三
帰宅しパンとおにぎりを頬張った後、今日起こった事を要約してブログに書き綴った。病院の事、彩明とコンビニに寄って少し親しくなれた事。放課後にCDを買いに行ったら昨日の少女にまたしても絡まれた事。しかしその少女が勧めた曲は悔しいけれど気に入ってしまったこと。
彩明が来てからばたばたしているなあと思いつつも、このばたばたが人との出会いの楽しさなのかも知れないなあと思ったり。そうこうしていると、早速ブログにコメントがついた。
(管理人のみ表示モード)
名前:いおり
タイトル:いきなりですが
コメント:もうなんだよこのブログw
Aちゃんとしのぶさんを見守る会作りますよww
今日も微笑ましい記事ありがとうございますーw
時にしのぶさん
オフ会しませんか?
しのぶさんとは趣味も合うし会ってみたいなって
場所はN市駅で、今週日曜日午後とかどうでしょ
返事待ってまーす/////
オフ会という行事がネットユーザーの間で度々行われていることは知っていたがその機会が自分に訪れるとは。珍しく鍵コメ(管理人のみ表示モード)だとは思ったが、こんな爆弾が仕掛けられているなんて。
日曜に予定があるはずもない俺は取りあえず『考えさせてください』といった旨のコメントを返しておいた。
ひと息ついて、そろそろ風呂が空くかなーと思った頃、部屋のドアを控えめにノックする音が響いた。すごいタイミングだ。
そして風呂を上がってリビングの電気を消すと、彩明の部屋から光が一筋漏れているのが見えた。彩明は部屋でいつも何をしているんだろう。今日の回答のように何もしていないなんてことは無いだろうし、一日何もしないでいるなんてそれこそ気がおかしくなってしまうだろう。
今日は彩明も疲れているだろうし、必要以上の詮索は避けることにするけれど、折を見て彩明の部屋を訪ねてみたいと思った。女の子が部屋で何をするのか気になるという純粋な興味もあるが、仲良くなる糸口は次々に見つけていきたい、という思いが俺の中にあった。
そして彩明がはにかみ顔でなく笑顔で俺と向き合ってくれるようになったらいいな、とか思ったり。
一緒に過ごしてまだたった三日ではあるが、俺は自分の中に今まで無かった感情が芽生えていくのを感じていた。この感情の名前は知ろうとさえ思わなかったけれど、いつか名前がつくとしてもきっとポジティブで暖かいものに違いない。
今日買ったアルバムを聞きながら少々ネットサーフィンをしてパソコンを閉じ布団に入ると、今日あった様々なことが思い起こされた。
彩明の病気の事。スクールカウンセラーには明日昼休みにでも電話してみよう。何か光明を見つけ出せたらいいな。
彩明が俺の目を見て名前を呼んだ事。慣れない感覚だけど悪い感じじゃ無かったな。
そして、由美が放った一言が頭の中をぐるぐる回る。
『妹さんが自慢できる兄になろうよ』
今の俺はお世辞にも良い兄とは言えない。それは頭ではわかっている。そもそも俺は兄として彩明の前に立つべきなのだろうか。そもそも俺たちの関係は兄妹と呼べるのか? そもそも家族関係が最悪だった俺には家族という言葉がひどくふわふわしていて、どう扱っていいかわからない。
家族って、なんなんだろう。
こんなにその一言に支配されるのは、きっと寝る前に由美が勧めた曲を繰り返し聞いたせいだ。
明日会ったら文句をつけてやろう。そんなあり得ない未来を想像しながら悶々と夜を過ごした。
眠れたのは日付が変わった後だった。
その夜、俺は夢を見た。
「お母さん、みて。これでロボット作ったの」
「うるさいからあっち行ってひとりで遊んでて頂戴」
「でもね、ここね、ピストルになってるんだよ。カッコいいんだよ」
「うるさい! お母さんの言う事が聞けないの?」
「あの子と遊んじゃいけません」
「五朗くんいっつもおもちゃひとり占めするから嫌い」
「五朗が来たー逃げろー」
「なんで友達の一人も作れないの! ほんっとそういう根暗なところあの人に似てて腹立つ!」
「五朗君、少しおじさんと一緒にいようね。お家にはすぐに帰れるよ。大丈夫、心配しなくてもいい」
