第7話

子豚にされてから一週間、私はすっかり子豚生を謳歌していた。

疾患のない健康的な体、そして何にも縛られることのない自由気ままな生活!

黙々と家事をこなしてくれているぬいぐるみ達の横を通り抜け、ルンルンと定位置のソファーに登る。

昼間だが癖でカーテンを閉め切っているリビングは少し薄暗い。

「…………。」

(……うん、それにしても暇だなぁ。クマにご飯でも作ってもらおう。)

私はぷぎぷぎと鳴き、クマを呼ぶと何をしていたのかクマの肩や手には白い桜の花びらが付いていた。

(?なんで花?)

私は一瞬考えたが、これが動物の本能なのかそんなことよりも飯だと脳が催促して体もそれに促されるように腹からぐぅ~という音が漏れ聞こえてきた。

豚の体になって初めて空腹という感覚がどれだけ辛いものなのか理解できたし、食べるということの喜びも味わうことが出来た。

なによりたらふくご飯を食べた後にふわふわのおふとぅんで眠る心地良さと言ったらなかった。

「ぷぎぷぎぷぎ。」

私の鳴き声にクマはゆっくりと頷くと、さっそく冷蔵庫をあさり始めた。

(ああ、もうこのまま子豚として生きるのもいいなぁ~。私は別に養豚場の豚でもないから食べられる心配もないし?なんやかんやぬいぐるみ達が世話してくれるし最高じゃないか!)

「ぷぎぃ~♡」

私が喜びにポテポテと喜びの舞を踏みながら歓喜の声を上げると、クマが冷蔵庫のドアを閉めた拍子に磁石で留めてあったカレンダーがひらりと落ちた。

そのカレンダーを何気なく見ると、なにやら明日の日付に赤丸が付いている。赤丸は基本的にドタキャンが出来ない大事な予定の意味としてつけている。

(明日…なんかあったっけ…?)

フゴフゴと鼻を鳴らしながら懸命に思い出そうとするが、全く思い出せない。

基本的に友好関係はさほど広くない為、誰かと会う約束ではないことは確実だ。だとしたら仕事関係か?と考えるが、この赤丸は‟外出”を必要とする用事のことを指す。クライアントとは基本的にメールでのやり取りの為、その可能性も薄い。仕事でもなく、友人との予定以外でこの出不精の私が絶対に家を出なけばならない用事となると…。

(あっ!病院だ!)

ピコンと頭上に豆電球が光り、心のモヤモヤも一気に晴れた。

(病院かぁ…まぁぶっちゃけこのまま豚でいれば薬も必要ないのだけど…行かなかったらきっと電話くるだろうしなぁ、先生に怒られるのも嫌だしちゃんと行こう…。)

気乗りしないはしないが仕方ない、病院から戻ってきたらまたあの男に頼んで豚にしてもらおうと考えながら私はその男を探しに歩き出した。

(そう言えば今日はまだ一回も姿を見てないなぁ、どこだろ。)

ポテポテと小さな歩幅で歩きながら私の為に開けっ放しにされている部屋の中を順番に確認するが、どこにもいない。

(あれー?)

私は一番最後に寝室へと入り、部屋の中を見渡すとなぜか床中に白い桜の花びらが散らばっていた。

「ぷぎっ⁉」

驚きながらベットに目をやるとそこにはぐったりと倒れ込んで眠る男の姿があった。投げ出された右手には親指が無く、その傷口から血液が流れていると思いきや白い桜の花びらがひらひらと零れ落ちていた。

