光に何度も手を振って

四流色夜空

第1話

 三階のベランダで体育座りしてた。

 大きい空が青くて、ちぎれた雲が白くて、それでいて天から舞い降りた風が室外機の上にいる私の横を過ぎ去って、網戸を抜けて部屋の中へ侵入していった。日本特有の湿り気のある風だった。私はシャツの裾をもって軽くはたいて、べたついた背中を乾かした。汗の筋が線を描いた左腕を太陽にかざすと、静脈は海のように青く、脇に置いた剃刀を当てて力を入れるとトマトのような赤さの血液が汗の流れに上書きされた。血が地表に落ちたら、幾何的図形が出来ないかと思い、ベランダのフェンスに乗り出し、両手を下に垂らしてみたが、肌から溢れた血液は指先に行くまでにほとんどの力を使い果たし、道路に落ちたのは二、三滴であった。下に見える大通りでは、車が乱暴に排気ガスを撒いて走っていたり、二人の主婦が服を着せた犬を引っ張っていたり、阿修羅みたいな顔をした工事現場のおじさんたちが煙草を吸って歩いていたりした。誰もこちらには見向きもしない。私は諦めて、顔を上げて真正面に当たる北の方角を眺めた。密集した住宅の向こうには淡い色合いの山嶺が見え、それらの木々は忙しない街路樹と違ってゆっくりと揺れていた。それは8bitの感覚を思わせ、どこか滑稽であり、些か私の気持ちをほぐした。

 網戸を開けて部屋に戻ると、彼女は冷蔵庫にあった350mlのコーラを飲みながら、昼下がりのワイドショーを眺めていた。

「ねえ」彼女は私を一瞥すると言った。「ねえ、この人たちは何をやってるの?」

 見ると、ワイドショーでは首相の外交態度について太ったエイリアンみたいなエコノミストや彫像のように目鼻の特徴的なタレントらが、様々な苦言をのべつまくなしに唱えているところだった。まあ、確かに地獄のような光景だった。私は手を団扇代わりにして仰ぎながら、彼女の前に座った。

「何をやってるって、いつもの通りよ」

「あたし、テレビ持ってないからいつもって言われても分かんないんだけど。ついでに好んで時間をどぶに捨てるような奇特な精神もね」

「じゃあ知らなくていいんじゃない。あなたの嫌いな人たちがあなたの気に喰わないことをやってる、それだけのことよ」私はためいきを吐きながら答えた。

「ところで」彼女は勉強机の上にあった爪切りを勝手に取って、ティッシュを敷いた上で、薄いオレンジのマニキュアが塗られた足の爪を切りながら言った。「ところであんた、何て名前?」

「どうして?」

「だって名前を知らなきゃ呼べないじゃない。そんなの不都合だわ」パチンパチンと軽快な音が部屋に充満した重たい夏を切り裂いて落ちた。

「私は」私は、ティッシュを数枚傷口に当てて血を拭った。そして、名前を言うのに躊躇うことなんて何もないことを思った。「私はユカ、宮野ユカ。あなたは?」

 彼女は「あたしはマリ」と言うと、また爪に戻って最後の小指まで丁寧に切った。

 ワイドショーの内容は政治から生活面へ変わったようで、千葉にある動物園の様子が映し出されていた。画面の中では岩の上でペンギンが寝そべっている。黒い岩にペンギンの白い肌が映えていた。

「あんなにだるそうにして、あいつらも自然に帰りたいのかねえ」マリが言うと、画面の中のペンギンはぽわぽわとひらいたくちばしを閉じて、ぴょんと水の中にダイブした。

「フンボルトペンギンは熱帯地方出身だよ」

 私が言うと、「ふふん」と彼女は鼻を鳴らした。

 私が見知らぬ他人を家の中にまで招くというのは、かなり稀な事態である。だからできることならしたくなかった。しかし、しなくてはならないような気がしたのだ。私は身体から抜けないこういう変な正義感が憎い。

 ぼんやりと姿勢を前後に揺らしていたマリは気がついたように部屋を見回すと言った。

「そいえば、親は? あんたひとり?」

 結局自己紹介した意味は何だったんだ。

「母はいない。随分前に離婚したから。それと父は仕事に出てる」

「ふうん」自分から訊いた癖にマリは興味がないようだった。再びテレビに目をやった彼女に私は声をかけた。

「それよりマリ、さっきのは何だったの?」

「さっきの?」彼女は遠い昔のことを思い出すように視線を宙に投げた。

「ほら、あなたのしてたことよ、スーパーで」

「ああ」

 私は一時間ほど前に、駅前のイトーヨーカドーの食品売り場でマリが万引きしてるところを見かけたのだ。珍しい光景ではないし、普段だったら見過ごすようなことだったが、マリの着ていた制服が私の通う高校と同じものだったので、妙に身内の悪事を見ているような気持ちになって、心に罪悪感の切れ端が浮かんできたのだ。この女子が万引きを達成すれば、私の犯した罪もまた色を濃くする。そんな思いが喉をついて、その場にいた彼女を何となく引き止めてしまったのだ。そして、引き止めたはいいが、そのあとどうすればいいかは分からず、そこから十五分ほどの私の家まで連れてきてしまったのだ。

「別に、退屈してたから。言われたら止めればいいし」私の逡巡は露知らずといった風でマリは言った。「それにあんたも物好きよね、あんなの知らん顔すればいいのに」

「だって制服が同じだったから」私は正直に言った。私は何気なく言ったが、それは彼女の琴線に触れる内容であったようだった。

 彼女は歪に口元を曲げて嘲笑った。

「何、学校の評判が下がるからって? ばっかみたい」マリがコーラを飲み干してそれを机の上に置くと、カンと間抜けな音が響いた。「大体さ」彼女は私の腕に目を向けると吐き捨てるように言った。通りから聞こえてくる車の断続的な走行音にも負けない強い口調だった。「そんなダサいことしてるあんたに何か言われる筋合いないね。万引きする動機を訊いて、それからどうするつもりなの? どうせあんたは何も言えやしないんでしょう? だって本当は何ひとつとして考えてやしないんだから。それで自分は正しいことをしたって思い込もうとするだけなんだ。ほんと、馬鹿みたいだよね。あたしは付き合ってらんないわ」それはまるで何かにいらついているように聞こえた。「あたしがあんたに言えるのはそれくらい。じゃあね、ばいばい」

 好きなことを好きなだけ言うと、マリは、あたしは好きにするんだと言わんばかりに鞄をつかんで、コーラの礼も言わずにそのまま玄関から飛び出して行ってしまった。私は変わらぬ場所にいた。乱暴に扉を閉める音が動けない私の鼓膜に残響し、昨日とおんなじぬるい空気が部屋を埋め尽くした。

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