「お母さんは? お母さんは一緒に行かないの?」
「あいつ●●受けてるってまじなん? こわー」
「●●されてる人ってみんな目が死んでるよね」
「いつだってそうだ。あの人が俺の世界の全てだった。あの人に形作られて、あの人に全てを奪われて、あの人に苦しめられる。ねえ、俺があんたに何をしたんだ? 俺は、最初からいない方が良かったんじゃないのか?」
「バカ……あたしって、本当にバカ……●●●●……五朗……本当に……●●●●。五朗のこと、もっと●●●●●●●●●った…………五朗、五朗、五朗……●●●●……!」
「死ね! あんたなんて、あんたなんて産まなきゃよかった、産まれなかったら良かったのよぉ! 死ね! 死ね!」
「痛い……」
呼吸する音で目が覚めた。
俺は、死に切れない燃えかすだった。
右脚が、ひどく痛む。しかしはっとしてそこを撫でると、部屋着越しに手の温もりが伝わるだけだった。その手の温かさがただただひたすらに憎たらしかった。
彩明が来てからなんとなくだが食事を家で取るようになった。数日前までは牛丼チェーンで一番安いメニューを頼んで腹を満たし学校に向かっていたが、学校どころか外に出るのすら辛そうな彩明をひとり置いて自分だけ牛丼を食べるのもなんとなく悪い気がした。家にいたくない理由も無かった。
トーストの香りがリビングいっぱいに広がる、少し慣れないそんな朝。
俺は他に相談する相手もいないので、彩明に昨日持ちかけられたオフ会のことを話してみた。彩明は少し表情を和らげ、
「楽しそうですね、私もそういうの行ってみたいです」
と、意外な反応。
「へえ、じゃあ一緒に行ってみる?」
「い、いや、私が行くと邪魔になるかも知れないので、大丈夫です。楽しんで来てください」
「それにしても彩明がそういうのに興味あるのは意外だな」
人と関わる事はどんな形にせよ怖がるものだと思ってた。というのは余計なひと言のような気がしたので言わないでおこう。
「ネットとか文字だけの繋がりだと、余計な事を気にしないで関われそうだと思うんです。勝手なイメージですけど」
「そうだね、それはある。あと逆に、文字だけだから冷静に一歩引いて相手を見ることも出来るんだ。俺は現実に友達を作るのが下手だから、ネットの方が気楽だなーって感じちゃう。駄目人間の発想だけどね」
そう自嘲すると、
「ご、五朗さんが駄目人間だったら、私はどうなっちゃうんでしょうか? 超駄目人間になってしまいそうです」
と彩明が慌ててフォローし出したので、俺は笑ってしまった。
「それじゃ、行って来ます」
先に朝食を食べ終わった俺が立ち上がると、彩明は少し寂しそうな表情を浮かべた。順調に懐かれている俺だった。
午前の授業を終えて、昨日調べた彩明の中学校に電話しようと走り出すと、教室の入り口で道を塞ぐように圭が立っていた。俺が軽くため息をつくと、
「なにそれ、感じワル」
と、圭は眉間に皺を寄せた。取り巻きと思しき男たちも俺を睨みつけて来た。俺は思わず足がすくむ。
「なーんか一昨日から妙に五朗君に逃げられちゃってて、最高にムカつくんだよね」
だからどうした。と思ったが俺は無言で圭の前に立っていた。逃げようとしたって無駄で、むしろ状況が悪化する事はすでに経験の中でわかっていた。
「おい、今から校舎裏来いよ。お前だけは絶対許さない」
こいつのにやけた顔が、俺は最高に嫌いだ。
そして周囲からの痛い視線を浴びながら腕を引かれ、校舎裏につくと地面にそのまま投げられた。
いつもならそのまま叩きつけるように足で蹴られて終わりだが、今日はどうにも勝手が違った。
圭達ではなく、俺の。
いつの間にか家のリビングにいて、圭達三人はどこかへ行って、代わりに母親が三人立っていた。
冷たい目だ。見られ者の背中をすっと凍らせるような冷たい目で俺を見下ろす三人の母親。
俺は歯をガチガチ言わせながら膝を折り頭を抱える。呼吸する音がひどく大きく聞こえる。
すーはー、すーはー、すーはー。
ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ。
呼吸は俺の意志とは別に激しくなっていった。
顔を見合わせる母親。
「なんかこいつ今日ヤバくね?」
「怖がり方最高にキモイんだけど」
「いいじゃん、気にすんなよ。やっちゃおうぜ」
そして振りあげられた足。ハイヒール。
呼吸ができない。いや、呼吸している。呼吸がおかしい。頭に酸素が回らない。足がスローモーションで頭めがけて飛んでくる。だめだ、助けて、だれか、だれか、こわい、こわい。
「お、おい、保健医呼んだ方が良いんじゃね? 多分これカコキューだよ。ヤバいよ」
「じゃあこの状況どう説明すんだよ」
「なんか今日は張り合いねーし止めとこうぜー放置放置」
「うわー圭お前鬼だな」
三人の母親はそんな事を言いながら笑って目の前を去っていった。気がつくとそこは校舎裏だった。さっきまでの映像は幻覚だったのだと気付くのに時間はかからなかった。
こんな幻覚を見たのは、昨夜の夢のせいなんだろうな。そんな事を思いつつも呼吸はいつまでも荒いままだ。むしろ過去の事とか今日のことを圭達が言いふらす未来だとか、そんな不安が付きまとっていつまでも発作は治まらない。俺はとうとう座っているのも辛くなってごろりと横に倒れた。いつの間にか流れた涙が口に入ってしょっぱい。
そうしてうずくまっていると、授業の始まりを知らせる鐘が鳴って、とうとう俺は置き去りにされてしまった。
しばらくして発作が治まっても、俺は虚脱感に包まれてそのまま動けないでいた。
六時限目だけ出るのもなんか嫌だったので、自教室が空いていることを確認すると鞄を取りに戻った。
「ねえ、五朗、いつまでそんなこと続けるの?」
教室には由美がいた。険しい顔で俺の事を見つめていた。
「見てたんだ……じゃあ、ばいばい」
鞄を手に取った俺は由美の横を通り抜けた。すると背中から声がした。
「今の五朗、最高にかっこ悪い」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
口でも腕力でも、喧嘩で圭に勝てるはずが無い。あいつに目をつけられた時点で俺には何も出来ないだろう?
「弱虫」
由美が、俺にぴったりの言葉を投げかけた。俺はそれを背中で受け流しながら教室を後にした。
そして日曜日、何事も無かったかと言われるとまあそこそこに色々あった。あいつの負債が五千円の大台に乗ったり、彩明に味噌汁を作ってもらったけど、だしが効いていなくてまだまだ修行が必要だねなんて話をしたり、由美に昼休み音楽準備室にいるところを見つかったり、月曜から彩明がスクールカウンセラーの元へ行くことになったり。
で、とうとう俺の人生初のオフ会の日がやって来た。
N市の駅は県内指折りの繁華街の駅で、新幹線も通ってるだけあって結構広い。改札付近で待ち合わせという運びだが、人が多すぎてとてもこの中からいおりさんを特定することは出来そうになかった。これはいおりさんに言われて渋々作ったラインのアカウントを立ち上げるしか無い、とスマホをリュックから出した。
『駅に着きましたが人が多すぎてわかりません。何か服装とか目印になるものはありませんか?』
すぐに既読がつき返事が返って来た。
『迷彩柄のショートパンツに黒のスタジャンを羽織っています。あまり特徴の無い服装だからわからないかもw パン屋の前ですー』
わからないと思った、俺も。しかしわかってしまった。
わかりたくなかった。
原田由美が、いおりさんの言った通りの服装で目の前のパン屋の壁に寄り掛かっているなんて。
現実が直視できなくて俺は何度も目を擦った。しかし何度擦っても目の前の由美はいおりさんが言った通りの服装で、いおりさんが言った通りの場所にいた。
流石に悪い冗談だろうと目を白黒させていると、由美はこちらに気付きパンプスを鳴らしながら俺の目の前に来た。そしてどや顔で俺の顔を覗き込むと、
「こんにちは、しのぶさん」
嗚呼、悲しきかなビンゴ也。
