第3話


 無駄な時間を食ってしまった。

 詰所に戻っているべき時間まであと5分もないのに、ボイラー室の見回りが丸々残っている。

 きっとまた先輩からノロマと怒鳴られるんだろう。

 もうここで帰ってしまおうか。どうせ異常なんてあるまい。

 あったとしても、それで船が墜ちてテロリストの兵器が壊れてしまうなら、むしろいいことじゃないか。


 けれど、異常はあった。

 懐中電灯の光の中を小さな影が横切ったのだ。

 小学生くらい――それも低学年の子供に見えた。


 乗客のいる階層から貨物庫エリアへは移動できないようになっている。

 いや厳密には添乗員室から狭いハッチで繋がってるけど、フライト・アテンダントたちがみすみす通すとは考えづらい。

 だったら――今度こそ、幽霊?


「助けて!」

「うわっ!?」


 いきなり横から飛びだしてきた。周囲にある機械を回り込んできたのだ。

 僕はみっともなく腰を抜かす。さっき打ちつけたばかりの尻に再びの衝撃。

 半泣きで悶絶する僕を、冷めた目が見下ろす。

 飛びだしてきた影の正体は、想像していたとおりの年齢の男の子だった。


「……大丈夫、おじさん?」


 いちおう僕はまだ二十歳だ。老け顔どころか、顔つきが幼いとよく言われる。

 でもこの子からすれば充分おじさんか。


「おじさんはオルク・サレオスっていうんだ。君は?」

「個人情報、悪用とかしない?」

「……僕がそんな器用なことできると思う?」

「だよね。悪用される側に見える」

「…………」


 真実はいつだって胸に痛い。


「ぼくのことは――『アル』で。よろしく」


 心臓が、止まるかと思った。


 手をさしだしてきたアル君の幸薄そうな顔に、ニヤニヤ笑いを浮かべた幼稚園時代の同級生の顔が被さる。

 テレビのチャンネルを切り替えたみたいに、同級生の姿は母さんに変わった。酒瓶を振り上げる母さん。また変わる。今では誰だったかも忘れた、怖い顔の大人たち。それから――。


 苦しい。息の仕方が思い出せない。


「どうしたの、おじさん?」

「え? い、いや、なんでも……」


 目の前にいたのは、やっぱりアル君ただ1人だった。

 ふいに呼吸のやり方を思い出して、胸にたまった古い空気を吐く。

 下着が汗でじっとり湿っていた。心臓が胸郭きょうかくから逃げだそうと暴れている。

 大丈夫だ、落ち着け僕。アル君はあいつらじゃない。

 僕を殴ろうとしたわけじゃないんだ――。


「ど……どうしてこんなところにいるの?」

「閉じ込められた」

「誰に?」

「クラスの奴らに――」

「わかった、それ以上言わなくていいよ」


 似たようなことは僕にもおぼえがある。いやというほど。


「とにかく、詰所に案内するね」

「……行ったら、あいつらのところに連れて行かれる?」


 客室には戻りたくないだろう。追加でいじめてくれと言っているようなものだ。

 でもここにいさせるわけにはいかない。安全上の問題があるからだ。

 

「詰所にいられるよう他の人に頼んでみる。でも僕は下っ端だから、他の人が駄目って言ったらどうにもならない」

「……きっと駄目だね」


 アル君は目を伏せた。

 この世の不幸を一身に背負ったような表情。僕も毎朝鏡で見ている顔だ。

 デモノマターのおかげでなにひとつ不自由のない生活ができるようになった。暇な人たちが溺れそうなほど娯楽を生み続けている。なのになんで、他人を虐げる遊びがなくならないんだろう?


「とにかく、行こうか」


 窓のある通路に出る。

 途端、アル君は窓に駆け寄った。

 ガラス窓の向こうを覗き込んでやっと初めて、「子供らしい」と世間一般に言われるような顔をする。


「飛行機は初めて?」

「うん!」

「綺麗だよね、雲海。好きなだけ見てていいよ」


 帰りが遅いことで怒られるのは確定なんだから、もう遅れられるだけ遅れてしまえ。

 後のことを考えるのはやめて、僕もアル君の隣の窓を覗き込む。


 忌々しさを感じるほどに澄み渡った青と、その下に広がる白。

 綿毛の布団みたいな雲の海は、飛び込めば優しく受け止めてくれそうに見える。

 現実には冷たい氷の寄せ集まりで、人間1人受け止める密度すらないのだけれど。


「――死にたい」


 え?


