二十二. わたくしは……

 お屋敷の門を入ると、玄関口から、だれかが駆けてくる靴音が聞こえました。

「お嬢さま!」

 山岡が息を切って立っています。

「心配かけましたわ。わたくしは大丈夫。みなさまは食堂?」

「はい。お嬢さま、山岡は大変なことをしてしまったのではないかと気が気でなくて……。あの話は、いっそのこと墓場まで持っていくべきだったと思っているのです。ほんとうに申しわけありません」

「大丈夫、それはいいのよ。ほんとうにいいの。むしろ感謝しているの。山岡が打ち明けてくれて。それから、未知子さまのご両親からいただいたお手紙を読んで、わたくし、ほんとうによかったと思ってるの」

「それはどういう……」

 山岡の頭にクエスチョンマークが浮かんでいます。

「これからみんなの前でお話ししたいの。志良山さんはいらっしゃる?」

「はい。旦那さまと志良山さま、お二人とも」

「ありがとう」


 食堂の大テーブルには、お父さまと志良山さんが向かい合って座っていました。

 無言で対面するお二人の間には、待っていた時間が塵の山になって、堆く積もっているようにも見えます。

「申しわけありません。ただいま戻りました」

 わたくしの声に気づいたお父さまは、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がりました。

「笙子! ばか者! 勝手に会食をすっぽかしておいて。なにが『戻りました』だ。雄一くんにきちんと謝りなさい」

「はい、ほんとうに申しわけありませんでした。ほんとうに自分勝手な理由です。今回に限らず、いつもいつも、雄一さんにはご迷惑をおかけして……」

 志良山さんは複雑な表情をしていました。

「いえいえ、僕は全然大丈夫なんです。笙子さんが無事で帰ってこられたのなら、それで」

「雄一くんは心配して待っていたんだぞ。それがわかっているのか?」

 わたくしは、ただ謝罪を繰り返しました。

「笙子。いったいなにがあったんだ。こんなこと……家出っていうのかわからないが、だれにも告げずにどこか行くなんて、初めてのことだ」

 お父さまは、ひととおり怒って満足したのか、椅子に座り直して、穏やかな口調で言いました。

「はい……」

「なんだ。言いにくいことか」お父さまは志良山さんに目を遣って、「雄一くんは遅くまで申しわけなかった。もう帰っていいんですよ」

「いえ、雄一さんにも聞いていただきたいのです」

 わたくしは、それを制するように手を出して、声を張り上げました。

「なんだ、そんな深刻な話なのか」

「わたくし、雄一さんとは結婚できません」

 間髪を容れずに言いました。

「はあ? なにぃ?」

 お父さまは、声を裏返します。

「いえ、ですから、雄一さんとは」

「聞こえたよ! なにをだしぬけに。ふざけているのか?」

「ふざけてなんていませんわ。この話をどうしてもしたかったのです」

「まったく、ばかなことを……雄一くん、どういうことだい?」

 志良山さんは、目を伏せて、なにかを言い澱んでいる様子でした。

 お父さまは、黙ってわたくしと志良山さんを睨み付けています。

「まあ、実は、さっき、雄一くんと話してたんだが……いまいち上手くいってないみたいだな」

「いやっ……すみません」

 志良山さんは、わたくしに向かって謝りました。

「別にいいんだ。上手くいってないんだろ。でも、それで結婚できないなんて、ばかなことを言うんじゃない。それくらい男女のあいだではよくあることだろう」

「そうかもしれませんわ。でも『よくあること』で片付けるのは違います」

「みんなそう言うよ」

「みんながどうなどということは知りません」

「じゃあ、具体的にはどういうことなんだ?」

 お父さまは、貧乏ゆすりを堪えられないようで、床がカタカタ鳴っています。

「僕から話させてください」志良山さんが言いました。「僕が悪いんです。僕が笙子さんに決定的に不愉快な思いをさせてしまったんです。僕は拒否されたんですよ」

「どういうことだい? さっきは詳しく話してくれなかったけど……」

「笙子さんは、多分、僕のことを気持ち悪いと思ってるんですよ」

「いえ、気持ち悪いとか、そういう問題ではありません!……あ、でも、そういう意味も……」

 付け足した言葉で、まずい、と思ったのですが、お二人はそれを聞いて黙ってしまいました。

