第14話 取り消せたなら

 PC画面が真っ白になったため、慌てて操作を取り消すコマンドを打ち込んだ。画面には、間違えて全削除してしまったプレゼン資料が出現した。人生でも前の行動を取り消せたらどんなにいいだろう。

 彩花に貴一と付き合うよう勧めたこと。

 彩花の男選びをかわってするはめになったこと。

 そもそも貴一を好きになったこと。

 どこまで取り消していったらいいのだろう。きりがない。そもそも、自分の取った行動を取り消せはしても、貴一が彩花を好きになったことは取り消せないのだから、何をどうあがいても現状を変えられはしない。

 貴一は彩花をホテルに誘った――

 貴一の気持ちを変えられないというのなら、世界のすべてをクラッシュさせてやりたい。

 マウスの横に置いたケータイに目をやる。着信音の鳴り出す気配はまるでない。桃子はケータイを手に取り、着信記録を確かめた。最後の着信は22時、彩花からのメールだった。

《ホテルに誘われた。どうしたらいい?》

 メールにはそうあった。

《まだ早いよ》

 とっさにそう返信した。それに対する彩花の返信はないまま、三十分が過ぎようとしている。彩花は桃子の指示に従って貴一を拒否しただろうか。

 メールを受け取ってからは残業どころではなくなってしまった。コピーするつもりが削除していたり、ペーストする場所を間違えたり、妙な記号を打ち込んでいたり、そのたびに取り消しのコマンドを打ち込むので、作業はちっともはかどらなくなった。それどころか、ファイルに保存するつもりがゴミ箱に捨ててしまいかねない。

 メールが届いていないのかもしれない。桃子は再びケータイを手にとって送信履歴を確かめた。メールは確かに彩花宛てに送信されていた。三十分前だった。

 誘いを断るのに三十分もかからない。三十分もあれば……

 貴一と彩花が付き合いはじめてから三か月が経とうとしていた。早いのか遅いのか、相手にもよるだろうから、桃子には判断できない。早いと言ったのは、貴一と彩花が関係を持つという現実にまだ耐えられないという意味だった。

 貴一が彩花と付き合うことになってから、いつかはこういう日がくるとわかっていたはずだった。貴一の優しい眼差しが彩花だけにそそがれていると考えるだけでも狂いそうな気持ちになるのに、その唇が彩花のものと重なる、その手が彩花の肌に触れると想像しただけでも、息がつまりそうになる。貴一の肌に彩花が触れるのかと思うと、まるで自分の体を触られでもしたかのような悪寒がする。

 ケータイをまた手に取った。彩花からのメールは来ていない。深呼吸をして、桃子はPCにむかった。誰もいないオフィスに、キーボードを叩く音が響き渡る。

「プレゼンの準備?」

 微かにアルコールを含む息が肩にかかった。振り返ると、貴一がPC画面をのぞき込むようにして背後に立っていた。

「何のプレゼン?」

「新商品のプレゼンです」

 桃子はマウスに手を置き、画面をスクロールアップしていった。画面の明るさに目を細めながら、貴一はプレゼンを真剣に眺めていた。

「手帳? いろんなものが出回っているから、目新しくはないね」

「そうなんですけど、私が考えているのは、スケジュール管理のための手帳ではなくて、イベントまでのカウントダウンをする遊び心のある手帳なんです。外国には、アドベントカレンダーといって、クリスマスまでの毎日をカウントダウンするカレンダーがあるんですが、それをヒントにしたもので、カレンダーではなくて、手帳でやってみたらおもしろいかなって」

「毎日めくっていくだけの手帳? それは手帳とはいえないだろ」

「手帳にはあらかじめ、その日にすべきことを印刷しておきます。たとえば、イベントがクリスマスだとしたら、それまでの毎日のページには、『プレゼントは買った?』とか『パーティーの用意は万端?』だとか。使う時には、プレゼントに買った物だとか、買いに行った場所だとかを書きこむようにして。ただし、書きこむ内容は、イベントに関係のあるものだけにして、イベントが終わったら思い出としてとっておけます」

「ターゲット層は?」

「若い女性です。イベントもいろいろ考えていて、今のところ、クリスマスがメインですけど、バレンタインまでのカウントダウンもいいかなって」

「ふうん」と言ったきり、貴一は腕組みして桃子の顔をじっと見つめた。先に視線を逸らしたのは桃子の方だった。

「らしくないね」

 桃子ははっと顔をあげ、貴一の顔を見上げた。

「らしくないって、どういう意味ですか」

「どうって……」

 今度は貴一が視線を逸らす番だった。

「立木が提案する商品は実用性第一といったものが多いだろ? 特定のイベントのスケジュールだけを書きこむ手帳なんて実用性のあまりないものを提案するなんて、何ていうか、凛としてクールなイメージの立木らしくないなって」

