毒母扱いからの溺愛に心と体がついてこない

クラウド安見子

第1話

二匹の小さな蜘蛛が踊っていた。

互いの前脚を合わせて、リズムをとっているように見える。

夢うつつなのか、それとも老眼の始まりか。

もしくはそんな生態なのか? 


鏡台の天板の端で繰り広げられる光景を横目に、私は化粧の続きをすることにした。

近年目立ってきた左目の下の染みを見ると、気分が少し落ちる。

しかし、だからと言ってコンシーラーで入念に隠すのも気が進まない。ドラッグストアで購入はしたものの、結局行方知れずだ。

10分程度の化粧を終えると、コーヒーを飲む時間があることに気づいた。

お湯を沸かして、インスタントコーヒーを2杯、砂糖もミルクも入れない。

鼻腔から伝わるコーヒーのいい匂いでリラックスする。

朝のちょっとしたゆとりが、心に余裕をくれる。

「今日はいい日、かも」


スマホでニュースをチェックしつつコーヒーを飲み終えると、家を出るのにちょうどいい時間になった。

“可愛すぎる40歳!あの人の私生活を教えてもらいました!”

ニュースアプリのビューティーカテゴリに上がっていた記事。

同じ年の女優は、確かに私が子供の頃に描いていた40歳よりも若い。でもそれは彼女だけじゃない。同級生だって、私だって、母や昔の人に比べると、若く見える。

なぜだろう。

栄養が昔より摂れるようになったから。

若作りの方法が発達したから。

こんなところだろうか。

そんな益体も無いことを考えながら、残暑の日差しが厳しい駅までの13分を歩いていく。


その時だった。

視界の端に、蝶が現れた。

白地に、灰色にも紫にも見える色が翅に入っている。

ふわり、ふわりと不規則に飛ぶので、軌道を予測しづらく避けそこなった。

顔にぶつかりそうになり、反射的に目をつぶる。

途端に、濃い森の匂いがした。

空気がひんやり、そしてずっしりと重くなった気がする。

慌てて目を開けたが、辺りは暗転していた。

布袋でも被せられたかと、顔に手をやったが何も邪魔するものはない。

「そういえば・・・」

音も消えている。

住宅街を歩いていた私の耳には、意識しないだけで生活音が聞こえていた。洗濯物を干す音も、猫の鳴き声も、車のエンジン音も。

私の発した声も、闇に溶けたように消え失せる。
目の周りにも指を這わせたが、やはり何も障害物はないようだ。

「え?」

私の目は漆黒しか映さない。四方を見回しても色は変わらず、自分が立っているのかさえ、わからなくなる。

「あっ、スマホ」

ショルダーバッグの感覚はあった。手探りでバッグを開けスマホを取り出すも、暗闇に慣れだした目にそれの光は眩しすぎた。

ライトをかざしながら手探りすると、壁に触れた。湿っている、これは苔? 明かりを近づけると、確かに苔だ。岩肌に苔生している。

しっかりとした感触に、安堵の息が漏れる。

「お嬢さん」

急に、背後からしわがれた男の声がした。振り向くも、姿は見えない。

「誰?」

「お嬢さん」

スマホを声のした方にかざすと、痩せ細った手が見えた。体は岩に隠れて見えない。

「こっちだよ、お嬢さん。こっち」

「どうしたんですか?」

岩から手を離さず、足元を確かめながらその手の方へ近づいていく。

男は岩のくぼみに腰を下ろしていた。脇に蓋がされた壺と、その上に柄杓がのせてある。

男の顔は、暗闇とフードに隠れてよく見えない。だが、口元から老人だということがわかる。

「お嬢さん、わしは腹がへった。だから休んどる」

「そうなんですか。おじいさんも道に迷ったんですか?」

「お嬢さん、腹がへった」

「えっと、なにかあったかな。あ、茎わかめならありますけどいりますか? お腹の足しにはならないかもしれませんけど」

ショルダーバッグから個包装の茎わかめを取り出し、老人に差し出す。すると引ったくられ、彼はそのまま口に入れた。

「あっ! 袋開けないと! そのまま食べちゃダメですよ」

慌てたが、老人は何食わぬ顔で呑み込んでしまった。彼はにんまりと笑う。

