第13話 しぼんだ風船
ドアが開け切るのを待ちきれず、女はほんのわずかな隙間から体を入れ、雪崩のように部屋の中に押し入ってきた。
「ちょっと、靴ぐらい脱ぎなさいよ」
すみませんの一言もなく、女は玄関先にむかって黒のパンプスを投げ出し、部屋の奥へと押し進んでいった。
とはいえ、ワンルームの部屋だから五歩も歩けば部屋の全体が見渡せる。玄関を入ってすぐ左がユニットバス、右はキッチン、真っ直ぐ進めばベランダに出る窓に突き当たる。ベッドは六〇七号室側の壁側にあり、トイレとベッドの間の壁には作り付けのクローゼットがある。狭い部屋だから、男がいたとしたら、見落とせるはずがない。
「だから言ったでしょ。誰もいないって」
桃子の言葉を無視し、女は部屋の隅々にまで視線をやっていた。ユニットバスのトイレの蓋も開け、洗面台の収納もキッチンのシンク下もチェックする徹底ぶりで、そんな場所に隠れられるのは小人だけだなと呆れつつ、桃子は女のしたいようにさせていた。
女が冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいたその時だった。ガラスがひび割れるような音がした。音はベランダの方から聞こえてきた。何事かとカーテンの隙間からベランダを見ると、そこには素っ裸の亮平が半笑いを浮かべて立っていた。カーテンを握りしめ、桃子はとっさに女を振り返った。
「ねえ、ベランダも見せて」
電子レンジの中を見終えた女が桃子に、というか、ベランダにむかって近づいてきた。ベランダに亮平がいると知られたら、かくまっていたとみなされて何をされるかわかったものではない。後ろ手にカーテンを握りしめる両てのひらにじんわりと汗がにじんできた。
「えっと、本当に、こっちの部屋の側のベランダにわたってきたのかな? 見たって言ってたけど、もしかしたら、窓にむかって左側の部屋に行ったかもしれないじゃない? だとすると、六〇八号室なんだけど」
「ちゃんと、見たわよ。確かにこっち側、六〇六号室側のベランダに移ったわ」
「勘違いしてるってことない? ほら、部屋の中からだと、隣の部屋の位置関係ってわかりにくいものだし」
「間違いないわ。そこどいて」
女に押しのけられ、桃子は窓の前をあけわたしてしまった。まずい。とっさに、桃子は玄関に目を向けた。亮平を見つけた女が激昂している間に、逃げ出せるだろうか。鍵はかけなかったから、猛スピードで走り抜ければ何とか部屋の外には逃げ出せるはずだ。
女はカーテンレールが壁から引きちぎれそうな勢いでカーテンを開けた。桃子は後ずさりを始めた。
女は窓の鍵に手をかけた。窓を開け、バルコニーに身を乗り出し、男の姿を探している。そろそろ体をドアに向けたほうがいい。
「いない」
亮平の姿を探していた女がいまいましそうに呟いた。そんなはずはと、玄関にむかって上半身をひねりかけていた桃子は部屋の中に舞い戻ってきた。
女の言うように、亮平の姿はどこにも見当たらなかった。ベランダには物干し竿とエアコンの室外機があるだけで、隠れるような場所はない。
「こっちじゃなかった」
舌うちした女は、桃子の部屋を飛び出していった。
しばらくするとインターホンが鳴る音が聞こえ始めた。六〇八号室の住人はよほど眠りが深いのか、無視し続けるつもりでいるのか、部屋からの応答はないようだった。そのうち女はドアを叩き始めた。
その音に弾かれるようにして、桃子は部屋のドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをおろした。今度は絶対に開けないつもりだ。
窓の鍵も閉めないとと、慌ててベランダにむかい、窓を閉めようとしたところで、ベランダに侵入しようとしてくる男と目があった。亮平だった。