「凛としてクールなのが私だって、どうして先輩にわかるんです? 私でもないのに」

「わかるさ。付き合いは長いんだ、立木のことなら何でもわかってるさ」

 貴一は無邪気に笑った。そういう貴一だが、桃子が六年もの長い間寄せてきた気持ちは知らないのだ。

「やっぱり、やめます、この企画」

 きっぱりと言い放ち、桃子はファイルを閉じた。

「何で?」

「だって、私らしくないんですよね、この企画」

 沈黙が二人の間を漂った。

「やりたいんじゃないの、この企画」

「……」

「人にどうこう言われたくらいでやめるだなんて、それこそ立木らしくないな」

 貴一は桃子からマウスを取り上げ、ファイルをダブルクリックで開いた。中腰の姿勢で、椅子にすわる桃子に覆いかぶさるような格好でマウスを操作し、画面をスクロールさせ、何度かページを行ったり来たりした挙句、とあるページを画面に表示させた。

「ここのページに『母子手帳としても』ってコピーがあるけど、どうだろうな。確かに、出産は一大イベントだけど、生まれてくる日はクリスマスのように特定の日と決まっているわけじゃないだろ。予定日はあるだろうけど、それはあくまで予定日であって、ずれる方が多いんだから」

「確かにそうですね」

 桃子は該当箇所のコピーを消した。

「出産は個人的なイベントですしね。まずは、日付が決まっているイベントがらみの手帳から考えてみます」

「イベントが終わったら思い出として保存しておくということは、手帳そのものも取っておきたくなるようなものを用意しないと。デザイナーは決めた?」

「彩花を指名しようかなと」

 彩花の名前を口にしてから、しまったと桃子は唇を噛んだ。彩花をホテルに誘ったはずの貴一がオフィスにいる。彩花と何かがあったことは明らかだった。桃子はそっと貴一の顔をうかがったが、彩花の名前を聞いても貴一に変わった様子はなかった。

 仕事で問題を抱えても顔色ひとつ変えることなく、貴一は淡々と対処する。新商品が当たっても、バカみたいに騒いだりしない。どちらの場合でも、穏やかな微笑みを浮かべているばかりである。ポーカーフェイス。そんな貴一だから、自分を好きな可能性があるのかどうかはさっぱりわからなかったし、彩花を好きでいたこともわからなかった。

「長谷川さんなら適任だろうね」

「彩花、女の子アイテムのデザインは得意ですから」

「よく知ってるね。長谷川との付き合いはどれくらい?」

「同期なので、六年です」

「六年か――」

 貴一は隣のビルの明かりをぼんやり眺めていた。

「俺、長谷川と付き合ってるんだ――もう三か月になるかな」

 桃子が驚かないので貴一は察したようだった。

「長谷川から聞いてた?」

 桃子はこくりと頷いた。

「女同士って何でも話すものなのかな」

「何でもっていうわけじゃないですけど――」

 彩花に話していないことはいくらでもある。たとえば、貴一を好きなことだとか……。

「長谷川が入社してきた時から気になってたんだ。可愛い子が入ってきたなって。男どもがだいぶ騒いでいただろ。たぶん、彼氏がいるだろうからと思ってずっと諦めていたんだけど、思い切って告白したら、付き合ってもいいって言われてさ」

 胸が苦しかった。桃子が貴一だけを見つめてきた同じ時間、貴一は彩花だけを見てきたのだ。桃子は白旗をあげた。隙あらばという気持ちがないでもなかったが、これでは完全撤退するしかない。

「付き合っているんだけど、何ていうか、彼女、俺のこと本当に好きなのかなって」

「何でそう思うんです?」

「彼女、俺といても上の空で、ずっとケータイをいじっているんだ。俺と一緒にいて楽しくないんじゃないかと思うんだ」

 ケータイの相手は桃子だった。彩花は、会話の受け答えすらも桃子の指示をあおぐ。おかげで、知りたくもないのに、桃子は、貴一と彩花のやり取りを知るはめになった。

「今夜もデートしてたんだけど、ケータイいじってたかと思うと、急に気分が悪くなったから帰るって言いだしてさ」

「……」

「男としての魅力に欠けてるってことなのかな」

 自嘲気味に貴一は笑った。液晶画面に照らし出されて頬が青白く光っていた。

「先輩は素敵な人です。先輩に憧れてる女子社員だっているんですから」

「へえ、そんな子がいるの」

「私だって、先輩に憧れてます」

 どさくさまぎれに告白したつもりだった。だが、貴一は真に受けなかった。

「たとえ立木だけだとしても嬉しいよ」

 桃子の頭をぽんと軽く叩き、「プレゼン楽しみにしてる」と言って、オフィスを去っていった。

 後には、あたってくだけた桃子のかけらが残っているばかりだった。

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