「お嬢さん、お礼にこれをやろう」

「いえいえ、お気になさらず」

「お嬢さん、これをやろう。水だ、喉が渇いただろう」

そう言って、老人は脇に置いた壺を彼女の目の前に突き出す。先ほどコーヒーを飲んだばかりだというのに、言われてみれば喉が渇いた気がする。

「あ、じゃあ、お言葉に甘えて。少しいただきます」

促されるまま、木の蓋を取り、柄杓で水をすくう。その水を手で受け口をつけた。

湧き水を汲んできた帰りなのだろうか、とても甘く美味しかった。

「飲んだなぁ」

「美味しいお水ですね。ありがとうございました」

顔を上げると、老人は消えていた。壺も柄杓もなくなっている。

「え?」


「あっ、いましたね」

ふわり、と森の香りがしたかと思うと、ぼんやりとした灯に人の顔がくっついていた。

「きゃぁああっ」

バランスを失って尻もちをついた私が、その顔から目を離せないでいると、それは喋った。

「驚かせてしまいましたか?」

目が慣れると、灯に顔を近づけていただけだとわかった。

顔の中心しか見えないが、儚げで中性的な顔立ちをしている。

「大声、出してすいません」

恥ずかしい。

この年にもなって、10代の子みたいな慌て方をしてしまった。

だって突然おじいさんが消えたかと思ったら、今度は若者が現れるから。なんだか、化かされているような気分だ。

「いえいえ、こちらこそ突然お呼び立てしてしまって申し訳ない。なにせ、我が主の御所望なので」

「は?」

「あなたも吃驚なさったんじゃないですか? あそこの世界とは勝手が違いますしねぇ」

「あの」

「おやおや、いつまでも地べたに座っていると腰が冷えますよ。さ、お手をどうぞ」

灯で照らしてくれたので、その声の主の手を掴むことができた。ほっそりとしていて、指が細長い。きれいな手だ。

「ありがとう、ございます」

その人は笑みのまま、私の手を引っ張るように歩き出した。

「私も久しぶりだったもので、こんなところに飛ばしてしまったのです。お許しくださいますか?」

「あの」

「我が主は首を長くして待っておられます。いえ、本当に長くなってはおりませんよ、ふふふ」

「はあ」

この人といい、先ほどのご老人といい、人の話を聞かない人ばかりだ。


進む先にぼんやりと明かりが見える。

ここは洞窟なのだと、開けていく視界のなかで理解した。

洞窟から出ると、緑の色彩に圧倒される。森の中だ。しっとりとした空気は、半袖ではちょっと肌寒い。覆い被さる木々の隙間から、日の光が柔らかく差しこんでいる。

やはり森は、目でも肌でも癒される。大きく深呼吸をした。


手を引かれたまま、苔生した石畳の上を歩いていく。

明るい中で見る若者は、非日常的な姿をしていた。

白地に桔梗の柄をあしらった着物に、白の被布を合わせている。

歩くたびにふわふわ揺れる、柔らかそうな白髪はウルフカットで、首筋で絞られたフォルムに襟足が二筋、肩甲骨あたりまで流れている。

「もうすぐお屋敷ですよ」

振り向いて見せる笑顔はやはり儚げで、紫の目は吸い込まれんばかり。性別を超えた美しさの前に、私はこの若者の男女の区別を諦めた。


「つきました! お疲れ様でした」

柱が二本、対となりそびえ立っている。石畳はその奥まで続いているから、ここより先が敷地内ということだろうか。そのまま進むと、茅葺き屋根の平屋に出迎えられた。

懐かしい原風景ながらも威厳のある佇まいに、ここで私を待っている“主”とは一体誰なのだろうかと、今更ながら不安が頭をもたげた。今まであまりに現実味がなくて、思考停止のままついてきてしまったけれど、本当に大丈夫だったのだろうか。

正面玄関の引き戸を引いて中に入る。室内は心地よい檜の香りがした。

「戻りましたー」

言われるがままに靴を脱ぎ、奥へと進む。

私好みの真壁づくりの柱や梁に目を奪われつつも、緊張が隠せない。

最奥と思われる部屋は御簾が下りていた。

「主様、嫁御を連れて参りましたよ。入りますね」

は?

今なんて?