最高の笑顔で挨拶してきやがった……。気を抜くとめまいが起きそうなほど動揺していた。同級生がブロ友だったなんて、信じられない、信じたくない。めまいをぐっと堪えながら由美の目を見返してみた。いつもの掴み所のない目をしていた。
「こんにちは、いおりさん……」
「しのぶさんなんだか具合悪そう。顔色悪いよ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「まあまあ、今日はオフ会なんだし普段のことは忘れてパーっと騒ごう!」
そう言うと由美……この場ではいおりさんと呼んだ方が良いか。彼女はうなだれる俺の手を引っ張って歩き出した。
少し歩くと俺も冷静さを取り戻してきた。
由美がいおりさんだと思うと、彼女のこれまでの不可解な行動に説明がつくではないか。由美は恐らく保健医と俺の会話を聞いていてブログの内容と酷似する事に気付き、以降ずっと俺のことを探っていたのだろう。そして確信を持ったところでオフ会を持ちかけて来た。由美はずっと気付いていたんだ。
しかしまだわからないことがある。
「いおりさんはよく俺の正体を知っててオフ会しようと思ったね」
いおりさんは振り向かずに前を向いたまま、
「その辺は後でゆっくり話そ? しのぶさんは和食の気分、洋食の気分、中華の気分、どれ?」
「……和食」
流れ流される俺なのであった。
ショッピングモールの中にある新しそうな和食専門店に入り、運ばれてきたお茶を啜る。ひと息つくと、いおりさんは
「別にしのぶさんがリアルでどうだろうと、あんま気にしないから。そりゃイケメンとかだったらいいなーとは思うけど、でもしのぶさんは顔とか見た目とか地位とか、そんなことより大切なもの持ってる人だって、私知ってるし」
どうやらさっきの話の続きをしてくれるようだった。
「むしろ意外性があってすごく面白い。いつも教室の隅で音楽聞いてるぼっちの男の子が、あんなボキャブラリとか純粋さとか優しさを持ち合わせてるなんて、今まで知る由も無かったから。今日オフ会をしたのは、君の事ちゃんと見てる人は近くにいるよーって伝えたかったの。五朗はどうだか知らないけど、私はしのぶさんが五朗で良かったなって思ってる。本当に」
俺はなんというか、くすぐったくてふわふわした、初めて感じる言いようのない感情に包まれて黙りこくってしまった。そしていおりさんが「照れた」と言って笑っているのを聞いて初めて自分が赤面している事に気付いた。赤面してる事で更に恥ずかしくなってしまって、俺は真剣に腕で頬を隠した。うん、無意味だった。そしてなんとか言葉を絞り出す。
「ありがとう」
そして料理が運ばれてきた。あれがうまい、これもうまいという会話をしながら平らげて、その後はどうしようという話になった。気がつくと普通に本名で呼び合うようになっていた。
「五朗は友達と遊んだこともないだろうから、取りあえず私について来て」
俺は素直に従う事にした。虚勢を張ったって由美には俺に友達がいたことがないことも、その他諸々も知れてしまっているので意味が無い。
由美は俺の興味をくすぐるポイントをしっかりと心得ていた。
最初に向かったのはカラオケ。俺は初めてで勝手がわからないので手取り足とり教えて貰いながらなんとか曲を予約。そして流れて来た音楽の音の大きさに驚愕。しかしいざ歌ってみると音は丁度良かった。家で歌っている時はそこそこうまいと思っていた自分の歌が、マイクを通すと大したことないということにも気付いてしまったのであった。
由美は流石に慣れていて、恥ずかしがることも無く上手に歌を歌って見せた。人の歌を生で聞くのは楽しかった。
二時間ほどカラオケをして、それからCDショップに向かいお互い歌った曲の中で知らなかった曲や興味が湧いたアーティストを教え合った。
「あれがよかった」「これはイマイチだ」「いやこれはそうじゃない」と言いながらCDを見て回る。俺は初めての体験に胸を高鳴らせた。