亮平は、各部屋のベランダを仕切る壁にしがみつき、片足を室外機の上にかけて、まさに桃子の部屋のベランダに移ってくるところだった。
「冷たっ!」
無事ベランダに着地成功した亮平は、両手で局部を覆った格好でコンクリートの上を二、三度跳ねた。
「あいつ、もういないべ」
亮平は爪先で撥ねながら、部屋の中へと入ってきた。
「あ、窓閉めといて」
亮平の言葉にはっとして、桃子は窓を閉め、カーテンもきつく閉じた。
「何か着るもんない?」
亮平は勝手にクローゼットを開け、物色を始めた。
「なんか、オレのクローゼットと変わんねえのな。ダーク系のパンツスーツばっかでやんの。おっ?」
クローゼットの奥をのぞきこもうとする亮平の耳をつかみ、桃子は玄関まで引きずって行った。
「痛ぇよ、何すんだよ」
「さっさと自分の部屋に戻りなさいよ」
「ヤだって。今部屋に戻ったら何されるか、わかんないって。しばらくかくまってよ」
「イヤ」
「冷たいなあ。隣同士、助け合おうよ」
「浮気男なんか助ける義理はありませーん。刺されでも何でもされなさいよ」
「裸のオレがこの部屋から出てくるところを見られたら、あんたもただじゃすまねえと思うけど」
玄関に近づくにつれ、六〇八号室のドアを叩く音が強くなった。無視され続けているのは亮平が部屋の中にいるからに違いないと思い込んだらしい女はますますヒートアップしている。亮平の言う通り、こんな状況下で、桃子の部屋から裸の亮平を出そうものなら、桃子と何かあったと勘違いされかねない。
亮平の耳をつまんだまま、桃子は部屋の中をUターンし、今度は窓にむかった。閉めたカーテンを開け、窓を全開にし、亮平をベランダに放り投げた。
「どうぞ、来た所から部屋に戻ってください」
「窓に鍵かけられて部屋の中には入れないんだって」
コンクリートの上で、亮平はピョンピョンと撥ねていた。
「窓を割って入ればいんじゃない?」
「修理代払いたくねえし」
「修理代ぐらい出してあげないこともないから、さっさと部屋に戻ってちょうだい」
「お、太っ腹!」
「私が巻き添えくらうのを考えたら、ガラスの修理代なんて安いものよ。はい、早く戻って」
亮平はベランダの手すりから下をのぞいた。
「ベランダ越えるの、こえーんだぜ。途中で落ちたらどうするよ」
「一回こっちに来て、彼女がベランダ確認している直前に自分とこのベランダに戻って、その後、またうちのベランダに来たんでしょ。もう二回も行ったり来たりしているんだから、慣れたものでしょ」
「部屋に戻ったらマジ殺されるって。あいつ、合鍵持ってるから部屋の中に入って来れるんだって」
「自分で渡した合鍵でしょ。浮気したんだから、殺されても何されても自業自得です」
「ちげーよ。オレ、合鍵なんか絶対誰にも渡さねーもん。あいつが勝手に作ったんだって」
「彼女、浮気を疑ってたのね。一度、殺されてきたらどう?」
「ひでぇ。男に恨みでもあんの? あ、浮気されたとか?」
「違います! 付き合っているコがいるのに浮気する方が悪いでしょうが」
「オレもあいつにとっては浮気相手だけどな」
「はあ?」
桃子が呆れている間に、亮平はそそくさと部屋の中にあがりこみ、ラグの上にあぐらをかいて座った。どうあっても居座るつもりらしい。
「その格好だけはどうにかしてよね」
一応、気を遣って局部だけは両手で覆って隠しているが、全裸の亮平である。桃子は使っていないタオルがあったはずだとバスルームにむかった。未使用のタオルをもって戻ってくるまでわずか十分の間に、亮平はどこから探し出してきたものか、桃子のマキシワンピをちゃっかり着こんでいた。あぐらをかいているものだから、柄のヒマワリが肥大化していた。
「タオルじゃ、オレのマグナムを隠しきれ……痛っ」
桃子が丸めて投げつけたタオルは見事に亮平の顔に命中した。
「ハンカチでも十分でしょ!」
「あれ、見た?」
