二十一. 待ってる

 西の空が菫色に沈んでいます。初夏とはいえ、まだ肌寒く、わたくしは羽織るものを持ってこなかったことを悔やみました。

 目の前には、未知子さまの住んでいたアパートが、ものも言わずに立っています。

 お手紙を読む限り、未知子さまにとって、そしてお母さまにとって、ここは大切な場所だったはずです。

 未知子さまの魂はここに帰ってきているでしょうか? お母さまは?

 手紙の住所欄を見るに、未知子さまのお部屋は、二〇一号室。詳しく確認するわけにはいきませんが、おそらくあの外階段を上がった所の角の部屋。明かりは灯っていません。

 わたくしはここに来て、いったいなにがしたかったのでしょう?

 でも、どうしてもあのとき、未知子さまのご実家から帰り、このまま駅を出てお屋敷に戻ると、志良山さんたちと会食するのかと思ったとき、どこでもいいから違う所へ行きたい。そう思ったのです。

 そして、辿り着いたのがここ。

 未知子さまはお母さまを見つけられたでしょうか?

 そして、手紙を読みながら考えていたのは、紫以菜のことでした。

 紫以菜は今、どこにいるのでしょう。

 なにをしているのでしょう。

 ここで感じたことを伝えたい。ここで思ったことを届けたい。

 紫以菜への手紙を書きたくなるような気持ちです。

 紫以菜。

 わたくしのお母さまは、むかしむかし、とあるひとと恋に落ちました。

 その方は女性でした。名前は未知子さま。

 お二人は、ふとしたことで出会われたのです。

 どんな交歓があったのでしょうね。お手紙を読む限り、それはそれは熱烈なもののようでした。

 しかしどうやら、明るい太陽の下を、気ままに歩いていたわけではなさそうです。

 お母さまは、もちろんお父さまには内緒だったでしょう。

 未知子さまは、あるバーではオープンだったようですが、実際のところ、どうなのでしょう。女性同士で付き合うということは。

 わたくしは、軽い気持ちで紫以菜に「一緒になりたい」などと言ったつもりはありませんが、この書簡の数々を読むうちに、その先にあるものは、必ずしも明るいものだけではなさそうだということに気づき始めました。

 でも、それは、やらない理由にはならないことも、強く思います。

 わたくしは紫以菜と一緒にいたい。

 十三歳という、これからの未来のほうがずっとずっと長い紫以菜と、その先にあるものを一緒に見たい。

 それを分かち合いたい。

 わたくしは、この想いをしっかりと伝えなければいけない。そう思いました。


 食事を済まそうとファミレスに入り、注文ををしたすぐあとのことです。

 ずっとポシェットに入れっぱなしだったスマホを取り出すと、紫以菜から数分前にメッセージがきていることに気づきました。

〈笙子だいじょうぶ? 元気?〉

 わたくしは、一瞬なんのことをいっているのかと思いましたが、もしや、山岡がわたくしを探そうとして、なにか知っているのかと紫以菜に聞いたのかもしれません。それで、紫以菜が心配して。他にも、山岡からの着信が二件入っているのにも気づきました。

 紫以菜にも心配されているというのも情けない話ですが、お屋敷に帰ることにしましょう。

〈申しわけありません……! 今すぐ帰ります!〉

 そう返信すると、すぐに、頬を赤らめて微笑むゴールデンレトリバーのスタンプが返ってきました。

 少し考えて、わたくしはまた返信を打ちました。

〈待ってて〉

 その返信はすぐにありました。

〈待ってる〉


 夕食を終え、お屋敷の最寄り駅に着いたのは、夜九時半ごろでした。

 お屋敷に戻るのは十時前くらいになることは、山岡にメッセージしてありましたが、今ごろお屋敷はどうなっているのでしょう。

 志良山さんとの会食をドタキャンしたわけですが、皆は呆れて帰っているでしょうか。

 お父さまにはなんと言えばよろしいのでしょう。

 おそらく、お父さまも未知子さまのことはご存知なのでしょう。事故のことで知ったのか、その前から勘づいていたのかはわかりませんが、あのお手紙を手にしていたときの顔は、驚きというよりは、諦めのような顔でした。

 わたくしも知った以上、全てを話そうと思います。

 そもそも、お父さまの書斎からお手紙を盗んだこと、山岡と一緒に、未知子さまのご両親の所に行ったこと、そして、いてもたってもいられなくて、未知子さまの住んでいたアパートの前まで行ってしまったこと。手紙の一部を、読んだこと。

 そして、それを知った上での、わたくしの今の気持ち、考え方。

 そんなことをつらつらと考えながら、大きな石橋をとぼとぼと歩いていると、小さな子供にぶつかりました。暗いのと、ぼけっとしていたのとで、気づかなかったのです。

「す、すみません!」謝ると、

「もう、笙子! 笙子のばか!」

 立っていたのは紫以菜でした。仁王立ちして、腰に手を当てています。

「紫以菜?」

「みんな心配してたんだよ。まったくもう」

「ほんとうに申しわけありませんこと! ご迷惑をおかけしました」

「もう……でもいいんだよ、無事なら。山岡さんから、十時前にお屋敷に着くって聞いて、そろそろこの橋を渡るころかなと思って、待ってたんだから」

「待ってらしたの?」

「そうだよ。待っててっていったのは笙子のほうじゃん!」お冠といった態です。「もう、みんな心配してるんだから。でも、ほんとうになんともなくてよかった。さ、もう帰ろう?」

