第6話
主様は三雲が帰ってきて騒ぎ立てても、一向に起きなかった。その熟睡ぶりは薬の効きすぎが心配になるほどで、三雲には遠慮されたが看病を続けさせてもらうことにした。
右腕の火傷を見るたび涙ぐむので、三雲には身の回りの世話を任せ、怪我の手当ては私が担当することにした。
私は夜になれば割り当てられた部屋で休んでいるが、三雲はずっと側に控えているようだった。日に日に目の下には隈ができ、やつれていく。
こちらの水を飲んだだけで10ヵ月も元の世界に戻れないと言われては、私もうかつに飲食できず、バッグの中の茎わかめは底をつこうとしていた。
「ねえ、三雲。ずっと寝てないんでしょう。主様は私が見てるから、ちょっとだけでも寝たら?」
「いえ、私は大丈夫です。本来ならすみれ様にお手伝いいただくのも心苦しいのに、従者である私が休むなど・・・」
「うーん」
かなり責任を感じているようだ。思い詰めた表情も美しいけれど、なにかの拍子にパリンと壊れてしまいそうで怖い。
「じゃあ、私は休ませてもらってもいい?」
「あっはい! 勿論です」
「ここに来てもらえる?」
「え?」
主様の横に座り、三雲を手招きする。
「元の世界でね、猫の毛並みを撫でるとすごく癒されたの。だから」
「はい?」
訳がわからないまま、言われるがまま、私の側に腰を下ろす。
「三雲の髪を撫でさせて」
「はあ」
誘導される通りに、三雲の白髪は私の膝に収まった。早速撫ではじめた私を、首を回して見つめる。
「あの、これはなんですか?」
「猫を撫でられない代わりに、三雲を撫でたいの。協力してくれる?」
「猫ならどこかにいますから、捕まえてきますよ」
「ううん。いいの」
「でも、私は猫じゃないですし・・・」
「年寄りに撫でられるのは嫌?」
「あっ・・・いえ」
「撫でられるの、苦手なの?」
「いえ・・・」
「じゃあどうして?」
「なんか・・・まったりしちゃうというか・・・引き寄せられるというか・・・」
「うん?」
「えっと・・・なんでしたっけ」
「なんだっけ?」
一定のリズムで単調に、羽根のように繊細に、三雲の髪を撫で続けていると、多かったまばたきの回数が減っていき、やがて閉じたままになった。
寝息が聞こえてきても、油断せずに動作を繰り返す。しばらくしてから手を緩めた。
それにしても主様といい、三雲といい、この二人の髪質は最高だ。主様はさらさらしていて、三雲はつるつるしている。私の手が喜んでいる。
「至福だ・・・」
油断したのか、お腹がぐうっと鳴ってしまう。飽食の時代に生きてきて、こんなにひもじさを感じることになるとは思わなかった。夢だったら飢えても死ぬことはないだろうけれど、今のところ可能性は一番低い。
冷蔵庫に残してきた肉や野菜が思い出された。浦島太郎の逆バージョンで、10ヶ月後に戻っても現実では10分しか経っていなかった、なんてことにならないだろうか。そうすれば、食材を無駄にすることもないし、家賃不払いで家を追い出されることもない。
看病の日々を送っている間に、スマホの電源も入らなくなってしまった。元々使用頻度は高くなくて、持ち歩き忘れることもあったのに、ただの冷たい機械と化した今ではいつも持ち歩いている。
今度は先ほどよりも盛大にお腹が鳴った。
今ははばかられるから、二人が元気になったら食生活の相談がしたい。
ため息をついて顔を上げると、主様がこちらを睨んでいた。
驚いて、声を上げそうになるのを口を抑えて我慢する。
ずっと寝ていたので忘れかけていたけれど、主様は瞳が白いので慣れないし、弱っているのに睨むと迫力がある。
「お目覚めですか」
三雲を起こすべきか迷ったが、少し抑えて声をかける。
明らかにこちらを見ているのに、問いかけに答えずひたすら凝視している。
「主様? お水飲みますか?」
まだ答えない。
「もしかして、目を開けたまま寝てます?」
「・・・腹の音が聞こえた」
一気に優しい気持ちが冷める。デリカシーもないのか、この男は。聞かなかったふりくらいできるだろうに。
「三雲は、どうした」
主様の視線が、私の膝の上で眠っている三雲に注がれる。掠れた声は気遣わしげだ。
「寝てます」
「・・・なぜここで寝ている」
「主様につきっきりで一向に休もうとしないので、ここで休憩してもらってるんです。さっき寝たばかりですけど、起こしますか?」
「いい」
目線を外すと、それきり黙ってしまう。
「気分はどうですか?」
薬の副作用が目下の注目事だ。
だが、私をいないものとして扱うことにしたのか、こちらを見ようともしない。
「なにか欲しいものがあったら、言ってくださいね」
主様に構うのはここまで、私が自分に課した義務感はここまでだ。
これ以上、主様に関わるつもりはない。
穏やかな三雲の寝息に癒される。
つるつるとした白髪を眺めていると素麺を思い出した。そのあとは三雲が目覚めるまで、再び鳴りそうになるお腹の音を押し止めるため、腹筋に力を入れるのに忙しかった。
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