その舞い落ちる花びらを目にした瞬間、私の心臓がズクンとまるで握り潰されるような感覚を覚えた。

そして心臓の痛みと共に何かの映像が一気に脳に流れ込んできた。

白い雪、大きな桜の木、そしてこのベットに横たわっている男と同じ顔の男。

黄金に輝く長い髪の華やかな女性の笑顔、そして次の瞬間にはその女性が血を流して横たわっていて、それを冷たい目で見降ろす月白色の髪の男。

その美しい口が何かを言っているのか、動いてはいるが、声は全く聞こえない。

映像ではずっと後ろ姿だった男が月白色に輝く長い髪を翻してこちらを振り返り、なんの血だろうか、美しい口の端から血を滴らせながら、こちらに向かって甘く微笑んだ。


『君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな。』


「うえぇぇええええ‼」

その部分だけが唐突に脳に直接響いてきて、私は突発的な吐き気に襲われた。

反射的に抑えた両手を見ると黒々とした血が汚している手は豚の前足ではなく、本来の人間のものだった。

ガンガンと頭が割れそうな程の頭痛と、内臓だけが焼け付くように熱く、鋭く痛むかと思えば、手足や頭は凍り付いていくように体温を失っていく。

私は痛みで床に這いつくばり、吐血を繰り返した。

『な、にをしている……?』

私が割れそうな頭を懸命に持ち上げると、そこには呆然と立ち尽くす男の姿があった。美しいアクアブルーの瞳は見開かれ、動揺で揺れている。

「かみ…さ…、ま…。」

力尽きたようにパタンと倒れ込む私に男がなにか叫んだ気がしたが聞き取ることが出来なかった。



『死ぬな、死ぬな………!』

男は倒れた私をベットに寝かせ、胸に手をかざすと、散りかけていた白い花に残っている花弁が萎れ始め、茎自体からも正常な色が失われていた。

『ダメだ!私から離れることは許さない、許さない……!』

男は薄い呼吸を繰り返すだけの私を冷たい腕で抱き、親指の失われた右手首を空で軽くグルグルと回すと、あちらこちらから水の雫のようなものが男の前に集まりだした。その雫がある程度の大きさになると男はその雫を次は私の胸の中へと押し込んだ。

しかし、その雫を枯れかけた花は吸収することなく、むしろ残っていた花弁の内の一枚を雫の重みで散らせてしまった。

『なぜ…なぜだ⁉なぜ拒絶する⁉どこまで…どこまでお前は……‼』

ぐったりとする私の体を激しくゆすり叫ぶ男。

「…………。」

しかしその声に私は眉を寄せただけで言葉を返すことはしなかった。


そうしてどのくらいの時間がたったのか、いつの間にかカーテンの隙間から差し込む光が月明かりへと変わった頃、男は私を抱えて寝室を出て、リビングへと移動を始めた。家の至る所では途端に動きを止め、その場で倒れ込んだぬいぐるみ達が床に転がっている。男はそんなぬいぐるみ達を踏みつけながら進む。

私をいつものソファーに寝かせ、カーテンを一気に開けると、窓の真正面に煌煌と金色に輝く満月が現れた。

『満月……。』

もう間に合わない、男はそう思わざるを得なかった。

降り注ぐ月の光を浴びて、ソファーに横たわる女がみるみると姿を変えていく。

黒く長い髪は艶を帯び、水分と色を失った口元にはほんのりと血の気が戻り、陽の光で爛れた痕も徐々に均等な肌の色へと戻っていく。

痛みで寄せていた眉は穏やかになり、薄く短い呼吸音は穏やかな寝息に変わる。


月が満ちてしまった。

満ちてしまった月はまたかけていくしかない。


『嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな…。』

「泣いてないじゃないですか…。」

金色の満月を見上げて呟いた男の声に突然軽やかで滑らかな声が返ってきた。

『子豚…!』

突然の声であったのにも関わらず、男はサラリと優雅な動きでソファーに上半身だけ起き上がらせた私に跪いた。

「え、なんですか…。」

驚いたように男を見つめる黒目がちな大きな瞳は月明かりを浴びてその奥が虹色に輝いて見えた。

『動けるのか?』

「あ、はい。なんだか急に体調悪くなったかと思ったら、今度は急に体調がいいです。」

ニコニコと微笑む私に男はフッと息をつき、『そうか。』という短い返事とは裏腹にホッとした様子で微笑んだ。

「そう言えば、夢をみました。凄い断片的にしか覚えてませんけど、神様が出てきましたよ。」

『そうか。』

下から私を見つめる男の目は優しく、声もどこか甘さを感じさせるものだった。

(なんかやけに優しいな…。)

若干気持ち悪さを感じながらもこの際だからと私は続ける。

「そうそう、それで夢の中の神様はすっごく優しくてさ!そんでもって穏やかでぇ~、私、あーゆー神様が好きだなぁ~。」

『うん。』

少し狙いがあからさまな発言だったかと言葉にしてみて思ったが、予想外にも男は素直に頷いた。

(……いや!ほんとにこの人どうした?)