頓着なく御簾を上げて、ずかずかと入っていく。

主に対する態度とは思えないあまりの気軽さに、私は呆気に取られていた。

「帰ったか」

そこには、二畳分の畳の上で脇息に寄り掛かり、片膝を立てて座っている男がいた。

浴衣を着崩しており、胸元が覗く。濃紺の髪色に灰色のアクセントカラーが三筋入っている。首筋が寒いのか、長い髪を首に巻きつけてある。涼やかな面差しもあってか、一際目を引くのは目だ。真っ白な目。

「はい、ただいま帰りました」

にこにこと若者は答えたが、“主様”は無表情だ。

「其奴は誰だ」

「えっ、だから嫁御ですよー」

「お前のか?」

「違いますよ、主様の! ほら、この前『そろそろ欲しいな』って言ってたじゃないですか」

「・・・」

「んもー忘れたんですか? 主様がそう言うから、この世の女子は嫌だろうからと、異界の門を開いて探してきたって言うのに!」

「・・・」

「ほらー、新年の祝い酒の席で!」

「・・・結構前だな」

「えへっ、昨日思い出して」

うん、なんだろうこのコント。つまらないし、迷惑だし・・・。

とにかくこの若者の性別が男だってことはわかった。あと、やっぱりこれは夢なんだ。“異界の門”て、ファンタジーか。

通勤中に熱中症で倒れたんだろうか。この建物だとかすごく好みだし、森にも癒されたけど、この夢は私のなんの欲求が見せているんだろう。

あまりファンタジーものは好んで見ないのだけれど。


「お前」

考え込んでいると、コントの片方から話しかけられた。“主様”だ。夢だとわかってしまえば、緊張なんてしない。

「はい?」

「すまなかった。私の従者が無理やり連れてきてしまったようだ」

「ああ、いえ。そちらにもご事情があったんでしょうから、しょうがないですよ」

「・・・そう言ってくれると、助かる」

“主様”はそう言うと、ぎこちない笑顔を見せた。

ちょっと部下を自由にさせすぎな気もするけれど、部下の不始末を謝れる、いい上司じゃないか。

「でも残念だなぁ。せっかく可愛らしい方を見つけたのに」

「三雲」

「だって。可愛らしいし、突然のこんな状況でも落ち着いていられる肝の据わった方ですよ。 しかも迷惑をかけられても鷹揚に許す器もお持ちだ。こんな方、滅多にいないですよ主様! どうにか、このまま居てもらいましょうよ」

「一方的に決めるものではない」

「じゃあっ、この方がいいと仰ったらいいですか?」

「・・・」

『三雲』と呼ばれる美しい従者は、私の手をとり、吸い込まれそうな紫の瞳を潤ませて迫ってきた。

「可愛らしい方! 私の目に狂いはありません! どうか、どうか我が主の伴侶となってくださいませんか?」

生まれて初めての代理プロポーズ。無意識下で、私は結婚を望んでいたのだろうか?

「あー、えっと」

美しい男たちにここまで褒められ、求められるのは正直嬉しい。夢だと律しても、心浮き立つものがある。

「我が主では、お嫌でしょうか」

「いえ」

「我が主はこう見えても、ヒの国の名だたる陰陽師が恐れる祟り神。怒りをかったが最後、無事に済むものなどありはしません。帝とて、我が主を祀らねば政が立ち行かぬほど」

「三雲」

“主様”は鋭く三雲の言葉を遮った後、深いため息をついた。

「私は、ただの鬼だ」

「主様・・・」

途端にしゅんとした三雲は俯いたまま、“主様”は無表情のまま黙している。

説明不足で訳がわからない上に、突然の気まずい雰囲気。この人たち、悪い人ではないようだけど、気遣いが足りない。

「あの、嫁の件ですが」

雰囲気に耐えられなくなった私が話し出すと、二人の視線が集まった。

「大変嬉しいお話なんですけど、まだ“主様”はお若いですよね? 私はもう40になりますし、お相手としては・・・」

「なにっ!」「はあっ!?」

「お年寄りではないか」「ほぼ棺桶に足つっこんでるじゃん」

ほぼ同時に叫んだが、ちゃんと聞き分けができた。不幸なことに。


え、なんだろう。夢とは言えども、場を和ませようと気を配ったのにちょっと失礼すぎない? 

しかもなぜ二人して、お化けでも見たような表情を浮かべているんだろう。

なんだかちょっと、珍しく血管切れそう。

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