうのが分かってしまいます」
大きくカットされた林檎。
それが、ゴロッと入っている。
コロッではありません。ゴロッとです。
パイ生地の地層の下に眠っている林檎はおそらく砂糖煮にされたものを使っているのか、蜂蜜色にお化粧された林檎の実はまるで地下に眠る黄金のような輝きを放っているかのように見える。
砂糖煮にされながらも、全く煮崩れすることなく加熱されたことで増したであろう林檎の濃厚な甘みを含んだ香りが素晴らしい。
そして、香り付けに使われているらしいシナモンの香りもしつこくなく、アップルパイ全体の香りを引き立てていて、鼻腔を通り抜けると自然と両手が両頬に添えられ、
「ああぁ、これは凄いです」
幸せな溜め息が零れ落ちる。
林檎と共に人生を送って来たけれど、私が育てて売ってきたあの果物はこんなにも素敵なお料理にもなれるなんて知りませんでした。
食べる前からこんなにも胸が幸せでドキドキワクワクと心が弾むなんて経験はほとんど未経験。
食べるのが勿体ない。
完成されたこの美術品をずっと眺めていたいぐらいです。
あの薄皮に包まれたパイ生地にフォークを差し込めば、きっとパリパリと網目に亀裂が走り、幾層にも重なった美味しい地層を発掘する喜びに満たされるでしょう。
そしてその生地を切り終えて、その下に眠る蜂蜜色に色づいた林檎にも刃を通せば、煮込んでいる筈なのにシャキシャキとした林檎の心地良い触感にきっと頬が緩んでしまうことは請け合いです。
ですが……。
「これをずっと眺めていたい気持ちもありますが、このパイを早くお口に頬張りたい気持ちの方が強いです。それでは……」
既に口の中は強烈な林檎の甘酸っぱい香りにあてられ、唾液が自然と溢れてしまっている。
メニューを決める前までは何を食べようかとあんなにも頭を悩ませていたのに、今フィオナの頭と口の中はこの絶対に美味しいに違いない未知の林檎料理を食べたいという気持ちにまるっきり支配されてしまっていた。
おずおずとフォークを手に取り、緊張で微かに震える指先に苦笑しながらもフォークを格子状に美しく焼かれたパイの天井に押し込む。
指先に軽く力を加えると、パリパリッ、と思っていた以上に簡単に生地が切れ、パラパラと弾けた薄皮の欠片が皿の上にこぼれ落ちていく。
魅惑的な地層を切り終えた先に待っていたのは、おまちかねのゴロリと贅沢に入った林檎。
ゆっくりとフォークをその身に沈めると、煮崩れしたベチャっとした残念な感触を全く感じさせない林檎のシャキシャキとした触感が出迎えてくれる。
そしてフォークによって切られた断面からは、コトコト煮込まれて凝縮された甘酸っぱい果汁が溢れ出し、フォークの刃を蠱惑的に濡らす。
ああ、これは禁断の味に違いありません。
一度知ってしまえば、きっともう手放すことなんて出来ない。
まだ食べていないのに、視覚や嗅覚や触感等、様々な感覚を通してこのお料理の虜になってしまいそうになる。
だけど、いつまでもフォークの上にアップルパイを置いておく訳にもいかない。
「覚悟を決めて……えいっ!」
パクリと勢いよく頬張る。
そして、ゆっくりとパイを味わう。
すると、
「ああ、これは駄目です……」
本当に駄目です。
この味は、本当に。
もう、本当に。
「もう、このお店に通い続けるしかないじゃないですか」
恍惚とした笑みを浮かべ、愛しげにアップルパイに再びフォークを刺し入れる。
たった一口。
食べたのはたった一口だけ。
けれど、その一口で私はこのアップルパイの虜になってしまいました。
ズッシリとした大きくカットされて、食べ応えのある林檎を載せたパイをうっとりと見つめて、また口へと運ぶ。
ゆっくりと咀嚼すると、サクサクとしながらも柔らかなパイ生地のしっとりとした甘さが広がる。
そして、その後に猛烈な勢いで口全体に広がるのが甘酸っぱい果汁をたっぷりと含んだ大ぶりな林檎の芳醇な風味。
林檎が大きくカットされている為、噛んだ瞬間に口の中で爆弾が爆発したのかと錯覚する程の濃厚な果汁の洪水が巻き起こり、至福の海に身も心も溺れそうになってしまう。
これは、細かくカットされていれば出すことは出来ない。
ズッシリと重さを感じる林檎を一口で頬張った刹那の、幸福感と満足感に飲み込まれそうになるあの感覚を生み出すには、ゴロッと林檎を出し惜しみせずにパイ生地に詰めなければ出すことは出来ないに違いない。
パリッ、サクッと焼き上がったパイ。
砂糖煮で林檎本来の甘さを底上げされ、シナモンで香りを更に引き立たされた大きくカットされたシャキシャキの林檎。
それらが混然一体となって、至高のハーモニーを奏でている。
「こんなにも美味しい林檎のデザートがこの世界に存在するなんて思いもしませんでした」
林檎を卸している料理店は幾つもあるが、どのお店でもここまでの一品に林檎の美味しさを昇華させた所は一つもなかった。
この世の物とは思えない程の料理を出す店。
異世界レストラン。
このお店に入る前に自信満々に胸を張って答えた少女の言葉を思い出す。
『ふふふっ、それは『この世の物とは思えない程のおいしい物がた~くさんある素敵な世界』のことなのです』
まさにその通りでした。
私の知らない不思議な料理と、私に大切なことを思い出させてくれた不思議な本が待っていた不思議で素敵なお店。
沢山の素敵で彩られた異世界が広がるこのお店に出会えたこと。
私に沢山の幸せを届けてくれた素敵な場所。
それらに感謝を込めて、フィオナは口元を綻ばせて呟く。
「ありがとうございました」
会計を終え、店を出ると既に陽は沈みかけている時分で、家で自分の帰りを待っているであろう家族のことを思い、家を出発した時とは違って随分と身軽になった荷車を曳く。
山ほど載っていた林檎はもうないけれど、ここには、私の心にはお客さん達から貰った「ありがとう」が沢山詰まっている。
林檎農家の家に生まれ、毎日林檎を育てて売る変わり映えしない日々に退屈さを感じていた。
だけど私は、シナは、丹精込めて育て上げた真っ赤な林檎を、沢山の幸せを運ぶこの配達人の仕事が大好き。
沢山の「美味しかった!」を運び、沢山の「ありがとう」を貰って、大切な家族の待つ家へと帰る。
そんな日々は、とても幸せに違いない。
「林檎農家の娘に生まれて、本当に良かったです。沢山のありがとうと、沢山の美味しいに彩られたこの仕事に出会えて幸せです」
口の中にまだかすかに残る甘い林檎の味の残滓と、真っ赤な幸せを運び続けるもう一人の小さな同業者のことに想いを馳せ、また幸せのおすそ分けを貰いにあの不思議なお店に行くことを固く決心しながら、フィオナは自分の大切な居場所へと足を踏み出した。
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