 紫以菜は、わたくしの手を取って歩きだそうとしました。

「紫以菜……」

 わたくしは細い声で呼びかけました。

「なあに?」

「紫以菜、紫以菜……」

「だからなんだよ?」

「紫以菜、紫以菜、紫以菜!」

 わたくしは、紫以菜の両肩を掴んで振り返らせました。

 そして膝をかがめ、真正面から顔を突き合わせました。

「なあに?」

 目を丸くして聞く紫以菜。

「紫以菜が好き! わたくしは紫以菜が、好き、好き、好き!」

 声を張り上げて言いました。その声は、夜の川の上を流れる空気に、勁く、くっきりと響き渡りました。

「もう、知ってるよ! わかったから、帰ろう。ね?」

 そう言う紫以菜の体を、わたくしは両腕でがっしりと抱きしめました。持っていた、お手紙を入れた缶がゴトンと落ちました。

 すると紫以菜は、無言で、するするとその細い腕を、わたくしの体に回してきました。でも丈が足りず、抱きしめるというよりは、体に寄せただけといったところです。それでも、その体温と匂いが体に染み渡ってくるようで、わたくしは、いいようのない幸福感に包まれました。

 ずっとこのままでいたい。

 わたくしたちはしばらく、無言で抱き合っていました。

 二十二歳の迷える女と、それを抱える、中学に上がったばかりの少女という、奇妙な構図ですが、わたくしたちにとっては、そんなことはどうでもいいと思えるものなのでした。

「笙子」

 紫以菜が体を離してから言いました。

「わたくし……わたくしね、紫以菜に伝えなきゃって思ったの」

「うん。わかった。でも、なにがあったの?」

 わたくしは、落とした缶を拾って、それを開けて見せました。

「これはね、わたくしのお母さまと、その恋人の、お互いに宛てたお手紙なの」

「笙子のお母さんの恋人?」

「ええ。お母さまには、女性の恋人がいたの。わたくしが生まれてからも、ずっとその方と付き合ってらして、それで、亡くなる瞬間も一緒にいた。それがよかったのか悪かったのかは、わからないけれど」

「笙子、ちょっと待って。なんの話?」

 紫以菜はまた目を丸くしました。

「そのままの話ですわ。わたくしのお母さまは、ずっと女性とお付き合いしていらした。そしてその恋人という方が亡くなったという知らせがきて、わたくしと山岡で、その方のご両親とお会いしてきたの」

 わたくしは、これまでのことを大方話しました。

 未知子さまのご両親からの例のお手紙を偶然見つけたこと。それを山岡に問い質して、お母さまの秘密を知ってしまったこと。そしてご両親に会いにいって、お話をしてきたこと。そこで、お母さまの事故死の真相も知ってしまったこと。

 それから、今夜の会食をすっぽかして、未知子さまの住んでいたアパートの前まで行き、ご両親から預かった、お二人のお手紙の数枚を読んだこと。その馴れ初めや交歓、そして遺志を、わずかではあるけれど、知ったこと。

 そのあいだ、考えていたのは、紫以菜であったこと。

 紫以菜の顔、表情なんかが、浮かんでは消え、また、浮かんではいたこと。

 そして、紫以菜に「伝えたい」と思ったこと。

 それを紫以菜は、ときどきはっとしたり、息を詰まらせたりしながら聞いていました。

 もしかしたら、中学生には重すぎる話だったかもしれません。それでも、わたくしは今話すべきだといわんばかりに、滔々と話しました。自分でも驚くくらい、すらすらと言葉が出てきました。

 紫以菜の目には、薄らと涙が浮かんでいました。橋に並んだ街灯の冷たい光を宿すその涙は、それでいて、紫以菜のあたたかい想いを湛えているようでした。

 わたくしは、その目に自分の顔を寄せ、涙にそっと口づけをしました。ほのかなしょっぱさと、蜂蜜のような甘さを口に含みました。

 紫以菜は照れ笑いをし、また、ぎゅっとわたくしの体を抱きしめました。

「紫以菜、好き」

「知ってる。シーナも……」

「わたくし、これからのことを、お屋敷に帰って、みんなに話したいの。今日は志良山さんもいることだし」

「山岡さんからそれは聞いてるけど。笙子、結婚をやめるの?」

「ええ。お断りしようと思っています」

「それは……シーナと一緒になるため?」

「いえ。それは『わたくしがわたくしであるため』とでも言いましょうか」

「笙子が笙子であるため……」

「ええ。わたくしはわたくしの声を聞いて、そしてその声を、大切なひとに伝えたいの。そして、それを紫以菜は聞いてくれた」

「うん、聞いたよ。シーナはそれを受け止めたい」

「この判断で、いろいろなひとに大変なご迷惑をおかけするけど、それをひとつひとつこなしていって、いつかわたくしが、全力でわたくしでいられるようにしたいと思っているの。そこに一緒にいてほしいのが、紫以菜なの。この想い、伝わった?」

「伝わってるよ。受け止めるって言ったでしょ」

「ありがとう。ほんとうにありがとう、紫以菜」

「わかった。シーナの存在が、笙子の結婚を取りやめる直接の原因なんじゃないってわかって、とりあえず、よかった。笙子は笙子の考えで、結婚をやめて、笙子の思う人生を歩むんだね」

「ええ」

「その先に、笙子の隣にシーナがいられるのなら、嬉しいよ」

 紫以菜はわたくしの手を取りました。

 わたくしは、それをもう片方の手で包み、ぎゅっと握り返しました。

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