「み、見てないわよ」
「あれ、あれ、あれ? 赤くなっちゃって。見たんだ、そーだろ、絶対そうだ! 見たよね、ね、ね、見たよね?」
亮平は、桃子が背けた方向にわざわざ行っては真っ赤になった桃子の顔をのぞきこんでからかった。
「見てなかったら、何でハンカチで十分だってわかんのさ」
「ほー。じゃあ、やっぱりハンカチで隠せる程度てわけね」
亮平の言葉じりをとらえて反逆したつもりだが、当人はニヤリと笑って「知らねえの。オレのマグナムは変形すんだよ」と、しゃあしゃあと言ってのけた。
「トランスフォー……痛っ!」
とっさに投げつけたウサギのぬいぐるみはまたしても見事に亮平の顔に命中した。その瞬間、まるで祭りの屋台で景品をあてでもしたかのように、桃子の部屋のインターホンが鳴った。部屋の中から漏れてきた亮平の声を聞きつけたのだろうか、女が桃子の部屋の前まで戻ってきていた。
はっと桃子は息をひそめたが、時すでに遅しで、女に亮平が部屋にいると気づかれてしまった。亮平は部屋の電気を消し、インターホンは電源から切ってしまった。静寂はほんの一瞬だった。女は今度はドアを叩き始めた。しきりに亮平の名を呼び続けている。
「……ねえ、彼女とちゃんと話した方がいいと思うよ」
「話すって何をさ」
暗闇の中だと、話す声も自然と小さく低くなった。
「オレ、あいつの浮気相手なんだぜ。あいつ、彼氏いんの。お互い干渉しないって約束で、大人の付き合いって割り切った関係だったのにさ。オレに彼女がいるってむこうも知ってんだぜ」
「何、その不適切極まりない関係。じゃあ、今夜ふみこまれた時に一緒にいたコが本命の彼女ってこと?」
「そう」
「ちょっと、そのコどうしたの? まさか、部屋におきざりにして自分だけ逃げてきたとか?」
「急襲されたから、よく覚えてねぇ」
「うわっ、そのコ、外の彼女に何かされたかもよ」
桃子はドアに目をやった。女が叩くたびに、ドアは小刻みに震えた。震動は部屋の空気すらも揺り動かした。そのうち、ドアが打ち破られやしないかと桃子は不安になった。
「大丈夫じゃね? 今頃、タクシー呼んで家に帰ってるぜ。そういう女だし」
「だといいけど。血まみれでベッドに寝ていたなんて、シャレにならないわよ」
「あいつの標的はオレだから、それはないんじゃね?」
亮平はあっけらかんと笑ったが、桃子は笑えなかった。女心と秋の空。気持ちなんて猫の目のように変わるもの。
「浮気が本気になったのかな……」
誰に聞かせるでもなく、桃子はぽつりと呟いた。
さらさらの黒い髪がキレイな女の子だった。いつか、アデルの「サムワン・ライク・ユー」が気になると言ってきたあの女の子だと桃子は思い出した。色が白くて一見真面目そうにみえるタイプの子だ。
「もともと、あんたのことが好きで、二番目でもいいから付き合いたいっていう思いで付き合ってたのかもしれない」
「遊びでいいって言ったのはむこうだぜ」
「言葉と気持ちが一致しているとは限らないじゃない。人間は嘘をつく動物なんだから」
本音でトークしようぜとブツブツ言いながら、亮平はドアの向こうを見つめていた。
ドアを叩く音は次第に弱まっていき、しばらくするとすっかり止んでしまった。諦めて立ち去っただろうかと思い、桃子と亮平とは顔を見合わせて玄関にむかった。
ドアスコープから廊下をのぞくと、ストッキングの足の先がみえた。どうやら、女は桃子の部屋のドアに背をもたれかけ、廊下に座り込んでいるらしい。女が脱ぎ捨てたパンプスは桃子の部屋の玄関にそのままになっていた。
廊下に投げ出された細い足はしぼみかけた風船のようだった。張りつめていた感情が足先から漏れ出ている。朝までには影も形もなくなっていってしまいそうだった。
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