第2話
カツカツとチョークの音が聞こえ、着席してる女子のセーラー服は汗で透け、様々な色や形の下着が恥部を隠す役割を果たしていることを、身を持って表明している。しかし、男子も取り立ててそれに注視している様子はない。もうみんな飽きているのだ。高校二年にもなれば、そんなものは何の価値もなくなる。窓の外は今日も今日とて晴天だった。陽射しは見えない針になって地道さと着実さをもって皮膚をチクチクと刺してくる。下着も太陽も飽きたからといって、その使命を擲つことはしない、それをするのはいつだって人間でしかない。いつの間にか始まり、いつの間にか終わる、授業も生活も。人間である私にはそれだけしか認識できない、認識できないのであればそれしかないのと同じだ。
「ねえ、ユカ聞いてる?」
お昼ごはんの時間になって、弁当をつつくぼんやりとした私にサオリは言った。私はハッとして、目の前の彼女に眼差しを注いだ。肩上で切り揃えられた髪が窓から射す光に照らされて幾分茶色に見えた。
「えっ、うん。なんだっけ?」
「ほらー、案の定聞いてないじゃん。また関内くんのこと見てたんでしょう」
「そ、そんなことないよ」
とはいえ、視線はいつも関内くんを捉えている。逸らしても頭で考えてる。
「気持ちを伝えるくらいはすれば?」サオリは自分の弁当のほうれん草を口に運びながら、関心のなさそうな声で言った。サオリは充分に私の気持ちを知っているのだ。
葉が湖底に落ちてゆくみたいにじれったい高校生活で、サオリは私の唯一の話し相手だった。友達同士で寄り集まってもちゃもちゃじゃれ合ってるのは、何が楽しいのか分からないけれど、サオリは大人しい性格だし静かに物事を見るタイプで冷静さも備えているから、サオリが一人いる分には悪いことはなかった。それにサオリは私のことが好きなのだ。
「でも、関内くんだもんねー。いかにも普通って感じじゃない。もっと速見くんとか、佐藤くんとかかっこいい人いるのに。賢い人がよければ、北川くんもいるし」
「いいんだよ、別に。そういうのじゃないから」
弁解しながらも、私自身なんで関内くんに惹かれているのかは分かっていない。関内くんは確かにクラスで一、二を争うイケメンでもなければ、体育の名手でもないし、放課後の音楽室でピアノを奏でるというのでもない。成績だって中の上の私と似たり寄ったりだろう。私の方が日蔭者でも彼もそんなに突出した性格ではない。それでもなぜか私は思えば彼を見ているのだ。
お昼はサオリと食べるし、暇なときは関内くんを思ったりする。けれど、それらは学校生活の表皮も表皮、至極表側のことがら、一介の退屈しのぎに過ぎず、私は常に淡水の水槽に放られた海水魚の気持ちになっていた。テスト後のざわめきや、休み時間に起こる、誰と誰が付き合ってるだなんて歓談にいつも息が詰まりそうだった。
毎日は既に見慣れたもので、その上いつも困難で、私は今にも崩れそうな吊り橋を渡るようにして、罅だらけの日々を送っていく。決められたレールを危険でないか叩いて歩くようなものだ。そんなことの確認作業で、いつの間にか気づくと一日がまた死んでいる。透明な時間の粒は落としたらもう掬うことはできない。
帰りの会をこなし、掃除が終わると、他の生徒が「帰ろー帰ろー」とはしゃぎだし、サオリも私の肩を叩いて部活の場所へと駆けていった。私はふと息を漏らして、鞄を手に取る。
私は他の帰宅部の連中みたいに帰ることに恍惚を感じ得なかった。なぜなら帰ってもすることがないからだ。何も興味がなく、何にも求められていないがために、どこにも居場所がない。私はどこにゆくのだろう。私はどこにゆけるというのか。
「あ、宮野さんこんにちは」
「こんにちはー」
私が扉を開けると、校医である谷川先生は机に向かっていた身体をこちらに傾けた。谷川先生は五十歳くらいのベテランといった風情で、人当たりがよく、いつもにこにこと柔らかな笑みを頬に湛えている先生だ。私は退屈を紛らわせるために、放課後になるとたびたび大した用もなく、保健室に足を向けた。
部屋に入ると、ベッドの周りのカーテンは開けられており、二つあるベッドのどちらとも使われている様子はなかった。私は窓際のベッドに腰を浅く掛けて、鞄からペーパーバックを取りだした。図書室に行くと、他の生徒の視線が気になってあまり集中ができない私はここでよく本を読むのだ。先生もそれを許していてくれる。
開け放たれた窓からは時折風が輪を描いて、レースカーテンを揺らした。それに乗って、校庭で活動する運動部や吹奏楽部の練習の音が漂ってくる。ここにいれば安全で、それらは部屋を彩る灯りとなった。
「ねえ、先生」私は区切りのいいところまで読むと、顔を上げて陽の赤さが増すのを、目を細めて捉えた。
