第10話

コーヒーの残骸を片づけ、三雲を宥めすかして出て行かせた頃にはすっかり夜になっていた。

空気に少し、コーヒーの香りが残っていて、後悔がフラッシュバックする。

あともう少しだった。ガラスの破片と共に散った、コーヒー粉末への未練が断ち切れない。

今度は買ってきてもらう?

……いや、今回の行程を考えると、その未来は果てしなく遠い。

現代のシステムを理解してもらったとして、着物姿の儚げで麗しい三雲がびくびくしながらコンビニに現れたら視線を集めるに決まっているし、そんな中コーヒーを探して涙目になってる三雲なんて、想像しただけで胃が痛くなる。

私のコーヒーなんぞのために、そんなつらい思いはさせられない。


「諦めが肝心だ」

手に入らないものを嘆いていてもしょうがない。いつまでもコーヒーのことを考えてしまうのは、暇だからだ。

のんびり佇みながら森の風景を眺めるのは癒されるけれど、ずっとこんな生活を続けていたら、元の生活のリズムに戻すのが大変になる。

できることをしよう。そうだ、仕事だと思って現状把握から。

まずは、過去で異界だという『ヤミの国』の詳細や主様、三雲の立ち位置。

三雲が森の気配を辿って私の家に行けたということは、時間軸は違っても陸続きではあるってことだ。だから異界の定義はわからないけれど、『ヤミの国』は日本の土地にあると仮定していいはず。

そして、主様や三雲は何者か。

これまでの流れを考えると、昔話とか神話とかのファンタジー寄りの人たちなんだろうけれど、正直どうでもいい。私はそっち系の映画は観ないし、興味もなければ、想像力に自信もない。

彼らは話は聞かないし、呼びつけたくせに毛嫌いするし、年寄り扱いしてくる。けれど、衣食住を提供してくれているし、三雲は可愛いがすぎる。それだけでいい。

ただ、三雲が連れ去られ、主様が大怪我したのだから、治安についてはちゃんと確認しよう。下手に周囲をうろついて、トラブルを招いたら申し訳ない。

「少しの付き合いだし、特に深掘りするつもりはない。安全ラインを確保しつつ、衣食住の恩義分は返せるようなら返す」

この方向性で行くことにした。

「……だめだ、メモしないと思いついたことが消えていく」

バッグを漁ってメモ帳とペン取り出し、箇条書きにしたあと、やっと一息ついた。



屋敷の最奥にある部屋は静かだった。かすかにする呼吸音以外、音はしない。だが、しばらくすると、身じろぎする音で空気が動いた。

「三雲」

声に力をのせて呟くと、急ぎ足で近づいてくる足音が聞こえる。

「主様! お呼びですか?」

「水を」

「そこに水差し置いてますよ……あっ、空だ。すみません、すぐに持ってきます!」

入口に向けていた顔を正面に戻すと、大きく息を吐いた。回復は徐々にしているものの、一度は炭になった右腕に力を注いでいるために、目に見えては元気になっていない。

慌ただしい物音とともに、三雲が戻ってきた。

「戻りました!」

水差しを取り替えると、主様の枕元に落ちていた乾いた布巾を見つける。

「からからだ。……ごめんなさい、今日一回も見にこなかったから……」

「構わん。必要があれば私が呼ぶ。それでいい」

三雲は返事をせずに黙ったまま出ていくと、布巾を濡らして戻ってきた。そして主の額にそっとのせると、口元を一文字に結んだまま、しょんぼりしている。

「今日はなにをしていた」

「あ……今日は、すみれ様のおつかいに行ってました。……ごめんなさい」

「なにを謝っている」

「主様を放っておいて、すみれ様と楽しく遊んでたから」

「……別にいい」

「でも、私は主様が一人ぼっちだってわかってたのに、まぁいいやって、楽しいことをずっとしてたんです!」

「──」

「私は主様の従者なのに。主様のことなんてちっとも考えずに、すみれ様と一緒にいるのが楽しくて、主様のことなんてすっかり忘れていたんです!」

「……そこまで素直に言う必要はない」

「え?」

「いや」

気まずい雰囲気が流れた。

膝の上の両手をぎゅっと握りしめて、三雲は俯いている。主様はそれを目の端で捉えている。

「あの女はどうしている」

慌てて顔を上げる三雲は怯えた表情を見せた。

「すみれ様を罰するのはやめてください! 私が悪いんです!」

さすがに長年仕えてきた従者には、主の傷ついた目がわかった。

「あ……」

「いい。下がれ」

「あの……」

「下がれと言っている」

「……はい」

閉じた目は拒絶していた。いつもであれば、主様の話を聞かずまとわりついている三雲であっても、この場に居続けることができなかった。

「明日、またお伺いいたします」

返事はなく、三雲はとぼとぼと遠ざかった。

気配がしなくなると、主様は目を開け、天井を睨んだ。

「あの女、早速懐柔するとは……」

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