五
気がつくと朝になっていた。身支度を整えて朝食をとらずに家を出た。昨日朝食べたきり何も食べていないので、牛丼チェーン店で特盛りの牛丼を頼んで一気に胃に流し込んだ。サラリーマン達の喧騒の中、彩明と静かに食べたトーストの味を思い出しそうになるのを必死に打ち消した。しかし、打ち消した先にあったのは虚無だった。何を思っても辛くなるだけで、俺は初めての八方塞を味わった。最悪の朝食だった。
学校に着くと、教室の痛い視線の中何事も無かったかのように由美が挨拶してきた。適当に返して席に着くと、由美は俺を追いかけてきて、昨日のその後を尋ねて来た。昨日起こった出来事を俺の気持ちには触れずに粗方話すと、由美は少し腕を組んで考え、突拍子の無い事を言い出した。
「プラネタリウムに行こう!」
その意図がまったく読めずに
「は?」
と素っ頓狂な声を上げると、由美は
「今週の土曜日、午後十三時N市の駅に集合ね。私も弟連れて来るから、彩明ちゃんも連れて来て。これでオッケー、はい商談成立! じゃあね」
とマシンガンのように言いたい事だけ言って去っていった。
取り残された俺はぽかーんとしている事しか出来なかった。
すると間髪入れずに俺と似た匂いのする地味目の男子(ごめんなさい)が席に近寄って話しかけて来た。
「長谷川君、この間一緒にいた女の子って妹さん?」
俺はこれまででは起こり得なかった突然の状況に吃驚して、目を白黒させた。男子はそんな俺の様子を見て俺が激しく動揺していることにすぐ気付いてくれた。
「ああ、ごめんいきなり話しかけてきて吃驚したよね。俺は内藤亮。普通『りょう』って読む漢字を書いて『まこと』って読むんだ。変だろ?」
「い、いや、変じゃないよ。俺なんか五朗だし」
「渋い名前してるよねぇ。妹さんはなんて名前なの?」
「妹っていうか、いや家族構成的には妹なのかもしれないけど、ちょっと複雑なんだ」
それから俺は彩明が俺を引き取ってくれた人の連れ子で、同居しているが血縁関係は無いことを話した。
「そうなんだ。そういえばこの間忌引で休んでたけど、そういうことだったんだ。大変だったんだね」
「うん、色々あったけど今は割と落ち着いてるかな」
内心全然落ち着いていないが。
「それにしても突然妹的な立場の女の子が現れるなんて、漫画みたいな展開だね! 少し不謹慎かもしれないけど」
何故この内藤君は俺なんかに話しかけてくれているんだろう。俺の中の違和感がむくむく大きくなっているが、それは表に出すと良くない気がしたので普通に話す事に努めた。
「ああ、すごく可愛い女の子で、本当に漫画みたいだ」
そう言いながら昨日の彩明の泣き顔が浮かんだ。俺はすぐにそれを笑顔で打ち消した。
「羨ましい……俺も妹欲しかったなぁ」
それから俺たちは妹の良さについて話して少し盛り上がった。そしてひと息つくと、内藤君は昼食に誘ってくれたのでご一緒させて貰う事にした。断る理由も無かった。
休み時間に内藤君の連れである藤崎優斗君を紹介してもらった。なんだか俺は今までに無かった展開に夢を見ているような気分になった。学校で話す知り合いが出来るなんて、快挙だ。
そして昼休み、教室で机をくっつけて昼食を広げようと言う二人に「他の人の机を勝手に動かしていいのか」と不安になっていると笑われた。自分の世間知らずさを思い知った。
そしてそれぞれ購買で買ったパンと飲み物で昼食が始まった。
藤崎君は内藤君と違って少し砕けた感じの人だ。
「しかしこれで仁田の高すぎる鼻が折られるかね。清々する」
圭の取り巻きが同じ教室内にいるのにそんな事言うから、俺は少し驚いた。藤崎君はそのままの調子で続けた。
「あの時の長谷川、最高に格好良かったよ。なんかの青春ドラマ見てるみたいだった」
内藤君が興奮した様子で同調した。
「なんだっけ、『お前は過去でしか人を測れないお前とは違うんだよ!』だよね。仁田にあそこまで言える人いないよ? 俺、鳥肌立っちゃったよ」