「いや、ですから、雄一さんは悪くありません」

「じゃあ、なんだっていうんだ。意味がわからん。なにが原因なんだ」

「はい……座ってもよろしいですか?」

 お父さまは顎をしゃくって、着席を促します。わたくしは、志良山さんの隣に掛けました。

 お父さまは「それで?」と言うように、憮然とした表情でわたくしを見つめています。

「お父さま、氷見沢未知子さまという方はご存知ですか?」

「なっ……!」

 お父さまはそう叫んでから、はあ、と一つ大きな溜め息を吐いて、肩を落としました。

「そうだな……」もう一度溜め息を吐いて、「あの手紙も父さんの机からなくなっていたし、山岡に聞いても、狼狽えるばかりで要領を得ないし。あれを読んだんだな」

 わたくしは、こくりと頷きました。

「それから、未知子さまのご両親にお会いしてきました」

 今度は、お父さまは、ゆっくりと目を閉じました。

「山岡も一緒に。ね、山岡?」

 わたくしが、入り口に立っていた山岡に振り返って言うと、山岡は縮こまっていました。

「わかった。わかったから」

 お父さまは、どうぞどうぞというように手を振り、わたくしに話を促しました。

「わたくし、今日のお昼に、未知子さまのご両親から、あらましはお聞きしました。その前にも、山岡から、お母さまの過去については聞いていました。お母さまが、その、女性とお付き合いをしていたこと。それから、事故のことも」

 お父さまは、目線は落としたままで、黙って聞いています。

「あのお手紙も含め、未知子さまのご両親から、他にもお手紙もいただいて、それも先ほど少し読んでいたところです。お二人の、断片的なやりとりを」

「でも、それでどうして、結婚できないという話になるんだ」

「それはちゃんとお話しします。とにかく、わたくしはお母さまの過去を知ったのです。どうして言ってくれなかったんです?」

「言うわけがないだろう、そんなこと。笙子にとってためにならないし、だいいち、センシティブ過ぎる話題だ」

「いえ、わたくしは聞く権利、いや、義務があります。ね、山岡?」

 山岡に目を遣ると、一つ頷きました。

「山岡も座りなさい」

 山岡は無言で従い、わたくしの隣に掛けました。

「旦那さま……」

「そうだな。山岡もほとんど全てを知っている。いや、わたしなんかよりもずっと詳しく」お父さまが言います。

「お嬢さまが知る義務があると考えたのは、山岡です。山岡は、いずれお嬢さまには話すつもりでした。遅かれ早かれ。お嬢さまがあのお手紙に気づかれたのは、単なるきっかけに過ぎません」

「そうか……よくわからんがな」独り言つように言います。

「わたくしは知ってよかったと思っているのですよ。少なくとも、教えてくれた山岡や、黙っていたお父さま、ましてやお母さままで責めたり恨んだりは、決してしません」

「じゃあ、知ってどうだって言うんだ?」

「どうもなにも……わたくしのために」

「笙子のためには大事かもしれないが、この家や雄一くんや、それからあっちのご両親にもずいぶん迷惑をかけたんだろう? そんな自分中心なことを言っていい歳じゃないんだぞ? わかってるのか」

「それはごもっともですわ。でも、だからといって、わたくしの本心を無視して、周りだけで話を進めるのは違うと思います」

「本心なら、これまでのことを考えたら、考慮するまでもないだろう。笙子はちっとも結婚を嫌そうにしていたことはなかった。そもそも、五年の付き合いになるんだぞ? 今更『本意ではありませんでした』などと言っていいわけがない」

「それに関しては、わたくしの至らないところですわ。こんな状況になるまで宙ぶらりんにしてきたことは申しわけありません」

「そのとおりだ」

「お父さま」わたくしは、姿勢を正して言いました。「率直にお聞きしますが、未知子さまのことをどう思っているのですか?」

「ばかもの!」お父さまが怒鳴りつけます。「よくもそんなことを聞けたもんだ」

「わたくしは真剣です。お父さまは、お母さまと未知子さまの関係をどう思っていますの?」

「そんなこと言われても、認めるわけにはいかないだろう。そもそも、父さんはどうすればいいんだ。母さんが勝手に女を好きになって、勝手に不倫、というんだよな? そうして、父さんを置いて、そのひとと死んだんだ。父さんがどう思おうが、そんなこと、どうしようもないじゃないか」

