第4話 歌声に誘われて
トイレから戻ってくると、暗がりのオフィスのどこからともなく女性の歌声が聞こえてきた。誰かが残業しながら音楽を聴いているようだ。
女性にしては低めのスモーキーな声。けだるいメロディ、哀愁を帯びたピアノの旋律。何を歌っているのかまでは聞き取れないが、幸せな恋の歌ではなさそうだ。
歌声は次第に掻き消えていった。再び訪れる静寂。突然、オフィスの暗がりを切り裂くパワフルな歌声がどこからかあがった。ジャジーなメロディライン。叩きつけるようなビートが忍び寄ってくる。
一目惚れならぬ一聴き惚れだった。魅入られた桃子は歌声のする方へと足を進めて行った。
「ごめん、うるさかった?」
桃子が近づいてくるのに気付いて、貴一は慌ててボリュームを下げた。
「もう誰も残っていないだろうと思ったから」
「うるさくなんか。誰の曲かなって気になったので」
「アデルっていうイギリスのアーティスト」
「声がいいですね」
「だろ?」
そう言うと貴一はボリュームを上げた。パワフルながら乾いてどこかアンニュイな歌声がたちまちオフィスに満ちていく。桃子は貴一のパーテーションに乗せた両手に顎を乗せ、聴き入った。椅子に座っている貴一も、両手を頭の後ろで組み、体でリズムを取っていた。
金曜の夜、十時過ぎ。オフィスの明かりはすべて落ちている。貴一のデスクランプだけでは心もとない暗闇の海。十二階のオフィスから眺める夜景は夜の海に浮かぶ夜光虫。
貴一はネクタイをはずし、シャツのボタンを外して、自宅でCDを聴いているようなうちとけた格好だ。まるで貴一の部屋で一緒に音楽を聴いているような雰囲気に、桃子は全身が熱くなった。
三歳年上の佐野貴一は、企画開発部の先輩だ。よき先輩として仕事の相談にのってもらううち、いつしか男性として魅力を感じるようになっていった。
一重瞼のきりりとした目元、鼻筋の通った決して高過ぎない鼻、ふっくらとした唇の口元は笑うと口角がキュッとあがる。短めの髪型のせいで、くっきりとした眉の美しさが際立つ。背筋の伸びた姿は折り鶴の優雅さを連想させる。常日頃、身だしなみには清潔感のある貴一だが、夜中近くとあってうっすらと姿を現しかけている髭が今夜は妙に艶めかしい。
「立木、この仕事、何年?」
「えっと……五年、今年で六年目です」
指折り数えながら答える。
「そうか、立木が六年目か。仕事が楽しくてしょうがないだろ。もう一人前だな。入社したばかりの頃はよく相談してくれたのに、このごろじゃ、さっぱりだもんな。先輩としては成長した後輩を誇らしく思う反面、寂しいような複雑な気持ちだね」
いつもより口角のあがりが悪かった。いつもなら輝いている瞳にこの夜は翳りがあった。
「先輩は楽しくないんですか、仕事」
「そうだな――」
次の言葉まで間があった。アデルの歌声をかきわけて貴一の声をとらえようと耳をそばだてる。
「楽しいことは楽しいよ。ただ、何て言うか、俺たちの仕事、商品の企画開発って、常に新しいものを生み出す仕事だろ? 入社したばかりの頃は、アイデアはあってもなかなか形にできなくてさ。ようやく仕事を覚えて自分の中にあるアイデアを形にできるようになったと思ったら、今度はそのアイデアが枯渇。それが今の俺のいる場所なんだなあ」
貴一は天井めがけて大きなため息を吐いた。天井に届くことなく、床に流れおちていくような重いため息だった。
「昔は、行き詰ると映画みたり、音楽聴いたりして脳をリフレッシュしたものだけど、今はまるでダメだ。何をしてもアイデアは思い浮かばないし、インスピレーションを感じない。リフレッシュじゃなくて、リセットが必要なのかもな」
「それって、仕事辞めるってことですか?」
返事はなかった。しかし、暗い天井を見上げたままの貴一の物憂げな瞳が雄弁に気持ちを語っていた。
「今はさ、新しい商品を生み出すのに、コストを考えてしまうんだよね」
「それって、ビジネスマンとして正しいのでは?」
「できるだけ金をかけないことを考えて作った商品を買いたいと思うか? 企業努力とかそういうことではなくて、数字をこねくり回すって意味のコストってことだけど」
顧客の立場になれば、一円でも安い商品を買いたいと思う。だが、物を造り出す側に立てば、コストと正比例の関係にある品質に妥協はしたくない。金をかけていい物を作るのは道楽、金をかけないでいい物を作るのが商売。それが、桃子たちの上司の口癖であり、モットーだ。
心のどこかで上司や社の考え方に反発を覚えながらも、桃子は逆に創意工夫の余地を探ることを楽しんでいる。だが、貴一の言い分も痛いほど理解できた。物作りの現場を知らない人間というのは桃子の会社にもいて、数字の大きさだけで無駄だと判断し、削れと要求する。創意工夫もあったものではない、無味乾燥だ。数字を考えて作った商品もまた味気がない。だから、売れない。
「感性が硬化しているんだ。何を見ても感動しないし、笑えないし、涙も出ない。このままだとロボットになってしまいそうだ」
「だから、辞めたい?」
再び返事はなかった。
仕事を辞めたい気持ちが貴一の心の隅で根を生やしつつあるようだった。桃子も何度か体験している。
本心では辞めたくないからこそ、貴一はせっせと辞めたい気持ちをむしり取っているが、むしってもむしっても虚しさと辞めたい気持ちとがどこからか芽生えてくる。絶え間ない闘いを繰り返し続けている貴一は疲労し切っている。「辞めたい」と言葉にしてしまえば、形勢が逆転してたちまち辞めたい気持ちにのみこまれるとわかっていて、貴一は無言を貫いているのだろう。
「先輩、辞めないで下さい。先輩、この仕事好きでしょう? いっぱい相談にのってもらったから、私、わかってます。好きだからこそ、コストを考えて品質に妥協していくのが嫌になっただけなんです。ギリギリまでコストを削るのも楽しいって考えればいいんです。先輩に必要なのはリセットじゃなくて、リフレッシュです。わかってるから音楽聴いているんですよね?」
いつの間にか、貴一は頭の後ろで組んでいた両腕をほどき、胸の前で組んでいた。背筋がピンと伸び、横顔ではなくて正面の顔を桃子にむけている。折り鶴の凛とした佇まいがよみがえろうとしていた。
「来月、アデルが来日するんだ。でも忙しくてライブには行けないだろうな」
「忙しいなんて言い訳しないで下さい。ライブに行かないと仕事にならないくらいの勢いでチケット取って、何ならその日は仕事を休んででも行くべきです」
「何だか立木がアデルのライブに行きたい感じだなあ。そんなに気に入った?」
貴一の顔にようやく笑顔が戻った。口角がキュッとあがる。小鼻につきそうな勢いの最大角度。桃子が一番好きな貴一の笑顔だ。
(先輩をライブに誘ってみようかな)
そう思った時だった。
桃子のケータイがけたたましく鳴った。着信を見ると彩花からだった。
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