どうやら二人の中で俺は妙に過大評価されているみたいだった。照れ臭くなって頭を掻く。
「あの時の長谷川見てさ、仁田にビビって長谷川に話しかける事を躊躇ってた自分達がすっごく小さく思えちまって。それで今日に繋がるわけよ。つーわけでこれからよろしくな、長谷川」
藤崎君がパンを机に置き右手を差し出してきた。俺たちは握手を交わした。俺は感謝を告げた。
「あの時はああするしか思いつかなかったんだ。彩明の前で恰好悪いとこ見せられないって見栄張っちゃって。でも、それが内藤君や藤崎君と話すきっかけになったのはすごく嬉しいよ」
俺が正直に気持ちを話すと、藤崎君が鼻を擦りながら「硬いなあ」と笑った。二人を呼び捨てで呼ぶことになった。
「そういえば圭はどうなったん?」
俺がそう問いかけると、内藤く……内藤がボトルコーヒーを一口飲み口を開いた。
「停学だってさ。しばらくいないみたいだよ」
なんとも言えない気持ちになったが、適当に相槌を打った。
「でさ、長谷川。俺ら今日ちょっと街の方に用事あるんだけど、その時ついでに飯でも食わねえ?」
何の脈略も無いけれど藤崎がそう言ったので俺は快諾した。
「なんか面白そうな話ししてるじゃん。混ぜてよ」
そう言って突然現れたのは由美だった。内藤は目に見えて委縮したけれど、藤崎はだるそうに『しっしっ』と手を振り、
「女人禁制じゃ、あっち行け原田」
と由美をつっぱねた。由美は口を尖らせる。
「女人禁制とか、優斗ってひょっとしてホモ?」
「ちげーわ! 今日は長谷川大歓迎会なんじゃ!」
それを聞くと由美は腰に手を当て俺の方を見た。
「だったら尚更私を混ぜなきゃダメじゃん? でしょ、五朗」
突然俺に話を振られたので肩をびくりと震わせると、由美は圧力をかけるように俺をじっと見つめ、
「でしょ?」
と続けた。俺は圧力に負けた。
藤崎と内藤の用事は本屋で漫画を買う事だった。今日は新刊の発売日らしい。俺はあまり漫画になじみが無いのであれこれ尋ねていた。すると今度内藤がおすすめの漫画を貸してくれる流れになった。ひょっこりついて来た由美は少女漫画コーナーで真剣に平積みの漫画の表紙を見ていた。さりげなく隣で表紙を見てみると、きらきらしたイケメンがこちらに向かって微笑んでいた。これを読めば彩明の望む男性に近付けるかも知れないと考え付いたので、今度どんな少女漫画を読むのか尋ねてみよう……仲直りしたら。
そしてファミレスに立ち寄りそれぞれ席に着いた。内藤と藤崎が隣で、向かいに俺と由美。自然とこの席になった。
注文を済ませると、自然と会話が始まった。切り出したのは藤崎。だるそうな目で由美に目をやる。
「本当について来たし、こいつ」
「いいじゃん、私とあんたらも友達なんだし。でさ、五朗、大事な事聞いて無かった」
「へ?」
「なんで彩明ちゃんに昨日『優しくしないで』って言われたのか、見当つく?」
藤崎と内藤の視線が俺に刺さった。
「どういうこと?」
「昨日恰好良く守ったじゃねえか」
俺は事の顛末を二人に話した。二人は頭を捻っていた。そして二人揃って、「女心ってわかんねぇ~」と白旗を上げた。
「優しくされることの何が嫌なんだ? 突然同居するようになったとはいえ、家族なら当り前じゃねぇか。今の話で長谷川に落ち度があったようには思えないけど」
と藤崎が言うと、内藤は同調した。
「むしろ彩明さんは長谷川の気持ちをもう少し汲みとるべきなんじゃないかな。まあでもまだ中学生だしなぁ、難しいね」
「そこで由美さんの大胆予想なんだけどさ」
由美が身を乗り出して不敵な笑みを浮かべた。
「彩明ちゃんは、五朗の事好きになっちゃったんじゃないかな」
その発言に血が一気に騒ぎだすのを感じた。彩明が俺の事を好きだと一瞬で想像すると顔がさあっと紅潮して、どうしたらいいかわからなくなってしまった。ヤバいなにこれ。
