第2話

私を凝視する時間が続いている。

「お年寄り」「棺桶に足をつっこんでいる」と失礼極まりない発言に、さすがの私も激昂しそうになったけれど、その熱も冷めた。

本気で驚いているのが伝わってきたからだ。

しかし、実年齢よりも若く見えるとは思うけれど、愕然とした表情を2-3分も続けるほどじゃない。

それともこの夢の世界では、私の年齢だとお年寄りの風貌なのだろうか。

「あの」

金縛りから解けたように無表情に戻った“主様”は、今度は眉間に深い皺を刻んだ。

「それほどのお年ならば、余計だ。家では子や孫がこの者の帰りを待っているやもしれん」

「あっ、そうか。ひもじいって泣いてるかもしれないですね、それは可哀そうだ! 早くお返ししないと」

孫どころか子どもだっていない、それに独身だ。

さっきまで代理プロポーズしてまでこちらに留まらせようとしていたのに、年がわかった途端にこの態度。じりじりと苛立ちが上ってくるけれど、何も言うまい。

大事なのは“異界の門”とやらを開いてもらって、元の世界に帰ることだ。せっかく積極的に返そうとしてくれているのだから、水を差す必要はない。

夢だとは思うけれど、私は現実と間違うほどの鮮明な夢を見るタイプではないから、万が一違ったときのための保険は手放すべきじゃない。


「そうと決まったら、早速お返ししますね! 準備はいいですか?」

「はい、お邪魔しました」

“主様”にお辞儀をすると、彼は顎をほんの少し引いた。見落とすほどの小さな動きだが、頷いたんだろう。

三雲と呼ばれる中性的で儚げな風貌の男は、姿勢を正したかと思うと突然舞を舞い出した。

驚いて“主様”を盗み見たが、さして驚いた風もない。むしろゆったりとくつろいで、舞を楽しんでいる様子だ。

横笛の奏でがあればもっと美しいだろう。

さっきまでの騒々しい雰囲気は見事に消えている。彼の風貌と相まって、幻想的な風景が浮かび上がる。

交互に片手で頭から鳩尾に半円を描きながら、すり足で私の方へ近づいてくる。目の前まで来ると、両手で円を描いた。

すると円の中心から黒い塊がじわじわと広がりだした。目の錯覚かと目を凝らしたが、それは段々大きくなり、彼が描いた円の軌跡よりも大きくなった。

「さあ、私の手をお取りください。お家へ帰りましょう」

「あ、」

呆気に取られたまま、来たときと同じように手を引かれる。黒い塊に向かっていく。

「これが、“異界の門”ですか?」

「そうですよ。来たときに見ませんでしたか?」

当然知っていることを何故聞くのだと言わんばかりの表情に、さらに質問を重ねる気が失せた。

まあいい。この妙な体験もこれで終わりなのだから。

先行して歩く彼の白い姿が、黒い塊に溶け込んでいく。すっかり彼は呑み込まれ、彼に引かれていた私の手が塊に触れたとき、異変が起こった。


人差し指が塊に触れた途端、視界が青白くなった。そこを起点に放電し、私の体は弾け飛んだ。軽く気絶していたのだろうか、気づけば私は“主様”の足元に突っ伏していた。

「どうして?」

こちら側に戻ってきた三雲は、紫の瞳を溢れんばかりに見開いている。

静電気の何倍だろう。

軽く痺れているようで、体がうまく起こせない。

首だけで周りを見ると厳しい目をした“主様”と目が合った。

「お前、こちらのものを食ったか」

痺れが舌にも影響してうまく言葉を吐き出せなかった私は、首をなんとか横にふった。

「・・・」

「主様、私の舞におかしなところはなかったはず。なにか気づかれましたか?」

「いや」

私を助け起こすでもなく、二人は放電現象について頭を悩ませている。

吹き飛ばされたときに散らばった、ショルダーバッグとその中身。

それに目をつけた“主様”は、三雲に拾い集めるよう指示した。

「こちらのものが含まれていたのかもしれん。それを持って今一度試せ」

「なるほど! 承知しました」

三雲は乱雑に中身をバッグの中へ放り投げると、それを持って黒い塊へと進んだ。その目の前で一旦止まり、息を吐くと、彼は難なく塊に吸い込まれて行った。

姿が消えたあと、すぐに戻ってくる。

「あれぇ? 通れましたね」

「ふむ」

体の自由が戻り、座って事の成り行きを傍観していた私に視線が集まる。

「この者が、元の世界に拒まれている」


「お前、一度も目を離さなかったのか」

「・・・あのぉ、ちょっと見失っちゃいました。でも『渇きの洞穴』ですぐ見つけたんですよ!」

「・・・」

“主様”の無言の叱責に、三雲は小さくなって項垂れた。

「ごめんなさい。ちょっとだったから平気だと思って、忘れてました・・・」

あの洞窟は『渇きの洞穴』というのか。洞窟は大体湿気ているのに、『洞窟』と『渇き』って矛盾してないか? ん? 渇き・・・

「あっ」

ちょっと前のことなのに、すっかり忘れていた。次々驚くことが続いたとは言え、脳の老化が怖い。昨日の晩ご飯はなんだったっけ?

