第10話 鼻から流れる涙
「付き合いたいって言われたの、佐野さんに」
彩花からそう聞かされた瞬間、桃子は飲みかけていたファジーネーブルをマーライオンみたいに吹き出しそうになった。必死の思いで口を閉じ、喉に流し込んでしまおうとして気管に入ってしまったのか、ひどくむせこんでしまった。
げほげほと咳き込む桃子の背中を、「大丈夫」と声をかけながら、彩花が何度もさすってくれた。死ぬかと思った。というか、死んでしまってもよかった。
貴一が彩花に告白したって? 夢でも見ているのだろうか。『オステリア』で彩花の泣き言を聞かされている夢。きっとそうだ。夢だから、貴一は彩花に告白したなんてことになっているんだ。
だが、頬をつねるまでもなく、アルコールが傷つけた胸の痛みが、すべて現実なのだと物語っていた。
「いつ?」
「先週だったかな? 食事に誘われたの」
「食事?」
「ほら、お友だちのデザイン講師のインタビューに付き合ってくれたお礼がしたいからって言われて。別に何かしたわけじゃないし、ただ聞かれたことに答えただけだから、お礼なんかいいですって断ったんだけど、どうしてもって言われて」
「行ったんだ、食事に」
「うん、行った。イタリアンのお店」
「夜景のきれいな?」
「よくわかったね。もしかして桃子も知ってるお店? 桃子の好みっぽかったよ。もちもちパスタがすっごくおいしかった! 今度一緒に行こうね」
彩花は無邪気に笑ってみせたが、ハンカチで口元をおさえた桃子の顔は引きつっていた。
「食事に誘われたって、それってデートってことだよね……」
「まだ付き合ってないもん。デートじゃないよ、ただの食事」
「でも二人きりならデートじゃないの」
「そう? 食事してバイバイかと思ったら、話があるって真剣ムードになっちゃって」
「付き合ってって言われたんだ」
「うん。前から私のこと、気になってたんだって。ちょっと意外だった」
それは桃子のセリフだった。役職、年齢問わず、男性社員ならほとんど全員が彩花をちやほやした。そんな中でひとり冷静でいたのが貴一だった。彩花に関心を示さない貴一を、さすがそこらへんの男とは違うと、桃子は秘かに誇りに思っていた。
「私って、佐野さんのタイプじゃないでしょ? 佐野さんには何っていうか、クールビューティー系の女の人が似合うと思うんだよね、桃子みたいな、いかにもデキますっていうタイプの女性」
彩花に言われなくても、桃子自身も、貴一にはキャリアウーマン系の女が似合うと思っていた。だからこそ、仕事に一生懸命にこなし、貴一と対等に話のできる女を目指して日々努力してきた。だが、貴一に告白されたのは桃子ではなくて、彩花だった。
「それで、告白されて、何て返事したの?」
「返事はまだしてないの。男関係は桃子に判断してもらうことになってるから、まず桃子に話をしてからと思って。ねえ、桃子、どうしたらいい?」
「……」
まだ胸が苦しいふりで桃子は黙っていた。脳みそを鷲掴みにされ、揺さぶられているみたいに世界がグラグラ揺れている。アルコールの流れていった気管が焼け付くように痛い。いっそ心臓にアルコールが流れていったら、死んでしまえたんだろうか。
桃子の判断を辛抱強く待つ彩花は、女の桃子からみてもかわいい。大きくて潤んだ瞳に上目づかいで見つめられた日には、男なら恋に落ちてしまう。貴一も男だったということだ。ザ・女子といったかわいい女の子が好きな……。
「彩花は佐野先輩のこと、どう思っているの?」
桃子は賭けに出た。もし彩花が貴一に好意を持っているのなら、潔く身を引く。だが、彩花の返事は「嫌いじゃない」という曖昧なものだった。
「彩花はどうしたい?」
そう言いながら、桃子は自問した。自分はどうしたい? 貴一を好きだと彩花に打ち明けて付き合いをやめさせたい?
「決めてくれないの?」
彩花がリスのように頬を膨らませた。ほんのり赤く染まった頬が桃のようだ。
「私が決めるなんてことはちょっと横に置いておいて。自分で決めなくちゃならないとしたら、どうしてる?」
「うーん……」
長い睫を二、三度しばたかせた後、彩花が言った。
「多分、断ると思う。タイプじゃないから」
世界が揺れなくなった。胸の痛みは嘘のようにすっかり消えてなくなっていていた。
言ってしまおうか――桃子は悩んだ。
実は貴一が好きなのだと告げたら、彩花は身を引いてくれるかもしれない。貴一がタイプでないのなら、付き合わないことになっても彩花は傷つかない。
どちらにしようかな 天の神様の言うとおり――
胸の内で、桃子は人差し指を左右に振った。貴一を好きだと言う、言わない。指がとまった方を選択するつもりだった。しかし、その必要はなかった。指がとまる前に、彩花が決定を下した。
「でも、どうなんだろう。佐野さんて、前に桃子が言っていた理想の男性像そのものなのよね。佐野さんと付き合ったら泣かされないんだろうなって思うと、こういう人と付き合った方がいいのかなって。私、もうダメンズウォーカーを卒業したいもの。これからは笑っているだけの恋がしたい」
桃子は指を振るのを止めた。
貴一を好きなことは彩花には言わない。
言ったところで何も変わらないと桃子は気づいてしまった。もし貴一を好きだと告げたら、彩花は桃子に遠慮して身を引くかもしれない。だが、貴一の彩花に対する思いは変わらない。彩花と付き合わないからといって桃子を好きになることは決してない。貴一は彩花を好きイコール貴一は桃子を好きではないの等式は崩せない。
「でも、佐野さんをよく知っている桃子がダメっていうなら、断るけど。ほら、私、男を見る目がないから。桃子がダメっていうのなら、それなりの理由があると思うし。全部、桃子の言う通りにする」
彩花の笑顔には桃子に寄せる信頼が満ち満ちていた。貴一と付き合うなと言えば、彩花は素直に従うだろう。だが、貴一と付き合うなという理由が何ひとつない。貴一はダメ男ではないから、理由があるとすれば、桃子の嫉妬だけ……。
「佐野先輩は――」と言いかけて、桃子は咳払いをした。同時に醜い嫉妬心も払ったつもりだった。
「佐野先輩は、素敵な男性だよ。彼女を大事にするタイプ。付き合ったら彩花のこと、すごく大切にしてくれると思う」
「そっかぁ」
彩花は顔の前で両手の指の先だけをあわせ、しばらく考えこんでいた。
「桃子がそう言うなら、付き合うって返事することにする。あれ、桃子、どうしたの、泣いたりなんかして」
彩花に言われて初めて桃子は、生ぬるいものが頬をつたっていると気づいた。
「あれ、何だろ。あ、きっとさっきのカクテルが出てきたんだよ」
桃子は慌てて顔を背け、ハンカチで目頭を押さえた。涙腺が決壊し、溢れ出した涙はたちまちハンカチに沁みを作った。
「気管に入ったんじゃなかったの」
「鼻にも入ったのかも」
「鼻と目ってつながってるの?」
小首を傾げながら、彩花がハンカチを差し出した。ガーベラの花模様にレースの縁取りがしてある、華奢なデザインのものだった。
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