お互いが勧めるCDを一枚ずつ購入し、俺が折角繁華街に来たから彩明に珍しいものを食べさせたいと言うと、「ああ、Aちゃんね」と言い由美はついて来た。街を歩いていて、美味しそうなお菓子屋さんを見つけたので入ろうと言うと、由美にこれはスイーツ店と言うのだと注意された。どちらも意味は変わらないと思う。店員さんのおすすめや自分の目を頼りに、綺麗に飾り付けられたベリー系のケーキを二つ購入した。由美も見ていたら欲しくなったのか、自分の分をちゃっかり買っていた。
そうしていて気がつくと夕方になっていた。俺たちはボックス席に向かい合って座り、電車に揺られた。
「彩明ちゃん、きっと喜ぶよ」
由美はケーキが入った小箱に目をやり、そう言って微笑んだ。
「由美はそのケーキ、弟にあげるの?」
原田家に長男がいる事は、俺も由美のブログを読んでいるので既に織り込み済みだった。
「まあね。やらないとうるさいだろうし」
「なんだかんだで由美はいい姉ちゃんしてるんだな」
「さあ、どうだか……ってなんだかんだってなんだ」
いたずらっぽい笑みを浮かべる由美。
そうして話していたら、由美が俺のブログをRSSで登録して粘着していることも明かされた。RSSか、それがあったか。
電車が地元の駅に着き、俺たちは別れることになった。自転車置き場で挨拶すると、由美は俺のパーカーの裾を掴んで来た。
「最後に、伝えたい事」
「…………」
「五朗に、謝りたい。五朗が過去に色々あって今も心が開けないのわかってるのに、キツいこといっぱい言った。なんかあんた見てるともどかしくて」
「いいよ、全部本当の事だったから」
「またついキツいこと言っちゃうかも知れないけど、その時も仲良くして欲しい。むしろ遠慮しないで私にも言いたい事を言って欲しい。そんでさ、また遊ぼうよ」
また遊ぼうよ。
その言葉が俺の頭の中で何度も波紋を作りながら響いていった。そういえば俺は、誰かと約束をしたことがあっただろうか。頭の中に様々な感情が現れ消えて行くのを感じた。
徒歩でも楽に往復できる駅からの家路の中、原付を飛ばしながら今日あったことを思い出した。今なら少しだけ胸を張って彩明の前に立てる、そんな気がした。ただ目の前の問題はまだ消えていないことも知っている。そんなことは今は考えたくなかった。ただこの胸の中でうねる喜びを噛み締めていたい。
この喜びを、早く彩明に伝えたかった。
家に帰ると味噌汁の香りが漂っていた。どうやら味噌汁に再挑戦しているらしい。「ただいま」と、今日で一週間経つが未だに慣れない台詞を口にすると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら彩明が小走りでやって来た。
「五朗さんお帰りなさい。オフ会は、楽しかったみたいですね」
「へ?」
「顔が、とても嬉しそうです」
彩明はそう言って笑った。
その日のわかめの味噌汁は大成功だった。それを啜りながら彩明に散歩を提案してみた。彩明が二つ返事で了承したので、俺たちは腹ごなしという名目で散歩に出ることにした。
夕方から夜へ向かう空のグラデージョンが俺たちを迎えた。先週彩明を迎えた日よりは明らかに日が短くなっていることを感じながら少し歩き、新幹線のレールの下をくぐり歩道橋を上り始めた頃、俺は口を開いた。
「やっぱり生の夕焼けは、いつ見ても綺麗だなぁ」
一度頷くと、彩明は手を前に組んで少し伸びをした。そしてふぅとひと息つくと、
「空気がすっかり秋の夕方の匂いです」
と笑みをこぼした。その笑顔に俺もつられて微笑む。
「いつも家の中にいるから、少し外の空気吸った方がいいと思ったんだ。彩明と話もしたかったし」
「はい、今日の話を色々聞かせてください」
それから俺はブログの知り合いが同級生の女の子だったこと、その子は俺の正体に気付いても距離を置かず、いつも俺を心配していてくれたこと。最初は顔が真っ青になるくらい動揺したけど、その子とは趣味が合い共に過ごした一日はとても楽しかったこと。最後にまた遊ぼうと約束した事こと。俺が感じた事を出来るだけ彩明に伝えようと口を動かした。こんなに感情表現をしようと努力したのは初めてかもしれない。
