第4話

すり抜けていく柔らかい風が気持ちよくて、濃淡のある緑の景色を眺めていたはずがうたた寝をしていたらしい。気がつくと日が傾いていて、すっかり空気も冷え込んでいる。鳥肌が立った肌を撫で、暗くなった部屋を振り返るがなにもなく、誰もいない。

「三雲はどこに行ったんだろう。布団のこと、忘れちゃったのかな」

あの意気込みではすぐに戻ってくると思っていたが、先ほどスマホを見たときから一時間は経っていた。

この広い屋敷に、彼らの他に人の気配はなかった。気難しそうな主人だし、三雲が一人で切り盛りしているのなら手が回らないのも無理はない。

「要領がいいタイプにも見えなかったし・・・」

スマホを眺める。オフラインで遊べるゲームも入れてあるが、充電器もないし電池がもったいない。圏外のままであっても、充電が切れてしまうと元の世界との隔絶を意味するようで抵抗があった。

スマホの灯りが消えた部屋は真っ暗になった。

あまり動き回るのも失礼かもしれないが、これから世話になるのだからなにか手伝いをするべきだろう。

バッグやスマホは残し、与えられた部屋を出た。主様の部屋には背を向けつつ、三雲を探す。どこを歩いても檜の香りがする。胸いっぱいに吸い込んで深呼吸すると、自然と口元が緩んだ。

柱の手触りにも目を細める。いつまでも触っていたい欲望を抑えて三雲を探すが、ひっそりしていて人の気配がなかった。


「よー、よー、誰かいねえのか」

正面玄関の方で男の声がした。平坦な声で何度も呼ぶのでさすがに気になり、こっそりと玄関に向かう。こちらの姿が見つからないよう警戒して近づいたが、玄関に声の主はいなかった。どうやら外から声をかけているらしい。

「よー、三雲はやっぱりいねえのか、よー」

『やっぱり』という言葉が引っかかり、表に出ると体のがっしりした男が立っていた。眼光は鋭いが、おおらかな雰囲気をまとっている。

「あれ、女? 式か?」

「いえ、すみれと言います」

「お前、人間か?」

「はあ」

他になにに見えるのだ。

「はぁ、べっぴんだなぁ。嫁に来るか?」

そういうあなたはイタリア人か? なんなんだろう、ここでは初対面の女性に求婚するのが礼儀なのだろうか。

「いえ、あの・・・」

「あっ! それどこじゃなかった! 三雲はいるか?」

ここの世界の人たちは今のところ皆、人の話を聞かない。

「私も今探しているところです。ご用ですか?」

「あちゃあ、じゃあやっぱりあれが三雲だったんだろなぁ。川っぺりでよー、三雲みてぇなきれいな蝶がいてよー、眺めてたら牛飼いに捕まっちまってよー、ヒの国に連れ去られちまったんだ」

「あの・・・」

「木地屋か?」

屋敷の中から、よく通る厳かな声がした。これは、主様?

「あっ、三筋様!」

木地屋と呼ばれた男は途端に屋敷に向かって平伏する。私は見慣れない光景に驚いて、つい後ずさってしまった。

「お騒がせして申し訳ねえです!」

「よい。先ほどの話だが、三雲がヒの国に連れ去られたというのはまことか?」

「はい! ですが三筋様の従者だと知ってのこっちゃねえです。あいつら『姫様にお見せしよう』とはしゃいでたので!」

「・・・そうか。よく知らせてくれた」

「とんでもねえです!」

動く気配がして玄関口から主様の気配が消えても、しばらく木地屋は平伏したままだった。声を掛けるのも躊躇われて、私はただ固まって眺めていた。

「ふー」

息を吐くと、木地屋は顔を上げた。頬を上気させて、とても満足そうに見える。

「あの」

「聞いたか? 三筋様が俺の名を呼んでくださった! しかも礼まで! 俺はなんて幸せ者なんだ!」

そのままスキップでもしそうな勢いで、木地屋は去っていった。

疑問符だらけだったが、私にもなんとかわかることがあった。

『三雲は拐われた』

確かに三雲の風貌であれば、さらってでも手に入れたいと思う者がいるのは頷ける。しかも抜けているところもあるし、夢中になると周りが見えないタイプだ。

とにかく、関わりたくないと言っている場合ではない。主様と話さなければと、引き戸を引いた。

すると、屋敷の奥から唸る音がした。

それは黒い塊だった。その中に六つの光るなにかがあって、もの凄い勢いでこちらに近づいてくる。その勢いに恐れをなして尻餅をつくと、すぐ横を一瞬で通り過ぎていった。

玄関を通り抜けた黒い塊は、方向転換をして空へ昇っていく。

「今のって、龍?」

しかも首が一つではなかったように見えた。

遠くから「三筋様、ありがたやー!」と木地屋の雄叫びが聞こえてくる。

恐る恐る主様の部屋を覗くと、そこは無人だった。


「・・・これはもう、夢である可能性は捨てるべきなのかもしれない」

私の想像力ではありえない。

深いため息が漏れた。

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