『夢の中の私は…どんな姿をしていた?』

「どんなって…普通に今とおんなじ…ですけど?」

(まぁ、なんか口から血が滴ってましたけど!)

『そうか。』

男は私の返事を聞くとふわりと無邪気に微笑み、嬉しそうに私の座るソファーへと乗り込んできた。流れる様にソファーの上で後ろから男に包み込まれる形にされた私は冷たい、逞しい男の胸にそのまま身を委ねた。

(なんか機嫌良いみやいだし、合わせとこう…。そうすれば豚に戻るときもスムーズだろうし。)

男の冷たい体を背中で感じながら私はその時初めてある違和感を感じた。

(…鼓動が、しない?)

私はさりげなく確かめようと眠いフリをして体の向きを変え、男の胸に耳を当てた。

(……やっぱり…しない。)

神というだけあって人間の姿なのはやはり形だけで内実は違うということなのだろうか。

『それは違う、神にも心の臓はある。』

「え、でも…。」

『私のものか?』

「あ、はい…。神様から鼓動がしないんですが、あれですか?人間とは位置がちがうとか、ですか?それとも神社とかの社の中に置いてあるヤツとか?」

(……不定期に心読むのやめてくんないかなぁ、前から気になってはいたけど。)

『ああ…そのような神もいるが、私は神の中でもお前たち人間に限りなく近い作りになっている。』

「へぇー、どうしてですか?神様ならむしろでっかい龍とかの方がカッコつきません?人間と近い姿じゃ一見絶世の美男子ってとこに落ち着いちゃいますよ?」

『絶世の美男子…?お前は、私の見た目が美しいと思うのか?』

急にまじまじと私を見つめていう男に、私は一瞬「ん?」と瞬いたがすぐに「はい、綺麗だと思いますけど…。」と男のアクアブルーの瞳を見つめ返した。

男は私のその言葉にふむ、と頷くと『まぁ、人間としての美的感覚はおかしくないようだな。』とフッと微笑んだ。

突然の男の発言に間抜けにもポカーンと口を開いたまま何も言えないでいる私に、男は続ける。

『私の心臓がどこにあるか知りたいか?』

「それは…まぁ…。」

若干さっきのナルシスト発言によって興が削がれた気もするが喋りたいのなら喋らせておこうと私は思った。

『ここだ。』

男は短くそう言うと、そっと私の平らな胸に冷たい手を置いた。

「はぁ…。」

『………………。』

「………………。」

『………………。』

「って、え?説明なしですか?」

『必要か?』

「あ、はい。お願いします。」

混乱する私の顔をなぜだか見守るような笑顔で終始微笑んでいる男。

(……なになになに?なんなんですか、その顔ぉ~怖い~。)

『私が、お前にこれを与えた。お前のここで動いているのは私のものだ。』

「あ~、なるほど納得っス!」

(なるほどね、いつしかの神様論ね。俺が作ったからお前らは俺のもの的なね、だからお前の心臓も俺のものってことね。流石だわぁ~。)

『お前はなにか勘違いをしている。』

つい数秒前まで微笑んでいた男の顔が急に不機嫌になり、腰に回された男のガッシリとした腕がきつく私を抱き寄せる。

(やべ、心読まれた…?)

「え、違うんですか…?」

『うん。』

美しい口をとがらせる男に「じ、じゃあ順を追って説明してください…ね?」と私が機嫌を取るように男の顔を覗き込むと背けた顔はそのままで男はアクアブルーの目だけを動かし、チラリと私を見ると『分かった。』と子供のような口調で呟いた。












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