第2話 母の名はお花畑…パール

(…朝から 疲れたわ)


 早朝でも夏真っ盛り。

 大量の汗をかき、熱気で息苦しい。

 部屋付きメイドが使っていた屋根裏が、ヴィバロッテの寝室だ。


(これって妄想? やだ…イタい人になる)


 今ではない遥か昔の記憶がある事に、頭がおかしくなったのかと悩む。

 決してではなかった筈だと、羞恥に塗れた思い出を追いやった。


(忘れよう。今は三才、幼気いとけない幼女だから…)


 深呼吸で不要なものを吐き出したヴィバロッテは、気合を入れて立ち上がる。

 ラピスは涼しい場所を求めて、飛び立った。

 危なげなく梯子を伝い降りれば、母の居間に隣接した小さな厨房に降り立つ。

 散らかった服を避けて歩き、ため息と共に叩いた寝室の扉は、開ける気にもならない。

 眠たげな母の返事を確認した後は、一階の食堂へ先に向かう。


 重い寝室の扉を全力で押し開けると、擦り切れた絨毯を敷いた貧乏臭い廊下に出た。

 ヴィバロッテとして物心がついた時には、すでにこの状態だった。

 ここは、モナイト男爵家の邸宅だ。


 こぢんまりした外観は、白亜の建造物だった名残が、ほんの少しある。

 モナイト家は商人から成り上がった貴族で、下賜された領地は持たない。ただ、資産は潤沢だ。と、母のパールは事あるごとに自慢する。

 末席とは言え、男爵位を賜った裕福な商人貴族だったらしい。

 内情の苦しい他家に財を融通しては、強い繋がりを結んで、のし上がった。


 気位の高い高位貴族の中には、眉を顰める者も多くいたようだ。

 母パールがヴィバロッテを身ごもったせいで醜聞に塗れ、相手の正妻から請求された慰謝料で財を使い潰し、他家に融通した財を踏み倒された挙句に没落した。

 自由奔放な母を見ていれば、自業自得の結果だろうと察しはつく。

 財も信用も失くしたモナイト夫妻は、瞬く間に衰弱して亡くなったと聞いた。

 没落してなお逞しく生きる母パールは、未だに社交界で名が囁かれる悪女だ。


(悪い噂を、わざわざ娘に聞かせるか? )


 階下に住む元使用人の古株たちが囁く情報は、碌でもないものばかりだった。

 年端もいかぬヴィバロッテに聞かせる類の話ではないのに、口さがない。


 正面の踊り場へ続く廊下の両側は寝室で、六年前まで家族のフロアだった。

 ヴィバロッテが出て来た最奧の一番大きな部屋は、モナイト男爵夫妻の寝室だったが、今はヴィバロッテの母の部屋になっている。

 入ってすぐの居間と奧の寝室。衣装部屋に洗面浴室があり、専用の部屋付きメイドの控え室が屋根裏にある。その屋根裏の控え室が、ヴィバロッテの寝室だ。

 低い木箱に数枚のシーツを重ねただけのベッドでも、野外で眠るよりマシだろう。


 踊り場に向かって歩きながら、ヴィバロッテはため息を吐く。

 右手の三室には劇場の踊り子たちが、左手の三室には女性パーティーの冒険者たちが、それぞれ宿屋代わりに入居していた。

 朗らかで鷹揚な女性たちをヴィバロッテは好もしく思っているが、母の不遜な態度で怒らせるのが嫌だった。


(…今日も、揉めそう)