「そ、それは……無いだろ……」
由美は続けた。
「その真意を確かめるために、彩明ちゃんとプラネタリウムに行こうって提案したわけ。まあ私の勝率は九割近いけどね」
藤崎と内藤はこういう色恋話に免疫が無いみたいだった。
「で、でも曲りなりにも妹って立場でしょ? そんなライトノベルみたいな展開……」
内藤がコップを置いたり持ったりしながら目を泳がせた。
「血は繋がって無いんだしアリじゃん?」
由美はしれっとそう言い放った。「それに」と続けた。
「五朗だって、彩明ちゃんの事悪く思ってないんでしょ?」
『悪く思ってない』の本当の意味を感じ取った俺は俯きながら頭を掻いた。そして三人の視線が刺さる中重い口を開いた。
「彩明の事……好きだよ」
その言葉を呟くと、由美は「ほらほらあ!」と騒ぎだし、内藤は「ひええええええええ」と何故か顔を手で覆い悶え、藤崎は机に突っ伏してぴくぴく震え、「くそ……くそ」と何かを堪えていた。三者三様の反応に俺は戸惑う。
丁度そのタイミングで料理が運ばれて来て、俺たちは店員さんからさりげなく「他のお客様の迷惑にならないご利用をお願い致します。それではごゆっくりどうぞ」と注意されてしまった。とりあえず食べようと提案してみた。俺たちは無言で料理に手をつけ始めた。
彩明の事が好きだと口にしたら、その思いが心の中で定着して馴染み、思いが確固たるものになったような気がした。そうだな、俺は彩明が好きなんだ。
そう思うと、妙に彩明に会いたくなった。彩明は俺の顔も見たくないかもしれない。でも、押し通すしか無いんじゃないかとも思えた。思いを伝えて、押し通せばいつか本当に伝わるかもしれない。由美の予想がどう弾き出されたかはよくわからないけれど、今日みんなに勇気や元気を貰えたのは確かだった。
結局その後空気に耐えられなくなった藤崎が「ハンバーグうますぎ!」と目に見えた空元気で場の空気を無理矢理変え、談笑もそこそこに店を出た。ここまで手で押して来た原付に跨ると、藤崎と内藤は照れくさそうな表情を浮かべながら「頑張れよ」と言ってくれた。俺は少し涙ぐんでしまったが、夜なのが幸いしてバレずに済んだ。
原付を走らせていると、考え事が捗る。めまぐるしく変わる環境に感謝をした。勇気を出して現実に抗えば、失うものもあるかもしれないが得られるものも大きいんだと気付いた。そんな勇気をくれたのはやっぱり……。
結局やっぱり最後は考えるのが面倒臭くなって秋の星空を褒めちぎっていた。帰ったら思い切って彩明の部屋のドアをノックしよう。その結論が出たからそれで十分だった。
帰宅してすぐ、リュックを背負ったまま彩明の部屋のドアをノックした。反応が無い。俺はドア越しに語りかけてみた。
「彩明、今朝は一緒に朝ご飯食べられなくてごめん。昨日の今日で動揺してたんだ」
無反応。俺は今自分の手に与えられた勇気と元気をこのまま風化させたくなかった。ここで引いてはいけないと思った。「開けるよ」と声をかけて彩明の部屋のドアノブを引いた。
部屋の中は少々散らかっていて、教科書や漫画が床に雑多に置いてあった。さっき本屋でちらり見た少女漫画があったが取りあえず無視。彩明はベッドの上で膝を抱えて泣いていた。
俺は彩明の姿を見られた事に安堵し、そしてここまで泣かせてしまったことに申し訳なさを感じたりした。
俺に背を向け壁に向かう彩明の後ろに腰掛ける。震えるその肩に心を痛めながら何から話そうかと言葉を真剣に選んだ。
「そうだな……」
そう呟き、更に考える。
「俺はさ、優しくないから、彩明の願いは聞けない」
一言一言、紡ぐように感情の糸を吐きだしていく。
「俺は、優しくないから、自分勝手だから、また彩明に優しくするよ。俺が、そうしたいから」
彩明はそれを聞くと嗚咽を漏らし始めた。「ごめんなさい」と微かに聞こえた気がした。