「なあに?」先生は、机に向かいながら私の声に答えた。
「他の生徒は不安とかってないのかな」
「そりゃああるでしょう。大人だってあるわよ」
「でもみんなは私みたいにはならない」
「そうかしら」先生は身体をこちらに向けて、斜光に眩しそうに眉をひそめた。「誰も似たり寄ったりじゃない?」
「じゃあ私は変われないってこと?」私の言葉に尖った真剣さはない。いつものことだと先生も軽い口調で返してくれる。
「そんなことはないわ。誰も変わるし、変わらずにはいられない。そのたびに新たな問題に出遭って立ち止まったりもするし、ふと前に起きた心配事をうまいこと解決できたりもする。その繰り返しよ」
「それって意味あるのかなあ」
私にはその変化そのものの繰り返しが、陳腐なままの日常でしかないように思えて仕方がなかった。そりゃあ毎日何かしら昨日とは違うことが起こるけど、だからどうだと言うのだろう。
「意味? 意味っていったら難しいわよねえ」と言って彼女は首をかしげた。
彼女は、校庭の方を一瞥したのち、半袖になって露わになった私の腕に巻かれた真っ白な包帯に目を落とした。
「このところ暑くなってきたわね」
「そうですね」
「夏だと蒸れるから気をつけた方がいいわよ」
「実利的ですね。心配してはくれないんですか?」
「ずっと前からしてるわよ、決定打が見つからないだけで」
谷川先生はやさしいのだ。私がどれだけ腕を切っても顔をしかめることはしない。やさしいからこそ、決定的に遠い。彼女は、私の側には立っていない。彼女は私の気持ちなんてちっとも分からないのだ。そしてそれを私も先生も知っている。それゆえに私は心のどこかで安心し、ここに来るのだ。
彼女の言葉に私は曖昧に笑い、頷いた。
家に帰ると、明かりはついておらず慣れっこである無人の空気が私を迎えた。
私は冷蔵庫にあった冷凍の唐揚げとごはんを食べて、お風呂に入り、髪を梳かして、明日の宿題をやった。夜になっても外からは一定の間隔をおいてヒグラシの声が聞こえていた。それと車の通る音。それ以外に生活を表す音素はなかった。色のない生活だ、と私は思った。勉強机に向かって、ぼおっとしていると自分がどこにもいないような気がした。ふと私の不安は何だろうと思った。いつも感じる閉塞感の正体は何者なんだろう。シャーペンを指の上でまわすと、マリの顔が浮かんだ。マリが私を嘲笑う表情が浮かんだ。それはなんともむかつくものだった。私はすこしいらっとした。
そんなことを考えていると、玄関が大きな音を立てて開いた。歩いていくと、父親が倒れていた。近づくとぬめりとした酒気が鼻腔にもぐりこんできた。
「大丈夫、お父さん?」
「……うん」彼は目を瞑りながら首を下に動かした。それは身体と連動してないような首の動きだった。
「今日も会社の人と呑んでたの?」
父が無言なままなので私は彼を寝室まで動かそうと、彼の腕を私の首にかけた。嫌な臭いが強くなる。手の先を持って力を入れて、彼を立たせかけたところで、父は大きく眼を見開いて、私に怒鳴った。
「うるせえ、さわるな!」
父は私の胸を押し退けると、壁に凭れてよろよろと立ち上がった。そして身体をぐつかせながら、私の方をまじまじと見た。
「ん? ユカか?」
「うん、お父さん。ユカだよ。早く寝室まで行こう?」
「あ? てめえ、誰に口きいてんだよ。お前も母さんみたいに殴られたいのか? 俺は、母さんを殺したんだぞ。お前だってなあ、お前だって一瞬のうちに殺せるんだぞ、こうやって鉄バッドでな」
怒声を上げ、片手を振り上げると、父は体勢を崩して玄関の扉に大きく身体を打ちつけた。彼は酔うといつもこうなのだ。普段は大人しいが、酒が入ると素行が荒くなり、口調も人格が変わったようになる。
「うう……」と呻き声を上げる彼に近づいて、私はどうにか彼を寝室まで引き摺って、敷かれた布団に横にした。
深い息を吐いて、私は居間にある勉強机に向き直ったが、なかなか集中できずにベランダに出ると、ひんやりとした夜闇が頬を撫でた。下には大きな通りがあり、正面には細々とした一軒家の屋根たちが敷かれ、その向こうに山嶺が夜に沈んでいた。近くにあるのに手触りの感じられないような夜だった。私は星の見えない空に、そっと胸の内のくぐもったものを吐きだそうとした。が、それもできなかった。近くのベランダで物音がした。私の住んでいるところは比較的大きな団地の端の部分に当たるから、敷地内のほとんどの場所よりもマシだったが、それでも上下左右に他人が生活しているというのは、私には気にせずにいられないことだった。私が静かにガラス戸を閉めると、私は部屋に吸い込まれた。
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