彩明は適当なタイミングで相槌を打ち、最初こそ楽しげに聞いていたが、徐々に表情を曇らせて行った。大体話し終えると俺はその異変に気付き、自分が喋り過ぎたのかと思って頭を掻いた。
「ひょっとして、うるさかったかな?」
そう言って謝ると彩明は目を丸くして手をぶんぶん振り、
「い、いえ! 違います、とても楽しい話でした。ただ……」
その手を後ろへ回し、俺を見上げた。
「五朗さんと楽しそうに遊ぶ、その由美さんという方が羨ましくて。私はすぐキョドるし、五朗さんにいつも気を使わせているし、とても五朗さんをそんな風に楽しませることはできそうに無いなって思っちゃって」
俺は上を見ながら少し考える。彩明がキョドっている自覚があり、俺に気を使ってくれて、俺との関係を良好に保ちたいと考えていてくれていることは素直に喜ばしいことだ……ていうか上目遣い可愛いなおい。俺は平静を装う。
「俺、彩明といてつまんないって思ったこと無いよ。この間の病院の帰りなんて、中々楽しかった」
「それなら良かった」
彩明はまた寂しそうに目を伏せてしまった。信じてもらえてないのは丸わかりだった。
「それじゃあ、これから二人で楽しい事をしよう。おいで」
歩調を速めた俺にいそいそとついて来る彩明。
彩明の質問に適当に答えながら着いたのは、小学校のグラウンドだった。ただ俺の目的はグラウンドじゃ無い。その周辺に点在する遊具だ。ブランコに腰掛けて隣のブランコのチェーンを揺らしながら彩明を呼ぶと、彼女はちょこんと隣に腰掛けた。
「ここ、六年間俺の特等席だった」
空のグラデージョンは気が付いたら藍色に飲まれ始めていた。俺はそんな空を見上げながら続けた。
「俺が座ってると誰も寄りつかないんだ」
ブランコに体重を任せ、体を揺らし始める。
「って俺最近不幸自慢酷いな。つまんないだろ、聞き流して」
「それじゃあ、今日私が初めて五朗さんの隣に座ったんですね」
彩明は流れを無視してそう言うと、花のような笑顔で、
「……嬉しいです、ありがとうございます」
と言った。俺はその笑顔に言いようのない感情をぶちまけられた。なんなんだろう、痛いような、くすぐったいような。
なんとなくこの感情は触れてはいけないもののような気がして、俺はすぐにその感情を打ち消した。どうにも隅にこびりつくような感覚が抜けなかったが。
その焦げた鍋の底みたいな感情を吹き飛ばしたくて、俺はにやりと笑うと彩明に靴飛ばしで勝負をしようと持ちかけた。彩明は自信なさげに了解したが、結局彩明の方が手慣れていて、俺は完敗を収めてしまったのであった。聞くと彩明は小学生の頃友達とよくやっていたのだと言う。それは勝ち目が無いわけだ。その話を聞くとひとつ疑問が浮かんだのでひとつ投げかけてみることにした。
「彩明って今は友達いるの?」
彩明は目を伏せて、「今は友達と呼べるかわかりません」と漏らした。それ以上聞くのはためらわれたのでやめておいた。
そして真っ暗になった帰り道。見上げたら星空が広がっていた。それを見ながら彩明は、
「五朗さんといると、とても楽しくて、落ち着きます」
と微笑んだ。気がつけば彩明ははにかみ顔より笑顔の方が増えていた。俺は自分の思考錯誤が実っているのかもしれないと思えて、それがただただ純粋に嬉しかった。
大きな橋を渡る。小学校の校歌にも登場する、地元に親しまれた川に架かっている橋だ。帰ったらお風呂を沸かさないとね、どちらが先に入ろうか、という他愛のない会話をしていると、一瞬俺たちの手の甲が触れた。俺たちは軽く謝って、少し離れて歩いた。そこからは無言だった。触れてはいけない感情が広がっていく。この気持ちは、一体俺に何をもたらすんだろう。考えればすぐに答えが出るような気がした。でもその答えを見つける勇気がまだ無かった。
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