第11話 音に飲み込まれたい夜
メイクを落とそうとして鏡を見、その必要はないと気づいた。ファンデーションは涙ですっかり流れ落ちてしまっていた。瞼が赤いのはアイシャドーのせいではなく、散々泣き続けたせいだ。
彩花と別れてから、桃子は泣きっぱなしだった。電車でも、駅からマンションまでの道を歩きながらでも、人目も構わずに涙の出るままにしていた。涙を流し続ける桃子を誰もが振り返ったが、声をかけてくれる人間は誰ひとりいなかった。
腫れてぷっくらと色っぽくさえ見える瞼の上に、桃子はおもむろにアイシャドーを乗せた。パールの入ったピンクのアイシャドーだ。目頭から目尻にむけてブラシをすべらせ、アイホール全体をピンク色に塗りこめていく。
次にアイライナーで瞼の縁を濃く彩った。目が大きくなったような気がした。彩花の長い睫を思い出しながらマスカラを塗った。ピンクのルージュもひいてみた。鏡の中に現れたのは彩花のようにかわいい女の顔ではなく、センスのない色づかいで失敗した塗り絵だった。
彩花のメイクだけを真似ても、しょせん土台が違うのだから、彩花になれるわけがなかった。鏡から目を逸らし、桃子は、したばかりのメイクを落としてしまった。見た目だけ彩花になれたとしても、貴一に好きになってもらえるわけではない。
熱いシャワーを浴び、タオルで濡れ髪を乾かしながら、桃子は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルトップをあけるなり、一気に半分近くまで飲み干してしまった。
プレーヤーのスイッチを入れるとすっかり聞き慣れたスモーキーな歌声が流れてきた。隣近所の迷惑を考えず、桃子は音量をあげた。今夜は音に飲み込まれてしまいたい。
桃子はバッグの中から封筒を取り出した。迷いながら結局買ってしまったアデルのライブチケットが二枚入っている。今日というか、日付が変わったので昨日の昼休みに受け取ったチケットだ。
封筒から取り出したチケットを、桃子は指でつまんで宙にはためかせてみた。使い道のなくなったチケットは、部屋の空気をほんの少し揺り動かしただけだった。酒くさいため息をつき、桃子はやおらチケットを半分に引裂いた。
貴一が彩花を好きだったなんて――よりによって、彩花に貴一と付き合うことを勧めるようになるなんて――
枯れたはずの涙がまた湧き出てきた。頬を伝った涙は、膝を抱えてすわる桃子の膝頭へと流れ落ちていった。
曲は「サムワン・ライク・ユー」に変わった。「あなたに似た人」、かつて恋人だった男の別の女との未来を祝福する歌だ。「お幸せに」なんてうたっているけれど、嫌味のつもりなのかもしれない。少なくとも、今の桃子には、彩花と貴一の付き合いを祝う気にはまったくなれない。
アデルの歌声の合間に、インターホンの鳴る音が流れ聞こえてきた。音がうるさいと誰かが文句を言いにきたのだろう。居留守を決め込むつもりだったが、インターホンは鳴りやまない。そのうち、ドアが激しく鳴り始めた。どうあっても桃子に面と向かって文句を言いたいらしい。仕方なく、桃子は重い腰をあげ、玄関にむかった。ドアスコープからはドアの外に立っている亮平の姿が確認できた。
「ごめん、今晩だけは勘弁して」
ドアを開けるなり、桃子は言い放った。
「え、なに?」
先制口撃をくらい、亮平は目を白黒させた。寝ているところを起こされたらしいTシャツに短パンというラフな格好だった。
「音楽がうるさいっていうんでしょ。わかってる。でも今夜だけは聴かせて」
桃子は真剣なまなざしで亮平に頼み込んだ。
「違うって。文句を言いにきたんじゃなくて――」
亮平は人差し指をたててみせた。
「これ、誰の何て曲?」
ドアの隙間からアデルの歌声が廊下にこぼれていた。アデルというアーティスト名と「サムワン・ライク・ユー」という曲名を教えてやると、亮平は忘れまいとするかのように何度も繰り返した。
「もしかして、こういう系の音楽、好きなの」
亮平はアデルと曲名とを交互に繰り返しながら、首を横に振った。
「彼女が気に入ったみたいでさ。何ていう曲か知りたいって言うから、聞きにきただけ。オレの趣味じゃない。オレはどっちかってーと、いつだかかけてた曲の方が好きだな」
「いつの話?」
「まりあちゃんとエッチしてた朝の曲」
「……メタル系ね」
「誰の何て曲だったのさ」
「キッスのベスト盤」
「それ、貸してくんない? オレんとこの部屋のポストにでも入れておいてくれたらいいからさ」
今にも桃子に抱き付かんばかりの勢いで亮平は喜んだ。
「リョーヘイ、何してんのぉ」
六〇七号室のドアが開いて、隙間から若い女が顔を出した。黒くてまっすぐな髪が肩からさらりと流れ落ちた。桃子と目が合うなり、女は愛想のいい笑顔を浮かべた。
「麻子ちゃん、この曲、アデルっていうアーティストの『サムワン』なんちゃらっていうんだってさ」
「『サムワン・ライク・ユー』ね……」
桃子のつぶやきを無視して、亮平は一メートルもない六〇七号室のドアにむかってダッシュした。かと思うと、同じスピードで桃子の部屋の前まで戻ってきた。
「音楽、かけっぱなしにしといてよ。オレらこれからエッチするからさ。音量大き目でお願いしマース。音消しになってお互い都合いいっしょ」
サビのメロディを口ずさみながら、亮平は六〇七号室へと戻っていった。
ドアを閉めると、部屋のなかにたちまち音が満ちていった。行き場を失った音たちは窓にぶつかり、壁にはねかえされ、桃子の体に降り注いできた。降り積もる音に息苦しささえ感じる。
わんわんと、桃子は声を上げて泣き始めた。泣いていると知られたくなくて音量をあげたのだが、今となっては泣き声を聞かれようと構いはしないはしなかった。腫れぼったい顔を見られた亮平にはどうせ泣いていたと勘付かれただろう。
今夜だけは、子どものように大声で泣きわめいてしまいたかった。泣いたからといって貴一を忘れられるわけでも、諦められるわけでもないとわかっていながら、それでも、桃子は泣かずにはいられなかった。
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