 そう漏らしたのは、僕じゃなかった。

 声のした方向を見れば、くたびれ果てたサラリーマンみたいな顔をした小さな子供が、余計なことを言ってしまったと口元を押さえる。


「……なんでもないよ」

「でも」

「なんでもないったら!」

「僕にできることがあったら……」

「じゃあ、パパを生き返らせて!」

「…………」

「ぼくのパパを生き返らせてよ。テロで死んだパパを。でもってぼくとパパを、ママのところに連れて行って!」

「……テロって、もしかしてCRUZの……?」


 そうだよ、と怒鳴るアル君の足元に、ぽたり、と水滴が落ちた。


「CRUZのテロでパパが死んで、ママといっしょに避難してきたんだ。ムッキィタウンっていう、なにもない、クソみたいな田舎町でさ」


 CRUZによるテロ。

 ついさっき耳にしたばかりの遠い世界のニュースが、現実の被害者というかたちをとって一気に傍らに迫ってきた。


「そこからまた避難になったのはむしろよかったけど、ママが来てくれないんだ。看護士だから、動けない患者さんがいるからって……ぼく1人で、会ったこともない伯母さんの家に行けって……。なんで!? ママはぼくより患者さんやお仕事のほうが大事なの!?」


 大人として、なにかあたたかい言葉をかけるべきなんだろう。

 でも、なにを言えばいい? 『生きていればいいことがある』? バカか? そんな、自分でさえこれっぽっちも信じていない、空虚な台詞が届くもんか。この先アル君の人生に百億回いいことがあったって、この子がいま本当に求めているものは――死んだ父親は絶対に生き返らない。


 どうすればいいんだろう。なんて言ってあげたらいいんだろう。

 昔、助けられてすごくうれしかった。だから僕も誰かを助けたい。

 でも具体的にどう行動するべきか。そのために何が必要で、いつまでにどれだけどうやって準備しておけばいいのか、頭をどれだけひねっても、僕には思いつかない。

 だから結局、僕はいつまでも役立たずで――。郵便ポストでさえ今は自ら動いて客を探すってのに、僕は阿呆のようにただ立ちすくむ。


「え、えっと……」

「ほっといて!」

「ひっ!」

「どうせ『おまえより不幸な奴はいっぱいいる』とか『1人でも頑張ってる子は沢山いる』って言うんだろ! おじさんたちは、自分の足が折れても全身複雑骨折患者が目の前にいればそれで治っちゃうだもんねすごいよね! でもぼくは違う! 自分より苦しい人がゼロ人だろうが1億人いようが知るか! 知ったことか! 嫌なものは嫌だ!」


 きっと、何人もの人からその言葉を投げつけられてきたのだろう。

 泥沼の底から救いを求めて手を伸ばすたび、沼岸にいる奴らから「おまえに助ける価値はない」と泥の中に押し込められてきたのだ。

 他者に救いを求めることが、かえって自分を傷つけることだと知っている。


「……おい、なに騒いでるんだ!」


 同僚の苛立たしげな声が進行方向から飛んできた。

 僕があまりにも遅いので仕方なくやってきたのだろう。近寄ってきた同僚は、僕の頭を1発殴りつけた。

 これがパワハラというものだとは知っているけれど、パワハラであればどうしたらいいのか僕は知らない。


「で、なんだ、このガキは?」

「あ、その、ぼ、ボイラー室に、閉じ込められてまして……」

「閉じ込められただ?」

「はい、同級生にやられたって、言ってます」

「……ああ、ふざけっこか」


 ふざけっこ。


「あの、そ、それで、万が一の時危険ですから、詰所で保護しようと、思うんですけど……どうでしょう」

「緊急用通路があるだろ。客室に戻せ」

「あんな狭くて暗いところ、危ないですよ!」

「詰所に連れて行ったってどうすんだ。シートに予備はねえぞ」

「僕のを使わせてください」

「おまえはどうすんだ?」

「まあ、その、アテが……いえ、なんとかします」


 ロザリオーのことは言わないでおこう。

 上手く説明できそうにないし、できたところでどうせ彼らの手にも余る。


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