第12話 真夜中の訪問者

 失恋を癒す薬は時間と新しい恋だという。新しい恋が簡単にできるくらいなら、同じ男に六年も片思いをしていない。時間は即効性に欠ける。桃子は仕事に打ち込んだ。

 桃子は子どもの頃から文房具が好きだった。シャーペン、クリップ、お菓子のような甘い匂いのする消しゴム、ノート、手帳……数え上げたらきりがない。実用品で消耗品のはずなのに、桃子の場合は、未使用の文房具が溜まっていくばかりだった。

 文房具売り場でなら何時間でも時間がつぶせた。ペンの書き心地に酔いしれる。ノートの枠線の幅の妙に感嘆し、手帳に刻まれていくだろう未来に思いを馳せる。

 気づけば文房具専門店でバイトをし、文房具メーカーに就職していた。文房具にかける情熱を認められたというより、後から上司に聞いた話では、あまりの執着ぶりに呆れられ、そんなに好きならという温情で採用が決まったらしい。面接の時に文房具に対する愛を熱く語った相手が企画開発部の部長で、入社後、桃子はその部長の下で働いている。

 企画開発部の仕事は新しい商品を生み出すことだ。こんな文房具があったらいいのにと考えてばかりの桃子にとってこれほど適した仕事はない。要は自分が欲しいと思うものを商品にすればいいだけなのだから。

 しかし、一口に新しい商品を考えると言っても、実際の仕事となると、自分の好きな商品を作るとはいかなかった。ビジネスである以上、採算を考えなければならない。自分の好きなものが売れるものとは限らない。市場が必要としているものでありながら、社の独自性を出す。ニーズとオリジナリティとのバランスが商品開発には不可欠な要素だ。

 仕事は、新商品の企画・開発が主だが、考えっぱなしというわけではない。産みの親である以上、それこそ子どものように、巣立っていくまで、つまりは店頭での販売までを面倒みる。生み出しながら同時進行で先に生み出した商品の面倒も見るので、企画段階、デザイン中、試作品の検討段階などと、異なるステージにあるいくつもの新商品を抱えている。営業部との会議、デザイナーとの打ち合わせ、工場担当者との話し合いなど、体がいくつあっても足りない。疲れた体にムチ打ちながら、桃子は昼も夜もなく働いた。

「今日も残業か?」

 あまりの桃子のがむしゃらぶりに、残業仲間である貴一までもが呆れた。

 金曜の夜、いつもなら夜中近くまでオフィスに残っているはずの貴一とビルの外で偶然出くわした。小腹が空いたからとコンビに買い出しに出た帰りだった。

「忙しいのか?」

「要領が悪いだけです」

「あまり頑張りすぎるな。少しは休まないと、かえって能率が悪くなるぞ」

「……」

「それと、もう少しまともなものを食え」

 貴一の視線がコンビニのレジ袋にそそがれていた。中には菓子パンと飲み物が入っている。反射的に、桃子はレジ袋を背中に隠した。

 そのまま、早々に帰宅していく貴一の後ろ姿を見送った。その背中が弾んでいた。土曜の明日、貴一は彩花と映画に行く約束をしている。昼間、彩花から聞かされて知っていた。

「初デートの印象って大事よね。何を着ていったらいいかな」

 貴一と真剣に付き合うつもりらしく、彩花は神経質なまでに服装から行動、言葉遣い、話す内容にまで慎重になり、桃子のアドバイスを求めてきた。取られたわけではないが、気持ちの上では取られたような貴一とのデートに着ていく服を一緒に考えるほどお人よしではない。ささくれた気持ちで何だっていいと言おうとして、「足と胸は出すな」とだけ言った。勝負がついてしまっているのはわかっているが、彩花の肉体美に惹かれる貴一の男の部分はまだ見たくない。 

 暗がりのオフィスで一人わびしくメロンパンをかじりながら、桃子はうなだれた。

 食べ終えても、残業する気にならなかった。そもそも、帰ろうとする貴一とビルの外ですれ違ってからというもの、残業する意欲は失せていた。

 仕事に逃げているうち、仕事が好きなのではないかと思い始めていたが、やっぱり逃げでしかなかった。残業が苦にならなかったのは、貴一も残業していたからだ。残業という形ではあったものの、桃子と一緒に費やしていた貴一の時間が彩花だけのためのものになろうとしている。そう考えるだけで憂鬱な気分になった。

(仕事でもするか……)

 パソコンを開けば嫌でも仕事モードに切り替わるかと思ったが、無駄なあがきだった。まるで仕事する気になれない。何もかもどうにでもなれと自暴自棄な気持ちになったのに、我ながら呆れてしまった。

 職場は戦場、男を捕まえる場所なんかじゃない。ずっとそう思ってきたのに、貴一がいないオフィスでは残業する気にならないというのでは、貴一に会いに会社に通ってきたようなものではないか。

(それも六年……)

 気づいたら二十九、三十が目前に迫っている。急に何だか焦る気持ちがわいてきた。このまま貴一を忘れられずにいたら、ただただ年を取っていくだけ。

 かといって、新しい恋のチャンスもない。そもそも出会いがない。独身の同僚や社員もいることにはいるが、今さら興味がわかない。社外で接する相手は、工場の担当者が主だが、みな桃子よりずっと年上で、おそらくは既婚者だ。会社の内と外、どちらにしても仕事がらみの場で、その場以外での出会いの機会がない。桃子はぞっとした。