「謝るくらいなら、撤回して。申し訳ないと思うなら、俺の傍から離れようとしないで。俺に、彩明を守らせて」
それだけ言うと、俺はベッドから立ち上がった。上手に伝えられたかはわからないけど、言いたい事は言った。
彩明の頭を撫でて抱きしめてめちゃくちゃにしたい衝動に駆られたけれど、その激情を堪えて俺は部屋を出た。
朝、重い体を引きずってリビングに行くと、彩明が制服に身を包み何事も無かったかのように鍋に向かっていた……と、思われたが、俺の姿を見るなり赤面してしゃがみこんでしまった。隠れているのか、それは隠れているつもりなのか。
少しおちょくってやろうかとも思ったが、昨日の自分のキザな発言を思い出してしまい、結局俺も赤面して顔を逸らしてしまった。そして数秒、妙な沈黙が続き、俺はおはようと言い捨てて洗面所へ向かった。顔を洗いながら心を整理し落ち着かせた。そうだ、ここでぎくしゃくしては後戻りだ。こういう時こそ毅然と振る舞うのが男なのではないか。そういう逞しい背中を見せてこそ彩明は安心して生活できるのではないか。そうだ、こんなところでへこたれてはいられないのだ。自分の発言に責任と自信を持ち彩明を守らなければ。
そうして顔を二、三回パンパンと叩き己に喝を入れ、部屋でピシッと身支度を整え再びリビングに戻った。すると彩明も少し気持ちを入れ替えたのか頬を染めつつも笑顔で迎えてくれた。
簡単なスープとトーストという簡素な朝食ではあったが、一日置いて二人で一緒にとる朝食はやはり温かさを感じた。
由美が土曜日にプラネタリウムに行こうと提案して来たことを話すと彩明は驚いていたが、少し考える素振りをすると、
「折角誘ってくれたのでご一緒させていただきます」
と緊張した面持ちで言った。
それから昨日藤崎と内藤と仲良くなれた事を話した。俺は少々高揚して饒舌になってしまった。しかし彩明はそれを微笑みながら相槌を打ち聞いてくれた。
「あの時、彩明がいなかったらまたいつも通り昼休みにボコられて終わってたと思う。あの時彩明がいたから恰好悪いところ見せられないなって反抗する気になれたし、反抗したお陰で昨日ああやって仲良くしてくれる人が現れたんだ。なんでだろうな、由美の事といい、彩明が来てから色々な事が好転してる気がするよ。ありがとうな」
「……私は何もしていません。みんな、五朗さんの強さと柔らかい人柄があったから起こった出来事だと思います」
俺は首を横に振った。
「彩明が来てからだよ。人に優しくしようって思えたのも、強くいなきゃいけないって思えたのも。みんな、彩明のお陰なんだ。彩明はもっと自分に自信を持つんだ。彩明はすごい子だよ」
「五朗さんも、もっと自分の持つものに自信を持ってください」
そして「お互いまだまだだなぁ」って二人で笑い合った。
食材が無くなって来たので帰ってから一緒に買いに行く約束をして家を出た。彩明は今日はちゃんと学校に行けるだろうか。
彩明の頭を撫でて、「彩明なら大丈夫」と言い家を出た。
そろそろ原付で登校するには寒いなぁと思いつつ震えながら教室に入ると、内藤が既に来ていた。昨日もそうだったが、藤崎は遅めの登校のようだ。荷物を置き内藤のもとへ行く。
「あっ長谷川おはよう。彩明さんと仲直り出来た?」
どうやら今日一番の関心事はそれだったらしい。
「なんか、頑張ったらいつも通り接してくれるようになった」
「なんて言って頑張ったの?」
内藤は目をきらきらさせながら尋ねて来た。おい、一日で色恋話の免疫上がりすぎだろ。俺は目を逸らした。
「そ、それは言えない」
「長谷川、顔赤いよ?」
「原付飛ばしたから冷えてるだけ」
「相当キザな台詞を言ったと見た」
「そんな大したことは」
「じゃあなんて言ったの?」
「…………」
そこまでにやにやしながら尋ねてきていた内藤は俺が塞ぎこむと、とうとう吹き出した。からかわれたのか?
