第6話

小さい頃から食事を摂るのが苦手だった。

空腹も感じず、何かを‟食べたい”と思うことも無かった。

しかしその時間は毎日三度やって来る。

純粋に苦しかった。

口に物を押し込み、咀嚼して呑み込む、ただそれだけの行為。意味など分からなかった。しかし私は食べなければいけなかった、食事を前にして箸の進まない私を見て毎日母親が溜息を付き、怒鳴るから。

私にとって食事とは、‟母に怒られないように摂る防衛行動”であり、ある種娘としての義務の様にも感じていた。


異変が起きたのは私が中学に上がる歳だった、食事を摂ると抑えきれない吐き気に襲われた。朝も、昼も、夜もだ。

メニューや味が問題ではない、‟ものを食べる”ということ自体を体が拒否し始めたのだ。吐き出すたびに体の内側が燃える様に熱く、まるで内臓が腹の中でドロドロと爛れていくような痛みが何年も続いた。

深刻化した食欲不振を母に言い出せず、高校にあがると私は家では普通に食事を摂り、学校では母の作った弁当を友人に食べさせてやり過ごしていた。

しかし、異変はそれだけではなかった。

ある時を境に、私は毎日激しい頭痛に襲われ始めた。鎮痛剤で痛みを誤魔化しながら日々を過ごしていたある日、ふと自分の顔が火傷をした時のように赤く爛れていることに気が付いた。その爛れはみるみるうちに首から胴体へと広がっていき、抗えない倦怠感と激しい頭痛でしばらく動けなかったが、数日家に引きこもっていただけで爛れも頭痛からも解放された。

今思えばあり得ないが、その頃の私には自分の体の状況を真剣に考えるということをしなかった。自分はこういう体質なんだ、と誰に相談することもなかった。

あの時、少しでもはやく苦しいと、辛いと言えていれば何か変わっていたのだろうか。


‟病は気から”それが母の口癖だった、幼い頃から母は私が体の不調を訴える度にそう口にしていた。その言葉を聞く度、私の心は母から少しずつ遠ざかっていくのを感じていた。理解されない悲しみは幼少の時から繰り返し与えられていた為に、もはや何も感じなかった。ただ、私の中で母との明確な‟一線”が引かれ、頼る対象から外れただけだった。

そして時は流れ、私が20歳になる年、とうとう水分しか体が受付なくなってしまい、仕舞には吐血を何度も繰り返した。

どうせ胃潰瘍だと病院行きを拒んでいた私をひまわりが引きずって病院へと連れて行った時、そこで聞いたこともない難病だということが発覚した。

消化器官全体が爛れ、そもそも食物を消化する働きが出来なくなっている状態だったらしい。

どうしてこんな状態で今まで普通に生活出来ていたのか不思議だと驚く医師の様子を見て思わず涙が零れそうになった。

今まで抱えてきた痛みは、生き辛さは、私の心の持ちようではなく実際に体が悲鳴を上げていたせいなのだとやっと誰かに理解して貰えたことが嬉しかった。

それから医師は母を呼び、私の病について説明をし始めた。

母は信じられないと嗚咽を漏らし、何度も私に謝罪してきたが、私はその言葉を音として感知しただけで‟言葉”としては受け入れられなかった。



そして今に至る、

そう、豚に至る。


(いやぁ~、最初はどうなることかと思ったけど、ケツの穴もあるし、むしろ持病の痛みを感じずにいられる分、こっちの姿の方が楽だわぁ~♪)

「ぷぎぷぎ♪ぷぎぷぎぷぷぷぎぎ♪」

私はルンルンとリズムに乗りながらテチテチとリビングへと入り、ソファーに飛び乗って腰を落ち着かせた。

(豚生も案外悪くないかもなぁ~♪)

私は各自黙々と掃除をこなすぬいぐるみ達を眺めながら鼻歌を歌う。

いつもはただ息をしているだけで内臓が痛いし、吐血を繰り返すせいで万年貧血で頭痛も酷い。健康な(豚の)体なだけでこんなにも幸福感を味わえるだなんて思ってもみなかった。

《坊や…、坊やなの…?》

「ぷぎ?」

(※ん?)