 慌ててブラウザを立ち上げ、検索バーに「出会い」と打ち込む。ずらりと表示された検索結果に、出会いに飢えているのは自分だけではないと妙にほっとする。

(先輩みたいな人には出会えないと思うけどね……)

 胸の内でそうつぶやき、桃子はブラウザをそっと閉じた。



 目覚まし時計が鳴り続けている。起きなければならないのはわかっているが、体がだるい。このところの残業続きで眠くて仕方ない。アラームをとめようと夢見心地で布団から手を出し、サイドテーブルにあるはずの目覚まし時計のありかをさぐった。

 だが、アラームを止めたはずなのに音は鳴りやまない。それもそのはずで、鳴っているのは部屋のインターホンだった。ベッドの上に跳ね上がった桃子は、とっさに時間を確認した。時刻は二時になろうとしていた。

(こんな夜中に一体何だっていうの?)

 ヘッドフォンを外し、まだ半分寝ている体を引きずるようにして桃子は玄関へとむかった。六〇七号室の「騒音」が毎晩うるさいので、この頃ではヘッドフォンをして寝る。骨の芯まで震わせる大音量が神経を麻痺させるので、かえって寝つきがよくなった。今やメタルロックは桃子の子守歌だ。

 ドアスコープからは若い女の姿が見えた。黒く艶やかな髪の女で、長さは胸のあたりまである。青白い肌に凄みのある顔つきで、生きている人間のようには見えない。まさか幽霊かと一瞬おののいたが、幽霊ならしつこいまでにインターホンを鳴らさなくても、勝手にドアをすり抜けて部屋に入ってくるだろう。相手が人間なら用心するにこしたことはない。チェーンをかけたまま、桃子はドアを開けた。

「あの、何でしょう」 

「リョーヘイ、いるんでしょ?」

 女はドアの隙間に素早く片足を入れ、部屋の中をのぞきこんだ。

「わかってんだから。リョーヘイ、早く出て来なさいよ!」

 隙間からでも部屋に入ろうとする女を押しとどめようとする桃子を押しのけ、女は叫んだ。

「何なんですか、夜中にいきなり人の家に押しかけてきて。リョーヘイって、大和亮平のことですか? 彼の部屋なら、隣の六〇七号室です。うちは六〇六号室。ちゃんと部屋番号確認してください」

 とげとげしい口調でまくしたてるなり、桃子はドアを閉めようとしたが、女の右足がストッパーの役割を果たしてしまっていた。

「足どけてもらえます? ドア閉められないので」

 眠い瞼を必死に押し上げながら、桃子は女を睨みつけた。足を引くどころか、女は桃子をきっと睨み返してきた。

「リョーヘイがこの部屋に逃げ込んだのはわかってるの。ごちゃごちゃ言ってないで、さっさとリョーヘイを出しなさいよ」

 女の目は完全に座っていた。酔っているのとは違う、心が壊れかけているような目つきだ。これはまずいと、桃子は力づくでドアを閉めようとした。

「誰もこの部屋にはいません。私ひとりです」

「ウソつかないでよ。私、見たんだから。リョーヘイがベランダ伝いにこっちの部屋に移っていくの」

 女はチェーンの下にかがみこみ、わずかな隙間から部屋に入ってこようとした。痩せた彼女の体格なら、体を横にすればすり抜けられそうだった。桃子は仁王立ちで応戦した。

「ウソなんかついてません。誰もベランダ伝いに私の部屋になんか来てません」

「リョーヘイをかばってるの? あんたもリョーヘイの女なの?」

 女の目がたちまちつりあがっていく。桃子は喧嘩腰の口調を改め

「私はただの隣人です。あなたとお隣さんとで何があったかしらないけど、彼はこっちの部屋には来てません」

「でも、私見たわ。浮気現場を抑えてやろうとして部屋に入ったら、リョーヘイと女がベッドに寝てて、私と目があったとたん、リョーヘイのヤツ、ベランダに逃げたんだから」

「じゃあ、ベランダの隅っこにでも隠れているんじゃないですか? 今ごろ、ベランダから部屋に戻ってるかも」

「それはないわ。ベランダの窓の鍵は閉めてやったから」

 浮気現場を目の当たりにして頭に血がのぼっていそうなものなのに、男の逃げ道を断った女の冷静さに、桃子は怖さを忘れて感嘆せずにはいられなかった。

「わかった。じゃあ、中に入って、彼がいるかどうか確かめてみれば? だから足どけてくれる? ドアを一旦閉めないと開けられないから」

「そう言って、私を閉め出す気なんでしょ」

「チェーンを外さないとドアは開けてあげられない」

 桃子は事実を穏やかに告げた。桃子の言葉を解析するかのように何度も目をしばたかせた後、女はゆっくりと足を抜いた。その間中、女の目は桃子を睨みつけていた。少しでも桃子が怪しい動きをしようものなら、とってかかるつもりだといわんばかりに。

 ドアを閉め切ってしまってから、桃子はチェーンを外した。このまま閉めだしてしまってもよかったのに、桃子はドアを再び開けた。部屋には桃子以外に誰もいないとわかれば、女は引き下がるだろう。彼女の標的はあくまでも亮平だ。

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