#3

——そんな経緯で、病室に一人の男が入ってきた。ベッドで寝ていても、私より遥かに高い事が分かる程にデカイ背丈に驚いた。しかし、それ以上に驚いたのはその風貌だ。白衣でもなく看護服でもなく、黒いスーツ。その上に裏地が赤い黒のマントを羽織っている。少なくとも、医療関係者がする格好ではない。金髪は艶やかで清潔感があるけれど、キノコ頭な上、目や耳が髪の中に完全に隠れている。


そんな男が、何故か病室に電子ピアノと、それを置く為の鉄骨スタンドを持ってきた。そのセッティングを終えたのが今である。


「あの、なんで電子ピアノを?」


ようやく言い出せた。あまりに唐突だったので、呆気に取られて口が動かなかったのである。しかし、男が私の声に耳を傾ける様子はない。それどころか、病室に用意された椅子に座り、ピアノの音を弾き出す始末。


ん?この旋律。ショパンの夜想曲ノクターンだ。しかも、一番有名な第2番。甘くて緩やかで、寂しいこのフレーズを聞くと、夜の中に自分がいるような気分になる。それも一人寂しく、感傷に浸る月夜。


「……歌って。」


突然、男がせがんできた。


「え?」


これはピアノだけの曲。歌詞なんてあるはずがない。


「君なら、自然と歌詞が出てくる筈。」


出来る訳が……。と思った時。


「窓……」


頭の中に浮かんできたのは、家のガラス窓、そこに映る月夜。


「……続けて。」


ピアノが止んでいる。男は私が歌うのを待っているようだ。スウッと一回、深呼吸をした後。


♪ 窓の外の夜空 一人寂しく覗く


小川のせせらぎのように、ゆったりと流れる夜想曲ノクターンの旋律が、口ずさむ歌詞の一つ一つに絡み合う。


♪暖かい涙 頬を伝い落ちる


ピアノの音色に誘われた私は、すっかり即興歌劇の役者になりきっていた。演目は夜。それも家の窓越しに夜を眺め続けた、あの日々を再現する劇である。


♪月に照らされた私 眠らずに悩み続ける


夜を吐く直前の事。私は不眠症だった。家族は皆寝静まっているのに、私だけが眠れない夜が続いた。


♪「私は私が嫌い」 思いが頭を巡る


自己嫌悪が頭の中で渦巻き続ける、孤独で寂しい夜。それが、毎夜毎晩続いた。


♪学校、バイト先、家族 誰からも叱られる私


大学に何とか入ったが、その後の勉強が出来なかった私。終いには、ゼミの先生から「学校を辞めた方がいい。」と言われてしまった。その上、バイト先でも「仕事が遅すぎる!」と言われ続けた。それを見かねた親からは「大学になんて、入れなきゃよかった」と言われる始末。


♪グズ、ドジ、マヌケ! そんな私が大嫌い!


歌いきったその時。私の頭から、赤い煙が吹き出た。煙が部屋中に広がった後。それらは収束し、確固たる姿に変貌していく。それは頭に浮かんでいた、赤い悪魔そのもの。病室を埋め尽くす程に大きい悪魔が、ケケケケケケケと笑うと、ハンマーで殴られたような鈍痛が頭に走り、意識が朦朧とする。


その時だった。


♪窓に広がる夜空 君は一人ではない


夜想曲ノクターンの旋律に乗せて、野太くて深い声が響く。それが私の意識を留めてくれた。


♪星々に満月 皆が君を見守る


家の窓から映る夜が、頭の中に蘇る。しかし、その意味合いは前と違う。それは星々や月が、私を見守る風景……。


♪どんな場所でだって 精一杯生きてきた君


そうだ。私、頑張ったんだ。上手くいかなかったけど、一生懸命頑張ってたんだ。


♪グズ、ドジ、マヌケ? とんでもない!笑い飛そう!


歌い終えたその時。悪魔が突風に吹かれたように、軽快に吹き飛ばされた。病室の壁にぶつかった悪魔は霧散。


「これで、今夜はぐっすり眠れると思うよ。」


「あ、ありがとうございま——」


♪Elen síla lúmenn' omentielvo


……男が突然、歌い出した。その意味は全くわからない。


「ああ、ごめんよ。これは『この出会いに感謝を』という意味の、僕の国の詩なんだ。君の歌声が素敵だったので、つい。」


「そうなんですか。ビックリしました。」


改めて見ると、まさにヨーロッパ人といった感じがする。色白の肌に、彫りが深い顔立ち。


「本当にありがとうございました。なんだか今、心がとてもスッキリしているんです。」


「礼には及ばないよ。それが僕の仕事だからね。」


「あの、お名前は?」


「……マーニ・アステア。」


外国人だったのか。その割には流暢な日本語を喋っていらっしゃる。


「わかりました、アステア先せ——」


「いや、マーニさんでいいよ。そんなに畏まらないでくれ。」


「はい。」


「これから毎日、こんな感じで治療をさせてもらうからね。それから、はいコレ。」


そう言って手渡されたのは、小型のハンドベル。木で出来た持ち手の先に付いた真鍮製のベルには、薔薇の絵柄が彫刻されていて、とても可愛らしい。


「それは僕からのプレゼントさ。明日も来るから、大事に持っていてくれよ。あっ、電子ピアノは好きに使っていいからね。」


そんな感じで、マーニさんが病室のドアを横に開け、外に出た直後の事だろうか。


「——やっぱり、覚えてなかったか。」


そんな声が、ポツリと聞こえた気がした。

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