内藤は笑いながら「ごめんごめん」と言うと、俺の肩をぽんぽんと叩いて来た。相当ツボに入ったらしい。
「な、内藤って意外とエスなのな」
「そんなことないよ。長谷川が良いキャラしてるからついつい」
絶対エスだ。俺は確信を得た。
「俺より長谷川の方が意外性があるよ。クールで掴み所無いって思ってたけど、純粋で優しくて親しみやすいキャラなんだね」
俺はその内藤の言葉に少し嬉しくなった。
そうして平和に一日を終え直帰すると、私服姿の彩明が既に家で待っていた。カウンセリングは一時間もあれば終わるだろうから、午前で終わり帰って来たのだろう。
「ただいま」
そろそろ言い慣れたいその台詞を言うと、彩明はぱあっと笑顔になり、「おかえりなさい」と返してくれた。
「その様子だと、学校で何か収穫があった?」
「い、いえ、ただ行けたのが嬉しくて」
「それじゃ買い物行こうか」
外に出ると空気がひんやりとし始め、日は更に短くなっていた。橙に染まり始めた雲を見上げながら並んで歩く。
「カウンセリングって何やったの?」
「えと、木を描きました」
俺が疑問符を浮かべながら首をかしげると、彩明は続けた。
「紙に木を描くと、その人の性格や悩みがわかるそうです」
「ほ、ほう。そうなのか。彩明はどうだったの?」
「もっと自信を持って大丈夫と言われました。それから自分の良い所と悪い所を書き出してみたり、雑談をしたり色々なことをしました。カウンセリングって感じはあまりしなかったです」
「なるほどねー、よくわからないけど、最初はそんなもんなのかも知れないな」
それから雑談しながらスーパーに入り、夜は何を食べようか相談しながら食材を選んだ。二人してあまり料理が得意ではないので、今夜は鍋をしようということになった。ついでに朝食用の食材を買い足す。そしてパンコーナーで安い食パンに手を伸ばした時、中年女性の声が耳に入って来た。
「ほらあの子、この間亡くなった長谷川さんの……」
「今は女の子と同棲してるんですって。母親がいなくなったから羽伸ばして……」
「やだーやっぱりあの母親あってのあの子供よね」
「知ってる? あの家、児童相談所が何回も来てて……」
胃をぎゅっと締めつけられたような感覚に襲われ、血の気が引いていった。しかし俺はそれが耳に入っていないような態度に努め、パンをかごに放り込むと隣で困ったようにきょろきょろしている彩明の背中を押してレジに早足で向かった。脳に血が回っていないような気がして、店員が商品を通している間『早く終わってくれ』と願いながら深呼吸をしていた。
こういう事態は想定していなかったわけでは無かったのに、彩明を誘ってしまった自分を呪った。
スーパーを出たら空が雲に覆われて重苦しい灰色に包まれていた。先程まで綺麗な夕焼けが広がっていたのに。自分の今の心境と重ねずにはいられなかった。
袋をぶら下げ無言で家路を並んで歩いていると、大きな橋に差し掛かったあたりでとうとう雨が降り出した。別に今は雨に打たれても良いような気分だったが、隣に彩明がいることを考えると走らずにはいられなかった。無言で彩明の手を握ると新幹線の線路下めがけて走り出した。優しく握り返してきたその手は皮が薄いのか柔らかく、そして温かかった。
線路下に着いた。二人とも息が上がってしまい、肩で呼吸しながら目を合わせた。彩明は不安な表情をしていた。きっと俺もこんな顔をしてるんだろうなと思ったので、口角を上げた。
「無理、しないでください」
俺は彩明の真剣な声にはっとして袋を下ろし左手で顔を触った。彩明は繋がったままの手を強く握り直した。
「辛い時は辛そうな顔をしていいんです。私は、五朗さんに無理して欲しくないです。無理して笑ってる顔は、泣いてる顔より悲しそう。私はそんな五朗さんは辛いので見たくないです」
「そ……か……」
俺は彩明の手を握る力を少し強めた。
「ごめん、じゃあ、もう少しこうしてて」
彩明の返事が聞こえると、俺はひと息つきながら上を見た。コンクリートの天井が伸びているだけだった。
「雨、止まないね」
彩明は無言で頷いた。
「じゃあさ、雨が止むまで。最後の不幸自慢、俺の身の上話、聞いてくれる? 大体わかってると思うけど」
「聞かせてください」
俺は彩明と繋いだ手を指を絡めるように握り直した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます