六
母親の花江は男癖が悪い事で有名だった。二十歳で最初に出来た年上の旦那との間に俺が生まれた。幸せな生活が始まるかと思われたが、花江は俺の育児を放棄し夜遅くまで遊ぶ日々を送っていた。見かねた旦那は結婚生活わずか二年近くで俺と花江を置いて家を出て行った。最後の日、泣きながら父を呼んでいたのをおぼろげに覚えている。
それから祐世さんと出会うまで俺はほぼネグレクトされ、冷蔵庫の一番下の段から引っ張り出した生の人参を齧って生活していた。勿論それ以外にも食べていたんだろうけれど、人参を齧っていた記憶が一番強くて、他はおぼろげだ。
祐世さんと結婚したのは離婚から半年後。花江は今度の結婚は失敗したくないと張り切った。俺の育児もその時期は献身的に行われたようだった。しかし俺は祐世さんの記憶がほとんど無い。祐世さんは花江と結婚した時点ですでに花江と出会う前に付き合っていた女性との間に子を宿していて、それが問題になり僅か数カ月で俺たちの元を去ったからだ。
祐世さんと別れてから花江は荒れた。育児をしようという姿勢はあったらしい。なぜなら俺が死ななかったから。ただ、少しでも俺が花江の思い通りにならないと罵声を浴びせられながら叩かれた。早く寝つかなかった、食事を拒んだ、しつこく話しかけた、好き嫌いをした。子供は毎日失敗をしながら成長するものだ。俺は毎日失敗して毎日叩かれて、段々失敗を恐れて何もしないようになった。
その姿勢が仇になったのは三歳で保育所に入ってから。何もせずにぼーっとし、他の子供たちと交わらず、たまたま何かに挑戦してうまくいくとそればかりに執着する。
俺のクラスを担当していた保育士はすぐにその違和感に気付いた。それを報告された花江はまた俺を咎める。
児童相談所が訪れて保護施設に入れられたことも何度かあった。そしてそれが原因で近所で悪い噂が広がり、俺の周りには余計に人が寄らなくなった。
小学校に上がってからは勉強で周りに置いて行かれた。俺は小学校に上がった時点で自分の名前の読み書きすらできなかった。花江に勉強を教えて貰う事も怖くて出来なかった。そして保育所と同じく担任から連絡が行き、俺が咎められる。
友達は出来なかった。人に話しかけたら迷惑なんだと思った。そんな俺を周りは放って置かなかった。いじめのターゲットはいつだって俺だ。しかし家で花江を怒らせるより学校で勉強していじめに遭う方が幾分かマシだった。学校帰りは給食の時に流れていた音楽を歌って時間を潰した。
中学校に上がり生徒が格段に増えると、俺は今まで以上に多くの人に疎まれたし、見下された。しかし変化もあった。花江が俺に小遣いをくれるようになった。俺はその金で給食の時に流れている音楽が欲しいと思い、教師に尋ねた。教師はとても驚いたが、快くCDショップに売っていることを教えてくれた。
自転車を漕いで初めてCDショップに行ったが、給食の音楽がどのCDなのかもわからず、適当にシングルをジャケット買いした。花江のCDプレイヤーをこっそり借りて聞いたそれは給食で流れる音楽では無かったけれど、そのメロディーと歌詞に心を打たれて涙を流した。
その頃になると花江には怒られることも無くなったが、会話する事も無くなった。そして中三の秋、花江は乳がんに侵された。花江は入退院を繰り返す中、俺は何の感慨も湧かずに一人家で音楽を聞いていた。死んだら死んだで、それまでだし。生きていたら生きていたで、これまで通りお互いが空気のような生活をすればいいだけだ。花江がいてもいなくても、俺の生活には何の支障もない。俺は一人でここまで生きて来たんだから。そう思っていた。そんな中、高校に上がった。俺は花江が死んだ時の事を考えて一番偏差値が低い単位制の高校に入った。他の学校ではバイトが禁止されていたので、仕方が無かった。
花江が死んだ時の事を考えて早めにバイトを始めようと思ったが、バイトはどこにも受からなかった。一カ月ほどバイトを探し、そして諦めた。
高一の夏によく知らない女子に告白された。断ったがどうやら罰ゲームのようだった。断られた女子に罵声を浴びせられて、それが原因なのか次の日から隣のクラスの圭に目をつけられて、それからこの間まであんな感じだった。圭に殴られたら一発百円として計算し、ブログに書き綴る遊びを始めた。ブログを作ったのはそれが始まりだった。
俺は流れ流されて、感情を殺して生きて来た。そうして高二の秋、花江が峠だと病院から連絡が入り、花江が入院してから初めて病院に行った。
花江は痩せこけて髪も抜け落ち、記憶にあるものとはかけ離れた姿をしていた。しかし俺は花江の最近で元気な姿を思い出せなかった。蘇るのは幼少期、俺を殴って来る花江ばかり。
俺が立ったまま花江を見下ろしていると、花江は目を開き、口を小さく動かし始めた。
「バカ……あたしって、本当にバカ……」
そうだね、バカだね。
「ごめんね……五朗……本当に……ごめんね。五朗のこと、もっと愛してあげれば良かった……」
今更何言ってるの?
「……五朗、五朗、五朗……ごめんね……!」
名前を呼びながら俺の手を握って来た花江の手を、俺は振り払った。はっとしたが何を話せばいいかもわからず病室を出た。
頭の中が花江の言葉で埋め尽くされてうるさかった。過呼吸気味になるのを感じながら病院の自販機でココアを買った。少し何か飲んで落ち着こう。花江があんな事を言う筈が無い。あれは花江の姿をした別の女性なんじゃないか? そんな気がしてきた頃、看護師が俺を見つけるなり走って来て、花江の訃報を告げた。俺は両手に握った未開封のココアを落とす事も無く
「あ、はい」
とだけ返事した。
「葬儀の最中も、その後も、今もなんの感慨も湧かない。それで、俺はやっと自分が欠陥人間だって気付いた」
彩明は静かに涙を流しながらただただ手を握っている。
「家族が、どんなものなのかわからないんだ。それだけじゃない。何が普通で、どう感じるのが一般的で、どう考えるのが正解なのか、俺は勉強以外では何もわからない」
雨はすっかり止んでいた。
「でも彩明が来てから、俺は少しずつだけど今までわからなかったものがわかるようになって来た。きっと彩明に対して感じてる感情は、美しいものなんだって、それはわかる」
藍色の空では星が瞬きだしていた。
「でも、俺はもう彩明とは兄妹になれない」
彩明は俺の目を見た。
「だって俺は、彩明が」
瞬間、新幹線が通過し、その言葉の続きはかき消された。
そのタイミングに俺が一人笑うと、彩明はキョトンとした顔で続きをねだった。話の腰を折られてしまった俺はこれ以上話す気にはなれなかったので、そのまま手を引いて帰った。
「ただ、さ」
アパートの階段を上がりながら、俺は会話を打ち切った。
「最近、あの時なんで手を振り払ったんだろうって、それだけが、どうにも頭に引っかかるんだ。今更、だけど」
彩明はそれを聞くと、俺にある提案をした。
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