今、どこからか声が聞こえたような………。

《坊や、お願いだから聞こえていたら母さんに顔を見せておくれ。》

(……間違いない、確かに聞こえる…、それも冷蔵庫から。まさか………。)

私は慎重にソファーから飛び降り、「ぷぎぷぎぷぎぎぎ。」とシンクを念入りに掃除していたクマに声をかけ、冷蔵庫からあのウインナーを取り出して貰った。

床に置かれたウインナーの袋はゆらゆらと動きながらどこから私の姿を視認しているのか、《ああ…!私の可愛い坊や!やっと会えた…!》と歓喜の声を上げている。

というか、このウインナーいつの間に人間語喋るようになったんだ?

私が床を転がるウインナーの袋を首を傾げながら見つめていると『逆だ、お前が豚になったからだ。』と忌々しい男の声が遥か上空から聞こえてきた。

「ぷぎぃ~?」

(※ぎゃくぅ~?)

顔をしかめて声の方を見上げる私に男は嘲笑の笑みを浮かべながら頷く。

『ソレが人間の言葉を喋っているのではなく、お前が豚語を喋るようになった為に、今までただの鳴き声としてしか聞こえていなかったものが‟言葉”として認識できるようになったのだ。』

「ぷぎっ⁉」

(※なんとっ⁉)

(マジかぁ。つかそうだとしたら私、豚になった瞬間から豚語喋ってたの⁉普通に人間語喋ってるかと思ってた…。)

《坊や、私の可愛い坊や…。》

愛おし気に私に囁きかけるウインナーの袋に私は「なにー?」と返事を返す。

《坊や、母さんよ。分かる?》

「分かるよ母さん、ごめんねずっと気付いてあげられなくて…。母さんの声が分からなかったんだ。」

私が申し訳なさそうにウインナーの袋を鼻で撫でると、《いいのよ、あなたは言葉を覚える間もなく逝ってしまったんだもの…母さんが悪いの、本当にごめんなさい。》とぐすぐすと嗚咽を漏らし始めた。

「どうして謝るの?」

《どうしてって…母さんのせいであなたはちゃんとした姿で生まれることが出来なかったのよ?あなたがあんなにも幼い内に命を落としたのは私の責任なの…母さんはずっと、ずっとずっとあなたに謝りたかったの…。》

(なるほど、だからあんなに激しい鳴き声を出していたのか。)

《苦しかったでしょう?辛かったでしょう?ごめんね…ごめんね坊や…。》

しくしくと袋の中からすすり泣く声を聞き、私はなんだかこの袋の中にいるウインナーこそが今世も本当の母親なのではないかと思えだした。

ウインナーの言葉はそれほどまでに愛に溢れていた。

「うぅ~ままぁ~‼」

私はウインナーの袋に頭をこすり付けた。

「ままは悪くないよ!悪いのは全部ケツ穴だよぉ~!」

《なんて優しい子なの…坊やぁ~!》

そうして親子揃って号泣していると、ウインナーの方がピタリと急に静かになってしまった。

「あれ?まま?ままぁー!」

ウインナーの袋を前足で軽く揺らしながら声を掛けるが、尚も反応が無い。

「え、え⁉なんでぇ⁉」

ぷぎぷぎと一匹でプチパニックに陥っていると、急に上から冷たい手が伸びてきて私を持ち上げた。

『お前の母親は成仏した、コレはもうただの賞味期限切れのウインナーだ。』

「ぷぎぃ⁉」

(※なんとっ⁉)

(え、成仏?成仏ってことはもう悔いはないってこと?ほんとに?)

『ああ、良いそうだ。』

男は逞しい腕に私を抱え、虚空を見上げながら頷いた。

(ええー、なんかもっと親子で語らう時間とかあってからの、感動の別れとかじゃないの?そういう猶予もないの?マジでぇ?)

『マジだ。』

(そうですか…。)

真顔の男の言葉に私はしょんぼりとピンク色の耳を垂らし、無意識にフゴフゴと鼻を鳴らした。

『魂は永遠に繰り返している、肉体だけでなくそれまで培ってきた知識や記憶をも捨てて。しかし唯一、一つだけ転生する前に自らで決められることがある。』

「ぷぎ???????」

唐突にスピリチュアルな話を始めた男を見上げ、私は小首を傾げる。

『お前も…それを決めてここに来たのだろう?』

「ぷぎぷぎぃ~?」

(※いや、だから何をぉ?)

『寿命だ。』

「え、マジで………。」

『マジだ。』

その時の男の悲しく切なげな瞳が私に何を訴えているのか、私には読み取ることが出来なかった。


『それはなんだ?』

ソファーで水色の丸々とした猫のぬいぐるみの腹に頬ずりをしている私を見降ろしながら男は眉を寄せる。

「ん?ままが居なくなって寂しいから、さっき速攻で作った。かわいいでしょ?」

『お前の母親は水色の豚ではないぞ?』

「いやいや!違くて!これはままを模して作ったんじゃなくて…ままみたいに無償の愛で私を受け入れてくれるような子を作ったって言ったの!」

『ほう…。』

「なんだよ、だって皆なんか喧嘩っ早いヤツばっかなんだもん。それに、これはクマが作ったから安心安全なの!勝手に動いたりしないし、動いたとしても自分が壊れちゃいそうな時だけなの!」

『なるほど?それで?』

「あ?それでって?」

『この家には何体ものぬいぐるみがいる。にもかかわらずソイツだけ早くも溺愛しているのは何故だ?』

納得いかぬと顔をしかめる男に私は首を傾げた。

(……なんでアンタが不服そうなのよ…。)

「え、普通に可愛いから…それになんかよく覚えてないけど懐かしい気がして…親近感が…なんか触ってると落ち着くし。」

そう言ってスリスリとぬいぐるみに体を押し付けると、男は不服そうな顔のまま私を持ち上げ、ソファーの上から水色の猫のぬいぐるみを乱暴にどかすと、ドカッと自分が腰をおろした。

「なになになに?」

私を膝の上に乗せた男は『良いから早く眠ってしまえ。』と不機嫌そうに言うと、冷たい手で私の体を撫で始める。

(いやぁ~あなたの体冷たいのですよねぇ~眠れるわけ…。)

『うるさいぞ、子豚。尻穴を塞がれたいのか?』

「ぷぎゃっ⁉」

男の言葉にドキリとした私は小さな体をガタガタと震わせながら男の膝の上に横たわった。

(……やっぱり冷たい…。)



夜も更け、暗いリビングにはいつものソファーに男が一人、座っていた。

膝にはピンク色の小さな子豚をのせ、その冷たい手で優しく、ゆっくりと子豚の体を撫でている。

カーテンが開けられた窓から月明かりが射しこみ、男はその月明かりに子豚を当てるように体の向きを変えた。

賞味期限切れの材料で適当に作らせた残飯をたらふく食べさせたおかげで今夜はぐっすりと眠っている。

温かい子豚の小さな体に触れる度、その体の内側に散りかけた小さな白い花が垣間見える。何度確かめる様に撫でても、その花の状態は変わらない。

そして男は何を思ったか、自分の親指を噛み千切ると滴る自分の血液を眠る子豚の口元へと注ごうとするが、男の血液は傷口から溢れ、男の肌を伝い、男の肌から離れた瞬間に白い桜の花びらに変わってしまう。

『ちっ!』

結果、子豚の口元に舞い落ちたのはたくさんの白い花びらだった。

はらはらと辺りに舞い落ちる桜の花びらが月明かりを浴びてキラキラと輝く。

その光景を見て男はアクアブルーの瞳から静かに涙をこぼした。無論、その涙も男の美しい輪郭をなぞり、その冷たい肌から離れた瞬間花びらと化す。

男は窓の外の月を見上げ、息をつくと心を落ち着かせるように目を閉じた。


これが報いなのは分かっている。

だが…どうしても………。

求めずにはいられない、追いかけずにはいられないのだ。



『我が命の…全けむかぎり…忘れめや、いやに日に異には思ひ益すとも……。』

男の切なげな吐息と艶やかで静かに響く声は、誰に聴かれることも無く、虚空へと溶けていった。






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