朝。俺は悶々とした気持ちを抱えながら浅い眠りを繰り返し、眠気眼でリビングに出て来た。昨日の謎の感情と、今日起こるイベントの心配の間を行ったり来たりしていた。

 何せ今日は彩明がスクールカウンセラーの元へ行く日だ。

 彩明は今日は通学バスには乗らず授業時間中に着くように路線バスで中学校に向かう予定だ。生徒がわらわら廊下にいる時に行くのも気後れしてしまう可能性があるので、カウンセラーさんがそう提案してくれた。これなら行きやすいと俺も思う。

 リビングでは彩明が紺色の制服に身を包んでいた。長い髪は下ろさずに下で二つに結んでいる。俺は見慣れない彩明の姿に新鮮さを感じながら「おはよう」と言った。声が裏返った。動揺している自分に驚いて、同時に恥ずかしかった。

 彩明はそれはそれはガチガチに緊張していて、トーストは焦がす、目玉焼きは焦がす、サラダのレタスは異様に細かいで見ていて哀れなレベルだった。「彩明は大丈夫、ダメだったとしても明日があるから大丈夫」と念を押したが、真っ青な顔は元に戻る様子が無かった。俺は正直ここまで酷く緊張するとは思っていなかったので、休ませた方が良いんじゃないだろうかとも思った。しかし彩明自身が行くと言ったので、心を鬼にして背中を押すことにした。学校までついて行ってあげたい気持ちも湧いたが、俺も授業に遅れてしまうので渋々家を先に出た。

「おはよう」

 登校すると由美が話しかけて来た。教室の中にいる人間の視線が一気に俺たちに集中した。何しろこれまでほとんど教室で口を開いた事のないぼっちの男子がクラスの中心的人物の女子に話しかけられているのだ。きっと立場が違ったら俺でもガン見する。でも見られる側としては居心地悪い、とても。

「お、おはよう」

 俺が右手を軽く上げながらそう返すと由美は「覇気が無い!」と俺の肩を思い切り叩いて来た。バシーンと良い音が教室に響いた。痛い。そして由美は事も無げに彩明のことを尋ねて来た。

「彩明ちゃん今日学校行かせたの? 大丈夫そう?」

「ああ、顔真っ青にして可哀想なくらい緊張してたけど、行くって言ってたよ」

 由美にはオフ会の際に彩明のスクールカウンセラーのことは話してあった。由美も彩明を心配してくれていたのだ。

「あ、そっか授業中に行くんだっけ。見送れなかったのは不安だね。どっちの結果になっても優しく受け止めてあげるんだよ」

「そうするつもり」

 そう言って俺たちがそれぞれの席へ別れると、由美は周囲の男女に質問攻めに遭っていた。「なんで長谷川と喋ってるの?」「長谷川と何かあったの?」という周囲に対して由美は、「ほんの偶然でね。あいつ話してみると面白いよ」と笑っていた。

 そして二時限目。彩明の事を心配していると授業も頭に入って来なかった。何しろ繊細で、他人の都合のために自分を抑えてしまう優しい女の子だ。俺を心配させないように、俺の迷惑にならないように無理している可能性は十分に考えられた。

 やっぱり休ませた方が良かっただろうか。そう思いながら窓の外を見ると、何やら校門付近に見慣れた女の子の姿が見えた。

 まさか。いや、そのまさかだ。

 教師にトイレに行かせてくれと挙手をし、俺は教室を飛び出した。階段をひとつ飛ばしで下り、走って校門へ向かうと、そこには涙目の彩明が立っていた。俺の顔を見ると彩明はぼろぼろと涙を流し始め、「ごめんなさい」と泣きじゃくった。

 俺は彩明の頭に手を伸ばし、一瞬止め、再び手を伸ばし彩明の頭を撫でた。

「ここまでひとりで来れたじゃん。今日はこれで満点」

 そう言いながら笑う。彩明が泣きやむ様子は無かったが、しばらくこのまま泣かせておくのもすっきりしていいかも知れないと思った。気がつくと授業を終わらせる鐘が鳴った。

 少し落ち着いた彩明が口を開いた。

「不安で、怖くて、みんな、私を気持ち悪いって言うし、本当に怖くて、おかしくなっちゃう気がして……! でも、迷惑かけちゃった……ごめんなさい」

「全然迷惑じゃないよ。そりゃちょっと恥ずかしいけど、俺を頼ってくれて嬉しい」

 そうして彩明をなだめていると、背後から声がした。

「五朗君、その子、誰?」

 すっと血の気が引く気がして、俺は彩明の頭に置いた手を引っ込めた。圭はひとり指を鳴らしながら近付いて来た。俺が解決していない問題、それはこいつからの執拗ないじめだった。

「いやぁ教室を飛び出したと思ったら女の子といちゃつき始めるから吃驚したよ。今朝は原田と仲良くしてたみたいじゃん? いつから五朗君そんなにモテるようになったわけ?」

 俺は彩明を背中で隠すようにしながら圭を睨みつけた。

「お前には関係ない」

「いや、だからさ、なんでそんな大口叩くわけ? ほんっとうムカつくからやめてよ。虐待児のくせに」

 彩明の視線が背中に刺さった。

「そんなの今は関係ないだろ」

「関係、ある。俺はさ、そうやってお前みたいに『僕は不幸な事があったから心が開けないんですぅ~』って被害者面してる奴らがな、大っ嫌いなんだよ!」

 圭はそう言いながら俺を殴りつけてきた。拳を思い切り顔面に受けたが、俺はよろめきながらも足を踏ん張って持ち直した。圭は舌打ちをする。

「被害者面してれば嫌いで、積極的になれば虐待児のくせにって嫌って、結局お前は俺を見下したいだけなんだろ。そもそも俺がいつお前に心を閉ざしたんだ。知り合ってからずっと俺を目の敵にして来たのはお前の方だろ」

