第8話 六〇七号室の女
はぁっはぁっはぁっ……
荒い息遣いが聞こえてくる。隣の部屋からだ。壁が薄いらしく、上下左右の部屋の生活音は筒抜けだ。とはいえ、寝に帰ってくるだけの部屋だからさほど気にしてはいなかった。三か月前、隣の六〇七号室に新しい隣人が越してくるまでは。
はぁっはぁっああ…あは…はぁっ……
腹筋でもしているのだろうか。日曜の朝早くから体力作りとは、ずいぶん熱心な――
そんなわけはない。
処女じゃあるまいし、桃子には息遣いの正体がすぐにわかった。
はぁっはぁっああ…ん…はぁっ……
桃子はすぐさまテレビのスイッチを入れ、音量を上げた。気が紛れたのはほんのわずかな間で、まるでテレビの音量に対抗するかのように「声」が大きくなった。
(聞かせようとしてんの?)
そうとしか思えない声の大きさだった。
桃子はテレビ通販の画面を食い入るように見つめた。映像の力を借りて気を散らすしかない。
――散らなかった。
女の声がオクターブずつ上がっていく。アーアーアーアーアー……まるでアカペラグループの音合わせだ。
隣人は七色の声の持ち主だ。色っぽい低音の時もあれば、窓ガラスが割れそうな高音を出す時もある。同じ人間が出す声なのかと不思議に思うほど、まるきりトーンの違う時もある。一度、ガマガエルのつぶれたような声がしたことがあった。自分が相手の男なら、その気が失せると思ったものだが、出した本人もそう感じたらしく、ガマガエル声は一度しか聞いたことがない。
隣に住む女とは二度会ったことがある。最初は、マンションの火災報知器が故障した時で、女はドアの隙間から顔をのぞかせ、周りの様子をうかがっていた。桃子もまた、何ごとかとドアの間から顔を出して他の住人たちの様子をさぐっていて目があった。
夜中とあって女はすっぴんだった。かろうじて眉間に残る眉根は平安貴族を思わせた。実際、平安時代だったら美人だっただろう。細い目、鉤鼻、しもぶくれと平安美人に不可欠な三大要素がそろっていた。
二度目は、会社帰りに偶然エレベーターで乗り合わせた時だった。真冬だというのに真紫のミニワンピに白のファーのコート、白のニーハイブーツをあわせ、甘ったるい香水をつけていた。
その香水がきつくて、桃子はエレベーター内で窒息しそうになった。先に降りてくれないだろうかと願っていたら、桃子と同じ六階で降り、さっさと六〇七号室に入っていった。その姿は、以前見かけた時とはまるで別人だった。ロングヘアーの金髪は縦にロールが巻いてあった。細い目はアイメイクで大きさが二倍以上になっていた。
六〇七号室の女はどうやら男がいないと生きていけないタイプらしく、しょっちゅう男を連れ込んでいる。彼女が引っ越してきたその夜から、桃子は「騒音」に悩まされ続けている。
彼女には、朝も夜も週末も平日も関係ないらしい。いつでもイチャイチャ、ラブラブ、生理の時でも構わずヤっているようで、毎日毎日よく体がもつなあとかえって心配になるくらいだ。
こうもあっけらかんと声を聞かされ続けていると、悶々ともしない。さながらBGMのようなもので、他の部屋から聞こえてくるテレビの音や音楽と大差ない。大差ないが、うるさいには違いない。
桃子はげんこつをつくり、六〇七号室側の壁を二、三度叩いた。声のおさまる気配はない。聞こえなかったのかと、今度はやや強めに壁を叩いた。それでも声はやまなかった。
それなら気づくまで叩いてやろうじゃないかと、桃子は壁を叩き続けた。木魚を叩く要領で壁を叩き続け、そのリズムに恍惚となりかけていくうちに壁の向こう側が静かになっていると気づいた。ようやく桃子のメッセージが届いたらしい。
これでやっと平和な日曜の朝が戻る。まだ七時過ぎだった。今からでも二度寝するかなと思ったその時、部屋のインターホンが鳴った。
客がくる予定はない。宅急便でもないだろう。どうせ新聞の勧誘か、国営放送の受信料の取立てだろう。無視しておけば、そのうちいなくなるだろうと桃子はベッドにもぐりこみ、布団をかぶった。
だが、インターホンは鳴りやまなかった。まるで桃子がいるとわかっているかのように誰かがインターホンを鳴らし続けている。怖くなってますます出る気がしなくなったが、出なければ出ないで、インターホンは鳴りやまない。
恐る恐る玄関へむかい、桃子はドアスコープから外を確かめた。何かでふさがれているのか、ドアスコープからは白い靄のようなものしか見えなかった。ドアチェーンをしっかりとかけ、桃子はゆっくりとドアを開けた。
ドアの隙間から若い男が顔をのぞかせた。まるで爆風にでも煽られたかのように、男の長めの髪は根元から立ち上がり、好き勝手な方向を向いている。
「隣のもんだけど。壁叩くのやめてくんない? うるさいんだけど」
「うるさいってっ! 痛っ!」
逆に文句を言われたのに腹が立ち、くってかかろうとした勢いで、桃子は自分がかけたチェーンに思いっきり鼻頭をぶつけてしまった。それを見た男は、無遠慮に大声で笑った。
「うるさいのはどっちよ! 日曜の朝から声聞かされて参ってるのはこっちよ!」
「声? 声って何?」
男はにやついていた。わかっていて桃子に言わせようとしているのだ。まるでセクハラおやじではないか。オヤジというほど年はいっていない、桃子よりも二、三歳は若いだろうか。よく見ると、ひな人形のように整ったきれいな顔立ちをしている。
「ヤってる時の声よ」
桃子は胸を張って言い返してやった。セクハラをするような連中は、女性が恥ずかしがる反応をみて楽しむ。連中の思うツボにはまらず、ぎゃふんと言わせるには堂々と振る舞った方がいい。
「ムラっとしちゃうから、たまんないんだ」
「しないっての」
チェーンがなかったら、殴りかかっていっていたかもしれなかった。見知らぬ人間から身を守るためのチェーンだが、今は失礼きわまりない男を桃子から守ってしまっていた。
「近所迷惑なの。ヤるのは別に構わないけど、もう少し、音とか声とか、気をつかってくれない?」
「うるさいなら、そっちが耳栓でも何でもすればいいじゃん」
男は悪びれた様子もなく言ってのけた。どうやら自分たちが静かにするという考えはまったくないらしい。
「ねえ、ちょっとさ、彼女と直接話させてくれる?」
壁を叩くような隣人相手だからと用心し、六〇七号室の女は彼氏の男を差し向けたのだろう。だが、間に他人が入ると問題が大きくなるばかりでちっとも解決しない。
桃子はいったん部屋のドアを閉めた。今日こそは面とむかって隣の女に文句を言うつもりだ。
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