「あの、こちらのものって、水も含まれますか?」

“主様”が黙ったまま頷く。

「じゃあ、こちらのものを食べました。洞窟で出会ったお爺さんに水を一口もらったんです」

「翁か・・・」

「えっ、翁って、“水精の翁”のことですか? もう、あの爺さん、ちょこちょこ現れては余計なことばっかりするんだから! この前も・・・」

まただ。この二人、特に三雲はすぐに脱線する。

「それで、私は水を飲んだから家に帰れないんですか? 一口だけなんですが」

「一口ならば・・・十月ほどか」

「十月? 10ヶ月ってこと? そんなに?」

「あ・・・ああ」

私の取り乱した様子に、彼らは驚いたようだ。二人して黙って私に注目している。

「10ヶ月って・・・まず仕事をクビになる。いや、その前に捜索願出される? 家賃の支払い、振り込みなのにそれだけ滞ったら、帰る頃には家がないかも」

これ夢よね、夢じゃないとかなり困る。

しかも考えているだけのつもりだったが、途中まで口に出ていたらしい。

「心配ごとはそれだけか?」

「は?」

“主様”がこちらを睨めつけている。

「・・・食材も全部腐ってしまいますね」

私が睨むならまだしも、なぜ睨まれているのかわからない。

こちらの戸惑いを置いてきぼりにして、彼は不穏な雰囲気を漂わせ始めた。そのせいか、空気が重くなったように感じる。

三雲は、自分の主がなにに苛ついているのか察しがつかないようだ。私と彼の顔を交互に見て慌てている。

「そうではない。なぜ子や孫のことを心配せんのだ」

そりゃあ、いないから。

流れに任せて放置していたが、そろそろ訂正した方がよさそうだ。

口を開こうとした。

訂正しようとしたが、“主様”のまとう雰囲気は怒気に包まれていた。見開かれた白い目は、私を直視しているのに私を見ていない。

彼の背後に、ぬらぬらと黒い炎のようなものが見え出した。

幻であるはずだ。でも、背筋が寒くなるこの幻は一体何なんだ。

「お前、子を殺しているな」


「えっ! どういうことです、主様! 私はそんな穢れたものは連れてこられないはず・・・」

目を閉じ、寸の間黙った間に、彼を取り巻く黒い炎は消えた。

「穢れといえども、20年ほど経っている。それに、こやつが手をかけたのではない。おそらく流れたのだろう」

「あっ・・・」

三雲は気遣うようにこちらに視線を送ってくる。まだ慌てているようだ。

「哀れむ必要はない。そもそも子への情を持ち合わせておらんのだ。先ほど聞いただろう、頭に浮かぶは己のことばかり。やはりどの世でも女子など・・・」

「主様・・・」

「すみません」

「えっ」

ここで話しかけられるとは思っていなかったのだろう、三雲は驚いて能面笑顔となっている私に向き合う。

「10ヶ月あちらに戻れないということですけど、その間はこちらでお世話になれるんでしょうか? それとも追い出されるのでしょうか?」

「あっ、そうですよね。あの・・・」

三雲は“主様”に目配せするが、彼はなにも言わない。

「私の勘違いでお連れしてしまったのですから、もちろんお帰りになるまでお世話いたします」

三雲は眉を八の字にして困ったように微笑んだが、“主様”はなにも言わない。

「そうですか、ひとまずほっとしました。ではこれからよろしくお願いします、三雲さん。私は“すみれ”と言います」

「すみれどの・・・」

「“主様”のお名前は? なんとお呼びすればいいですか?」

最初の様子に戻って脇息に身を預けていた“主様”は、驚いてこちらを見た。

そして私の貼り付けた笑顔をしばらく眺めた後、無表情に言い放った。

「お前のような女に名乗る名などない」

「まあ、大人気ない。あ、私とは違ってお若いんですものね。じゃあ仕方ありませんね。では私も主様とお呼びすればいいんですか? 私の主でもないのに主様と?」

言い返されると思っていなかったのか、“主様”の無表情にたじろいだ色がのった。

「・・・鬼でも妖怪でも、好きに呼べばいい。三雲、この女を連れて出ていけ」

「はい・・・」

三雲に促され、立ち上がった私は正面から彼を見下ろした。

「“主様”の温情により、しばらくお世話になります。私のような情のない女と違って、本当に“主様”は情篤き方ですね。私の心情には頓着されない、率直な優しいお言葉まで賜り、感激しております」

一礼し、見下ろした“主様”と目を合わせると、にっこりと微笑んだ。

三雲は顔面蒼白だ。また私と“主様”を忙しなく見比べて慌てている。

構わず御簾を上げ、部屋から出る。三雲は小走りでついてきた。

「その女を、二度と私の前に連れてくるなっ」

御簾の向こうから押し殺した怒声が聞こえた。

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