黙り込んだまま、ふたりは別れた

扇智史

* * *

 口づけの瞬間に、痛みと血の味が同時に押し寄せる。私が本能的に唇を離すと、千咲ちさは即座に私の胸を突き飛ばした。積み上げたジェンガが崩れるみたいに、私はクッションの上にお尻から落下する。実家にいるときからずっと使っている、たくさんの記憶と汗と涙がしみこんだ丸っこいクマのクッションだ。

 頭が真っ白になったまま、千咲を見上げる。つい一瞬前まで、手の届くところにあったはずの彼女のほおが、カメラの焦点が急に狂ったみたいに、おぼろげに見える。

 千咲は、胸の前で、私を拒絶した右手を何度も開いたり閉じたりしている。右手の中指で、去年のクリスマスにプレゼントした指輪が、柔らかい蛍光灯の明かりを反射してちかちかと点滅する。赤い舌をちらりと出して、千咲が唇をなめる。言いたいことを押し隠しているときの、彼女の癖だ。そういうときは、私からそれとなく促して、胸の奥のわだかまりを吐き出させてあげるのが、いつもの私たちのやりとりだった。

 なのに、私は驚きのあまり口を開くことができない。腰の下で、クッションが平べったく潰れて、床の冷たい固さが背骨ににじむ。

 千咲との間に隔たりを感じ始めたときがいつだったのか、思い出してもよくわからない。ただ、言えないことや言わないことが増えて、ふたりの会話はいつしかうわべだけの薄っぺらなものになっていったことだけは、なんとなく感じていた。積み重ねられる時間は、ふくらみすぎた洋菓子のように、あちこちに穴の開いた崩れやすいものになっていった。

 口の中で、血の味がうすく広がる。口づけとふれあいでごまかし続けてきたよどみが、薄い膜を突き破ってきたのかもしれなかった。

 白いティーカップの中で、とっくに熱を失った紅茶がゆるやかに波打つ。ふたつでひと揃いのカップは、私たちが付き合い始めてから半年後に、旅のお土産に買ったものだった。晩秋の信州は肌寒かったけれど、東北の端のほうで育った千咲は肌が透けそうな薄着ではしゃいでいて、着ぶくれした私を笑っていた。

 温度を測って、湯を注ぎ、茶葉から色と香りがしみ出すのを待つ間、私と千咲はかぎりなくとりとめない会話を往復した。一緒にいる時間を惜しんで、沈黙が降りるのを恐れるように繰り出された言葉は、もう、その大半が記憶にも残っていない。

 千咲が、わずかに眉をひそめる。何か言いたいことはないのか、と待っているようにも思えたし、ひとことでもよけいなことを言ったらのどを踏み潰す、と脅しているようにも見えた。

 じん、と、床についた右手が痛む。しなを作るみたいに横に曲げた両脚は、立ち上がろうともせずに力なくくずおれたまま。彼女から、いまの私はどんなふうに見えているのだろうか。

 恋人に突き放されてショックを受けている、あわれな女か。気持ちの離れた相手にいつまでもねちっこくしがみつく、みっともない女か。それとも、状況を何も理解できない、おろかな女か。

 まばたきをひとつして、千咲を見つめる。首元で、シルバーの細いネックレスが輝いている。あんな鋭くて攻撃的な印象のアクセサリは、好きじゃないはずだった。私がいつかあげたのは、もっと柔らかくてやさしいイメージだったのに。

 千咲が深く息をつく。肩を通り越して、肩甲骨に届きそうな髪が、かすかに揺れた。短いのが好き、と私が口にして以来、ずっとうなじを越えないぐらいにとどめていたはずだったのに。

 首を振る。ずっとつけていた両耳のピアスが、いつのまにかなくなっていた。絶対に似合うから、と、私がせがんで、はじめて千咲が自分の体に穴を開けた、記念すべきものだったはずなのに。

 時間をかけて、私が千咲に刻みつけていったしるしが、ひとつひとつ丹念に剥ぎ取られて、いまはもうかけらも残っていない。

 ずうっと、千咲はメッセージを発していた。きっと伝わるはず、と信じていたのかもしれない。

 なのに私は、明らかな表徴をあえて見過ごした。けたたましい主張を聞かなかったふりをした。いままでと変わらない暮らしを続けていくことができると、信じ込んでいた。

 彼女も、その声を無視した。

 いや、きっと、聞こえたからこそ、あきらめたのだ。何もわかっていない、愚者のふりをしている私を。

 千咲は一瞬、口を開きかける。一瞬だけゆるめられた眉尻に、私は思わず泣きそうになる。それは、どうしても仕事に行きたくないとぐずったり、パクチーの香りがきつすぎる創作料理がどうしても食べられなかったりする私の頑是なさを許してくれるときの目だったから。

 でも、千咲は結局、唇を引き結んだまま、きびすを返した。

 彼女はずかずかと部屋を横切っていく。いつも掃除機をかけてくれていた床にも、ふたりできれいに使い続けたキッチンにも、ふたりで使うには手狭だったバスルームにも、たくさんの記憶がまとわりついて、かすかなささやきを発している。千咲にも、それとも私にも、もうその声は聞こえない。

 千咲は、すこし乱暴に靴を履き、硬い足音を響かせてドアから飛び出していく。あんなにヒールの高い靴を、いつから持っていただろうか。彼女の背がいつもより高くて、普段よりも顔を私に近づけていたのに、私はずっと気づかなかったのだろうか。

 どうして、こうなってしまったのだろうか。千咲のことを愛し続けてきたはずなのに。彼女に尽くしてきたはずなのに。彼女が私の理想に近づいてくれるようにすべてを与えて、そこから離れたところもすべて許してきてあげたはずなのに。うまくいっていたはずなのに。

 いや、それとも、私は最初から、

「――――――――」

 言いたいことはたくさんあった。それなのに、うつろに開いた唇からは、なんの言葉も出てこない。

 がくり、と肘が折れて、私は潰れきったクッションに倒れ込む。斜めになった視線は、自然、千咲の去って行った方に向けられる。

 甲高いチャイムが鳴るのを待ちわびて、私はいつまでもいつまでも、暗く重たいドアを見つめ続ける。

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黙り込んだまま、ふたりは別れた 扇智史 @ohgi_

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