 母の居間で脱ぎ散らかした服には、女性以外の物が混じっていた。

 箍が外れているとしか思えない。またひとつ、重たい吐息が落ちた。


 モナイト家の屋敷は貴族街の外れにあり、上層商店街に近い。

 宿屋街より治安が良い為、没落してからは古株筆頭のカロットが中心になって、格安の賃貸物件に様変わりし、なんとかやり繰りしている。

 一階にいる古株は、四家族。

 代々モナイト家の執事を務め、現在は長期宿泊所に様変わりした屋敷の管理人をしているカロット一家。

 庭師だったガルデン一家と門番だったドゥーア一家は、庭の倉庫で運搬業を経営し、料理人見習いだったクックァ一家は、広間を改装して食堂を開いている。


 土地建物の所有者である母パールの収入は、宿泊料と古株たちの家賃から、必要経費を引いた差額だ。と聞いているが、母の贅沢を見ていると、他にも資産はありそうだった。

 贅沢をしなければここだけの収入で充分だが、貴族の暮らしが当然な母にとっては端金。結果、ヴィバロッテの食生活は厳しい。

 服も二着を着回し、寒い時期には母が着古したコートに包まって過ごす。遠い記憶を思い出した今、とんでもない生活から脱出したいと願っても、罰は当たらないはずだ。 

 母パールが引き起こすトラブルの度に、古株の住人が漏らす陰口。

 昨日までは訳が解らなかった内容も、全部に納得できるヴィバロッテだ。


「おはようございます」


 賑わう食堂の配膳口で、ヴィバロッテは厨房に声をかける。

 途端にクックァの娘が嫌そうに顔を顰め、カウンター奧のせせこましい台に、朝食の盆を叩きつけるように置いた。

 スープが溢れてパンを濡らしても、御構い無しだ。


「…ありがとう、キャリーさん」


 無視した背中にお礼を言っても、返事は返ってこない。


(わたしは、空気…か)


 食事を始めて、やはり嫌われていると思う。

 古くて硬くなったパンを、水のような具無しスープに浸す。 

 今日はまだ、新しい部類だ。

 寒い間は、状態が怪しくなった食事を出された。さすがに暑くなって食中毒を起こせば、食堂の商売に障りがあるのだろう。案外に人の目は、よく見えているから。。

 病気になりかねない物を避けてくれて、ありがたい。


 どんな嫌がらせも無視し、倍以上の仕返しをする母の代わりに、クックァの娘キャリーは、ヴィバロッテに当たり散らす事で鬱憤を晴らしていた。

 何をしても反抗しない、反抗できない三歳児に八つ当たりするとは、いい性格をしている。

 成熟した記憶を思い出した今、冷めた気持ちで思う。

 現状を色々と思い巡らした結果、諦めから腹立ちに変わってきた。


 食堂には冒険者パーティーの女性たちが、出勤前の食事を掻き込んでいた。

 踊り子の少女たちも、楽しげに会話しながら食後のお茶をしている。

 ヴィバロッテに絡むような人は、キャリーくらいだ。

 まだ救いはある、はず。


 三歳児の小さな口でモソモソ食べていると、穏やかなざわめきが急に止んだ。 

 上げた視線の先。食堂の出入り口で仁王立ちしている母と、軽薄そうな派手な男が目に飛び込んでくる。下品だが上質な服装の男は、貴族に見えなくもない。

 できれば食事が終わってから来てほしかったが、ヴィバロッテの食事を改善するチャンスかもしれないと、思い直す。


 すぐさま潮が引くように、女性客がいなくなった。

 好き好んで騒動の原因と、同室したい人はいないだろう。

 出て行く女性たちを、完全に見下した目で見る母に、ヴィバロッテの心から大事な何かが抜け落ちていった。


(部屋に帰りたい…)


 中央に置かれた六人席のテーブルに、ふたりで陣取った母と男。

 これから掻き入れ時になる食堂で、この配置は無神経だ。

 給仕するキャリーは、顔が真っ赤になるほど怒りを我慢している。

 苛々するキャリーがひときわ不機嫌な理由に、ヴィバロッテは思い至った。


 他人の大事なものを奪って、自分のものにするのが大好きな母パール。

 手に入れた途端、興味を失って捨てるのも母の癖だ。

 大事な人を盗られて傷ついたり悔しがったりする者を、母は微笑んで見るのが好きだ。

 大人の理性や常識を理解せず、世界の中心が自分だと疑いもしない母が、世間に受け入れられる道理はない。


 今年の初め、クックァの娘キャリーと、管理人カロットの息子ディランが婚約した。

 十六の娘と二十五の男。年の離れたふたりだが、微笑ましいほど仲が良かった。

 母パールが摘み食いさえしなければ、幸せな夫婦になると誰もが思った。

 屋敷の中で浮気をして、バレないと思う方がどうかしている。

 思春期の娘キャリーが許す筈もなく、婚約は解消され、ディランは追い出された。


 いくら管理人の息子でも、浮気の当事者ふたりが、同じ屋敷に居るのは非常識だ。

 パール親子が出て行ったなら、キャリーもディランと縁を戻したかもしれない。だが、パールは屋敷の所有者、モナイト家の主人。

 没落しても身分を剥奪されていない男爵令嬢で、現在の家主だ。追い出せる筈もない。

 かくしてキャリーは、婚約を破談にした元凶と毎日顔を合わせ、嫌でも食事の世話をする羽目になった。

 気性の激しいパールに言い負かされる分、娘に八つ当たりするくらいしか、キャリーにはできなかったのだろう。

 事情を知っている屋敷の者も、キャリーの感情を思えば、口は出せない。


(大人の都合でしょ! やられる身にも、なって欲しかったわ……)