 そう言うと圭は顔を真っ赤にして今度は腹を蹴って来た。

 俺が思わずしゃがみこむと、彩明が顔を真っ青にしながらしゃがんで俺の背中をさすってくれた。

「彩明、お前はもう帰れ」

「帰れません。こんな状況で、大事な人を置いて帰れません」

 『大事な人』という言葉が薬のように心に染み込んで行くのを感じた。俺はよろよろと立ち上がった。圭がもう一発顔を殴って来る。ぐっと足に力を込めてその拳を耐える。

「なんだよ、今日は女の子の前だからか威勢が良いね、五朗君」

「お前はいつもそうやって話題転換して関係ない方向に問題をくっつけて、そんなに因縁つけなきゃ人の前に立てないのか」

「でも本当の事じゃん。女の子の前だからいいかっこしたくて今日ばっかりそうやって食いついて来てさ。だっさ」

「ださくて何が悪いんだ。大事な人が見てる前で強がって何がいけないんだ」

 頭の中で、ここ最近の様々な情景がぐるぐる回り始めた。

 はにかみ顔で目を伏せる彩明が、笑顔で俺の前に立ってくれるようになった。由美が厳しい事を言いながらも俺を見捨てず背中を押してくれた。

 『妹さんが自慢できる兄になろうよ』由美はそう言った。俺は彩明の兄にはなれない。でも、彩明を守ることはできる。彩明の大事な人になれる。

 昨日、いやその前からくすぶっていた謎の感情が浮き上がり形をつくる。

「俺は、過去でしか人を測れないお前とは違うんだよ!」

「このやろ……!」

「そこまでだ、仁田」

 圭の背後にはいつのまにか生徒指導の体育教師が立っていて、圭の振り上げた腕を掴んでいた。圭は舌打ちをした。

「長谷川と仁田、それとそこの中学生、生徒指導室に来なさい」

 校舎に目をやると、大勢の生徒が窓から顔を出してこちらを見ていた。完全に俺たちは注目の的になっていた。

 それから俺と彩明と圭は生徒指導室に連れて行かれ、事の顛末を最初から最後まで、午前の授業を全部使って話す羽目になった。そして圭は処分が決まるまで自宅謹慎になった。

 俺はその後の授業に出るのもなんか居心地悪かったし、彩明をそのまま帰すのも不安で躊躇われたので、彩明と一緒に午前で帰る事にした。

 学校から家までは一駅だ。しかしその一駅が田舎では長い上に電車の発車時間が一時間おきだったりする。持ち歩いている時刻表を見ると次の電車は一時間半後だったので、結局俺は彩明を原付の後ろに乗せて帰ることにした。

警察に出くわしませんように、と祈りつつ躊躇う彩明を後ろに乗せ、アクセルを握る。そして彩明の腕が俺の腰に回ると、自然とアクセルを握る手に力が入った。これは絶対転べないな。

 アパートに到着してリビングに入るまで俺たちは無言だった。ペットボトルのお茶をグラスに注いでテーブルに置いた。彩明はその意図を読み取れたのか、何も言わず椅子に腰かけた。

俺も自分の分のお茶を注ぎ彩明に向き合うように座った。

「ごめんなさ……」

「彩明のおかげで、やっとあいつに反論出来た。彩明がいなかったらあんな風にはできなかったよ。こっちこそ、みっともない姿を見せちゃってごめんな」

 そして沈黙が流れた。彩明が涙を流し鼻を啜る音だけが響いた。そして落ち着くと、彩明ははにかみながら重い口を開いた。

「もう、これ以上、私に優しくしないでください」

 その言葉の意図がわからず、ただ心がずしっと重くなる感覚を味わった。ああ、これが傷付くって事なのかもしれない。

「……ごめん」

 それしか言葉を持ち合わせていなかった。不思議と目頭が熱く、頬は涙で冷たかった。



 それから俺は部屋に篭り、ぼんやりと仰向けになって天井を眺めた。風呂にも入れず勉強もする気になれず、音楽も聞けない。ただただここ最近の様々な出来事や思いを巡らせていた。

 俺はどこで間違えたんだろう。彩明は何故あんな言葉を発したんだろう。圭に殴られる俺を見て幻滅した? その時は俺が大事だと言ってくれたじゃないか。ここ最近喋りすぎたか? 最後の言葉の選択を間違えた? それとも最初から俺が嫌いで邪魔だと思っていた? もういっそ俺は死んだ方がいいんじゃないか? 守りたいと思った人一人も守れない俺はひょっとして最低のクズなんじゃないか? ああそうだ、きっとそうなんだ。俺は彩明にとって邪魔な存在でしかなかったんだ。そもそも彩明はこの家に来る事をどう思っていたんだろう。祐世さん、あんたは何を思って俺たちを出会わせたんだ。ああもう彩明の事を考えるとひたすら苦しいからやめよう。でも他に考えることも無いな。どうしようもう脳味噌このまま溶けないかな。

 ネガティブがまたネガティブを連れて来て、俺の頭の中は完全に負のスパイラルに飲まれていた。そして気付いてしまった。

 俺はどうしようもなく彩明を好きになっていたんだと。

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