第9話 セクハラサイテー男

 チェーンを外して再びドアを開けると、外の廊下に男が立ちはだかっていた。デニムにシャツをはおっただけ、シャツのボタンは申し訳程度に腹のあたりでひとつ留まっているだけだった。

「何で彼女と話したいの」

「何でって。女同士で話した方がいいの。こういう微妙なことは」

「微妙な話って何?」

「だから、その、いろいろとよ」

 桃子は視線を宙に泳がせた。男の裸の胸を見ないようにと意識すればするほど、目が開いたシャツの胸元にいってしまう。

「彼女と付き合っているなら、あんたとも話した方がいいかもね。さっきも言ったけど、あんたたちの喘ぎ声がうるさいのよ。聞きたくなくても聞こえちゃうの。男のあんたは気にしないかもしれないけど、彼女は女の子なんだよ。そういう声をみんなに聞かれているって知ったら恥ずかしいでしょ」

「みんなって誰?」

「上下左右、このフロアーの部屋の人はみんな聞こえていると思う。ここのマンション、壁が薄いから丸聞こえなの。あんたは遊びにくるだけだから知らないでしょうけど、彼女は住んでいるだから、知ってると思うけど」

「知らないと思うな」

 男は自信たっぷりに言い切った。そんなはずはないだろうと言いかけて、桃子は口をつぐんだ。

「……そうね、知らないかもね。知ってたら、マンション中の人に聞こえるってわかってて、声を出したりはしないものね。やっぱり、彼女と二人きりで話させて」

「彼氏いる?」

 唐突な質問に、桃子はめんくらった。いつになったら一メートルもない六〇七号室のドアにたどりつけるのか。

「てか、まさか処女?」

「ちがいますっ!」

 反射的に大声が出てしまった。

「彼氏がいようがいまいが、それと近所迷惑な騒音と何の関係があるのよ」

 桃子はくってかかった。

「愛し合っている時の声って、我慢したって出るもんじゃん。おならと声は出した方がいいって、小学校で習わなかった?」

「はあ? 意味わかんないんですけど」

「だからさ、声を出すのもセックスの一部だってこと。静かにヤってたら味気ないっしょ。ドンドン声出して盛り上がっていかないとさ。ねえ、ほんとに処女じゃない?」

「ちがうっての!」

 男の疑るような視線を振り切るようにして桃子は六〇七号室のドアに向かった。ドアを開けようとしたまさにその瞬間、素早い身のこなしで男が立ちはだかった。正面突破するつもりだった桃子は勢い余って、男の胸に顔をうずめるはめになってしまった。汗でほんのり湿った肌に唇が触れ、慌てて身を引いた桃子は、その反動で廊下の壁に後頭部を思い切り強くぶつけて床に倒れこんだ。

「どんくさ」

 男はくすりと笑ってドアを開け、部屋の中に入っていってしまった。誰のせいだよと、男の消えたドアの向こうを睨みつけて立ち上がると、再びドアが開き、男が姿を現した。手にはアイスノンを持っていた。

「ぶつけたとこにあてときな」

「あ、ありがとう……」

 目は男を睨みつけながらも、口では感謝を述べていた。日頃、貴一の真似をして「ありがとう」というようにしているせいだ。

 桃子はカチカチのアイスノンをじんと熱くなっている後頭部にあてた。だが、強打したその部分より、男の裸の胸にあたった唇の方がよほど熱を帯びていた。

「あのさ、声を出すなとは言わない。けど、聞こえているんだよってことだけは言っておく。彼女にも伝えておいて。女の子だったら、ああいう時の声を人に聞かれているとわかったら恥ずかしいだろうから。あなた、彼氏でしょ。もうちょっと女心を理解してあげてもいいんじゃないかな。声を思い切り出して盛り上がりたいんだったら、ラブホにいくとか、防音設備のいいマンションに引っ越させるとか、考えたほうがいいと思う」

 後頭部の痛みがアイスノンの冷たさに騙されて感じられなくなったところで、桃子はアイスノンを男にむかって差し出した。唇の熱だけがいまだに落ち着かない。

「あのさ、何か勘違いしてっけど、ここに住んでいるの、オレなんだけど」

 これが六〇七号室の住人、大和亮平との最初の出会いだった。

「彼女、ってか、付き合ってないから彼女じゃないんだけどさ。仕事先の知り合いのコで、昨夜一緒に飲んでて終電逃したっていうから、うちに泊まっただけだし」

「付き合ってないのに、ヤったの?」

「いいじゃん、別に。お互い、ヤりたい気分になったわけだし」

「ヤりたくなったって……動物じゃあるまいし」

「人間も動物だよん」

「サイテー」

 桃子は亮平にむかってアイスノンを叩きつけた。冷たっと叫びながら、亮平は生きのいい魚を扱いかねるかのようにアイスノンを腕の中で踊らせた。

 七色の声を持つ女の正体は、七人の女だったのだ。思い出せる限りでも七人以上はいるだろう。別人のようだと聞こえていた声は、実際に別人の声だったというわけだ。それもすべて大和亮平が連れ込んだ女たちの。

(うわぁ、最低だ)

 まるで忌まわしいものにでも出くわしたかのように、桃子は両腕をこすり、冷蔵庫からアイスノンを出して、後頭部に当てた。

「ねえ、ちゃんと言ってきてくれた?」

 女の声が聞こえてきた。隣の六〇七号室からだ。くぐもっているものの、はっきりと言葉が聞き取れる。桃子は聞き耳をたてた。

「もう壁は叩かないと思う」

 亮平の声だ。壁を通すと柔らかみが増す。

「どういうつもりで壁を叩いていたのかな」

「オレらのヤってる声が聞こえてたんだって」

「えーヤだぁ」

 パチンと水を打つような音がした。女が亮平の肌を打ったらしい。

「まりあちゃん、いい声出してたもんね」

「ねえ、隣の人、男の人。女の人?」

「女」

「喘ぎ声がうるさいからって壁叩くなんて、欲求不満のモテないヒステリーばばあじゃない?」

 壁にむかってアイスノンを握りしめたが、かろうじて叩きつけるのはふみとどまった。

「ばばあって年じゃないだろうな。オレよりは年上だろうけど」

「リョーヘイより上ってことはアラサーじゃん。ばばあでしょ。彼氏もいないようじゃ、ブスなんじゃない?」

 壁をぶち抜いて踏み込んでやりたい気も、かろうじて押しとどめた。

「ブス、ではなかったな」

「ヤダぁ。リョーヘイのタイプだったりするの?」

「全然。胸だってないしさ。あれは多分Bカップだな。まりあちゃんのおっぱいは、うーんと」

「やだ、またするのぉ」

 きゃっきゃとじゃれ合った後、二人はまた始めてしまった。聞こえていると知らせてやったのに、まるで気にしていない。壁を叩いて注意する気も失せた。

 気を紛らわせようと、桃子は一番うるさいだろうと思われるCDを探しだした。中学の時によく聞いていたメタル系のバンドのCDで、バンドに対する熱が冷めた後は聴いていなかったが、捨てるに捨てられず、実家からもってきていた。今こそ、このCDが日の目を見る時である。

(近所迷惑でも構うもんか!)

 桃子は音量を最大限まであげた。ボーカルのシャウトが響き渡り、部屋全体が小刻みに揺れていた。打った後頭部がじんと傷んだが、喘ぎ声よりはましだ。シャウトに身をまかせ、二度寝は諦めて、コーヒーを飲むことにした。

 その時になって桃子はようやくTシャツ姿のままだったと気づいた。パジャマがわりに着ている古くなったTシャツで、喘ぎ声に起こされたきり、着替えていなかった。よれよれになった首元からは裸の胸がのぞいてみえた。

 多分Bカップ――

 亮平のセリフを思い出した。頭を打って廊下に座り込んでいた時にでも見られたのだ。

(サイテー男!)

 よれた胸元をつかみ、桃子は六〇七号室側の壁を睨みつけた。

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