 だれも助けてくれないなら、自分で自分を助けるしかない。

 生前の記憶を思い出したヴィバロッテは、自ら動く決意を固めた。


 母たちのメニューは豪華で、ヴィバロッテに対する人権無視に腹が立つ。

 見るからに柔らかそうなオムレツには完熟野菜の赤いソースがかかり、具沢山なスープの彩りも良い。ふっくらした角パンは切り口がきめ細やかで、乗せただけで溶けるバターが美味しそうだ。

 香り高い薫製肉の薄切りに、焦げて香ばしく蕩けるチーズ。


 思わず喉が鳴る。


 毎日毎日、違う男を連れ込んで、娘の食事をあてがう母が憎らしくなってきた。

 昨日までなら、これを理不尽とは感じなかった。いや、思いつかないほど幼かった。


 ヴィバロッテはカウンターの椅子を降り、貧しい朝食が乗った盆を手にする。

 多少溢れても構うものかと一気に辿り着いて、母たちのテーブルに食事を置いた。

 咎める母の視線も無視して、椅子に這い登る。


「おはようございます、パールお母さま。今日からは、ご一緒しますね」


 呆気にとられて口を開けたまま固まる母を無視し、下品な男に笑ってみせる。


「素敵な朝食ですこと。遠慮なく召し上がれ」


 口元だけ笑った男が、眇めた目でヴィバロッテを値踏みした。


「面白いお嬢さんだ。どうかね、わたしの言う事を聞けば、君のそのではなく、これを食べる許可をあげよう」


 ヴィバロッテの朝食を見ながら、嫌らしい笑顔で囁いた。

 嗜虐幼児趣味でもあるのかと流しながら、あざとく小首を傾げるヴィバロッテ。


「面白いおじさん。それはわたしの朝食なの。だから召し上がれって言ったでしょ? 」


 わざとスープをかき回しながら答えた声は、静まり返っていた食堂に響き渡った。


「ヴィ! 黙りなさい」


 怒鳴るパールと笑みを浮かべる幼女を見比べて、男は引きつった顔で立ち上がった。


「失礼するよ、パール嬢。わたしの趣味には合わない」


 素早く出て行こうとする男に、パールが縋り付く。


「子爵、どこに行くの? ずっと一緒だって、言ったじゃない」


 出入り口で男を捕まえ、梃子でも動かないパールが邪魔で、朝食に訪れた常連客が、中に入れず混雑し始めた。

 ほとんどの客が、またかといった表情をしている。


「パール嬢、いい加減にしてくれないか」


 乱暴に引き剥がされたパールの目に、涙が盛り上がる。


「酷い」


 胸元で指を組み、涙を溜めて上目使いするパールを初めて見たなら、庇護欲で抱きしめたかもしれない。


「…終わりだ、パール嬢。二度は言わない。わかるね? 」


 そそくさと逃げ出す男に、複数の視線が突き刺さった。

 のパールを客が押しのけ、食堂のテーブルが埋まって行く。


 男が席を立った時点で、ヴィバロッテはパンに燻製肉やらチーズを挟み、ハンカチで包んだ。

 今日も前ポケット付きのエプロンドレスなので、包んだパンを仕舞うのに最適だった。

 持ち帰れないオムレツを掻き込んで、具沢山のスープで流し込む。

 もう少し口が大きければ完食も夢ではなかったが、客の席をいつまでも占有できない。

 椅子から降りて通り抜けざま、素早く母の皿からパンだけ掴み取る。

 食堂から飛び出した後は、一目散に階段を駆け上がった。


(はぁ、まともな親が欲しい。落ちていたら拾うのに…)


 面倒臭い母が追いかけてくる前に、ヴィバロッテは素早くパンを咥え、屋根裏部屋への梯子をよじ登った。

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