第9話
律していると思っていたが、私は所詮現代に甘やかされた人間だった。
いや、単なるカフェイン中毒なのか。
「三雲はさ、私がいたとこの、どこにでも行けるの?」
「そうですねぇ、試したことはありませんが」
「じゃあ、私の家にも行けるかな」
「おそらく?」
「私の家に行って、取ってきてほしいものがあるんだけど」
結論から言うと、三雲は私の家に行くことができた。遠い未来線上にある森の匂いを嗅ぎとることで、そこを定めて異界の門を通じさせているらしい。近場に森がないせいで、一時間ほど歩かせることになってしまった。
最初はオートロックの自動ドアに怯えて逃げ帰り、二度目は無事部屋にたどり着いたものの、観葉植物の土を持ち帰ってきた。
「……私の表現が悪かったね。ごめん」
「すみれ様が仰った『茶色い粉』は、これではないのですか?」
「うん……」
「わざわざ器に入れているので、特別な土なのかと思っていました」
「言われてみれば、そうだね……」
期待していただけに落胆がすごかった。往復二時間かかるお願いを二度もやってくれた三雲に、『もう一回』とはさすがに言えない。
「ありがとう、三雲。二度もおつかい頼んじゃってごめんね」
「いえ!」
三雲はぴかぴかした笑顔で待っていた。
「三雲?」
「はい!」
待ってましたと言わんばかりに、私に頭を向ける。意図を察すると、震える手で三雲の頭を撫でた。
かわいい。咽び泣きそうなほどにかわいい。
私は感動で震える手をなんとか制御しながら、つるつるした三雲の髪を撫でつづけた。
「すみれ様……」
少し顔を上げた三雲が上目遣いに見つめてくる。あまりの破壊力に、顔の筋肉がゆるんで落ちそうになった。
「つらそうなお顔をしています。やっぱり私、もう一度行ってきます」
「え、いいよ。もう二回も行ってくれたじゃない。それに主様のお世話もあるでしょう?」
それにこの表情は、内面に湧き上がる萌えを抑えつけているだけで、つらくはない。
「主様はいいのです。あとはもう寝ていれば治るんですから」
あんなに憔悴するほど心配していたのに、たまに主様の扱いが雑になる。不思議だ。
「でも……」
「その『茶色い粉』の在処はわからないのですか? ちなみにこの土は、小屋の一番奥にありました!」
「小屋……玄関から入ったら、左手に水場があったでしょ? その右手に棚があって……」
日差しが気に入って六年住んでいるマンションはワンルームだった。このお屋敷と比べたら、小屋と言われるのも仕方がない。
部屋の配置を思い出していると、無性に帰りたくなった。あそこは確かに私の力で得た、私の居場所だ。当分足を踏み入れられない、私の居場所。
「すみれ様?」
「あぁ、ごめん……なんだったっけ?」
「耄碌なさったんですね……お年ですもの、仕方ないですよ!」
いや、励ましになってない。
「ええと、……そうそう。水場の右側に棚があるんだけど、そこに茶色い粉が瓶に入ってるから……」
「びん?」
「透明な箱、でわかるかな。箱に入っているんだけど、中身の粉が外側から見えるの」
「透明……触れるのですか?」
「うん、硬くて冷たい。落としたら割れる」
「硬くて冷たい、透明な箱……」
「その箱ごと持ってきてくれたら嬉しい」
「分かりました!」
「でも、本当に大丈夫? 足痛くない?」
「すみれ様じゃあるまいし。お年寄りではないんですから、このくらいはなんともありません。普段から山を歩き回っておりますし」
余計な一言で、私の申し訳ない気持ちが霧散した。
「そう? じゃあ、お願いします」
三度目のおつかいに行った三雲の帰りを待つ間、私はぼうっと木々の間の暗闇を眺めていた。ひんやりとした空気が肌寒く、蔀戸を少しだけ開けて、隙間から見ている。
右手で指折り数えてみると、私がここに来て、主様が大怪我をしてから、今日でちょうど二週間経っている。
「現状把握できずに二週間か……仕事だったら叱責が飛ぶなぁ」
過去で異界の『ヤミの国』。私は観念して、これは現実だと仮定することにした。夢であれば、目が覚めれば安堵するだけで終わる。けれど本当に現実だったら、夢だと侮った場合のデメリットが大きい。
だから私は、十ヶ月ここで生きなければいけない。そしてそれは、三雲や主様の協力なしには難しい。
森の暗闇は、主様の背後に見えた黒い炎を思い出させた。ほんの少しだけ現れた墨のような炎。束の間見えたあれは、一体なんだったんだろう。
『主様は、本当はお優しい方なんです! 寝顔にうっかり水をこぼして水浸しにしても怒らないし、黒焦げの右腕をうっかり踏んでも『気にするな』と言ってくれるし、』
『食事にうっかり毒草が混じっていたときも、全部食べてくれたし、』
三雲の話を思い出して、少し肩の力が抜けた。三雲のドジは嫌がらせを超えるレベルだが、あの儚げでたおやかな表情でされては、怒るに怒れない気持ちもわかる。
「ふふっ」
苦々しい顔で許す主様を想像すると、笑いが出た。私には失礼な態度をとる、三雲には甘い主様。
『本当なんです! すみれ様の世界に行って食料を調達するように指示したのも主様ですし、』
『……腹の音が聞こえた』
目を覚ました主様が、私に放った言葉。ただのデリカシーのない放言だと思っていた。
「わかりづら……」
「すみれ様っ! 戻りました!」
変わらず木々の闇を眺めていた私は、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
振り向くと、入り口で誇らしげに瓶を掲げる三雲がいる。
「こちらでしょう! 透明な箱!」
確かに三雲が持っているのはインスタントコーヒーが入った瓶だった。三度目の正直。
「そう、それだよ。三雲、ありがとう」
ここに来て一番の笑顔だ。自分でもわかる。喜びが私の口角を上げている。
まだお湯を沸かしてもいないのに、コーヒーから立ち上る香りがする。でももうすぐ本当に嗅げるのだ、飲めるのだ。
ふらふらと立ち上がると、手を伸ばしてコーヒーに近寄った。
「ありがとう、三雲。その瓶を私に……」
すべて言わずとも察してくれた三雲は、私の元へ駆け寄った。
その場から三雲を動かさなければよかった。私が行けばよかったのだ。先ほどまで散々三雲の行動を思い浮かべていたというのに。
「あっ……」
三雲は躓き、盛大に転んだ。
待ち望んだインスタントコーヒーは、私の目の前で割れた瓶共々散らばった。
「透明な箱が!」
打ちつけた鼻が赤くなっているのも構わず、コーヒーの残骸に近寄ろうとする三雲を止めた。
「透明な箱は割れると危ないから、近寄ったら怪我するよ」
「でも、」
私を見上げる紫の目は涙をたたえ、悲しげにしている。これは子犬だ。雨の中打ち捨てられ、濡れそぼった子犬だ。思わず言葉がこぼれた。
「いいの、気にしないで」
主様は苦々しい顔ではなかったのかもしれない。私のように泣きたい気持ちをこらえて、微笑んでいたのかもしれない。
少しだけ、主様に同情した。
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