 お父さまは顔を上気させています。

「いえ、わたくしはお父さまを責めるつもりはありません。仰るとおりだと思います。ただ単に、考えをお聞きしたいだけですの。責めるような口調で申しわけありませんこと」

「考えだなんて、わかりきったことだろう。わたしは無辜にも関わらず、一方的に傷つけられたんだ。勝手に不倫されて、そいつと一緒に死んだ」

「恨んでらっしゃる?」

「最初は恨んださ。母さんもそのひとも。わたしのことも、月崎家のこともめちゃくちゃにしやがって。もう終わりだと思った」

「最初は?」

「いや、今も恨んでいる。でも、二人とも、もういない。意味のないことだ。どうしようもない」

「わたくしは、お父さまとお母さまが仲睦まじくしていらっしゃるのを見て、理想の夫婦だと思っていました。お母さまはごく自然と、母親をやっていたと思います」

「そうだ。そのとおりだ」

「それでも、お母さまは満足はしてらっしゃらなかったと聞きました」

 隣に目を遣ると、山岡は目を伏せていました。

「でもそれは、お父さまのせいではありません。お母さまは、女のひとが好きだったんですから」

「はあ? 今それを言うか?」

 お父さまは声を荒げました。

「ここは大事なところです。正確には、バイセクシャルというものでしょうが」

「なっ……よくもそんな単語を……」

「どうしてわたくしがこうして、お父さまを困らせるようなこと言うか、わかりますか?」

「全くもって、わからん」

 お父さまは、眉を顰めています。

「わたくしも、女のひとが、好き、だからです」

 わたくしは、一音一音くっきりと発音しました。

 お父さまも、山岡も、そして志良山さんも、一斉に伏せていた顔を上げ、わたくしのほうを見ました。

「あっ……」と志良山さん。

「お嬢さま」と山岡。

 お父さまは、口をぽかんと開けて、わたくしの目を見つめています。

 ふと時計を見たときに、秒針が一秒以上止まっているように見えたときのように、あるべき時間があるべき流れで流れていない。そんな感覚に陥りました。

 言ってしまった、という後悔と、ついにやってやったという達成感が、交互に押し寄せます。

「ですから、わたくしは志良山さんとは結婚できません。結論はそういうことです」

「そっか……」志良山さんが口を開きました。「あのとき言っていた『神さまの意地悪』って、そういう意味でしょうか」

「先日の話し合いのときのことですね。はい、そういうことです。ですから、志良山さんは悪くないのです。ずっと言えずにいた、わたくしが悪いのです」

「話し合い……?」

 お父さまが、かろうじて喋れているとでもいうように、声を絞り出して聞きました。

「こないだの日曜日、お父さまには内緒で、志良山さんとお話ししたのです。わたくしの考えを伝えるために。そこで、志良山さんには、結婚できないかもしれないということを伝えたのです。そのときは、はっきりとは言っていないのですが」

「はい。そのときは、とにかく結婚はできそうにない、とだけ言われて、理由を聞くと『神さまの意地悪』とだけ仰っていたのです。それは、つまり……同性愛者である、と……」

「そういうことです」

 わたくしは言いました。

 お父さまは、また貧乏ゆすりを始め、俯いて額に手を当てています。

「わたくしは、今日一日考えて、思ったことがあります」

 お父さまが「なんだ」とだけ呟きました。

「わたくしは、わたくしであらねばならない」

「また、意味のわからんことを言うんじゃない」

「お父さまには失礼ないい方ですが、お母さまと未知子さま、お二人の間には特別な感情がありました。それは、あのお手紙を読めばおわかりになると思います」

「ばか。ほんとうに失礼なこと言うやつだ。そもそもなんだ、その『特別な感情』なんて言い方は」

「愛だとか、恋だとか、情だとか、いろいろいい方はあるかとは思います。でもそれは一般名詞。お二人の間だけでなければ成立しない感情だったのです。お母さまは、そういう感情をもてるお相手をもてたのです」

「ほんとうに失礼なやつだ。わたしはどうなるんだ」

「お父さまのことも、もちろん愛してらっしゃったと思います。夫として、家族として」

「勝手な想像で言うんじゃない」

「ですから、お父さまのことを貶めることは本意ではありません。とにかく、わたくしは、お母さまと同じく、女のひとが好きなのです。いえ、正確には、バイセクシャルだったお母さまと違って、わたくしの場合は、女のひとしか好きになれないのです」

 お父さまは貧乏ゆすりをやめて、大きく溜め息を一つ吐きました。

 食卓に今まで積もっていた時間の粒が、少しずつ溶けていくようです。

「ですから、今日こうしてお話ししようと思ったのでです。それは、わたくしがわたくしであるために、必要なことなのです」

「そんなわがままなものいいがあるか」

「愛とは、わがままなものです」

「なにが愛だ。ばからしい。愛なんて信用ならん。愛とやらに身を任せれば、結末は破滅だ」

「破滅? どうしてです?」

「母さんのことを考えれば当然だろう。母さんは、死んだんだ」

 その言葉に、わたくしは息が詰まりました。

「でも……でも、それは関係のないことでしょう? どうして、それとこれとが結びつくのですか?」

「関係ないかもしれないがな、とにかく、そんな不安定な関係だから、破滅するんだ」

「同性を好きになることの、どこが不安定なのです? お母さまのそういう関係に悩まされたお父さまは、確かに可哀想です。ほんとうにそう思います。でも、最後までその関係を公にできなかったお母さまも、同じだけ可哀想ですわ」

 お父さまは、息を呑んで、また額に手を当てました。

「そうかもしれんがなあ……」

 尻すぼみに言いました。

「わたくしは、別にお父さまを言いくるめたいわけではありません。ただ、わたくしがわたくしであることを、みんなの前で言いたかっただけなのです。それをわかっていただきたいだけですの」

「僕は、大丈夫です。笙子さんの言葉を信用します」

 志良山さんが言いました。

「雄一くん……」とお父さま。

「ほんとうに大丈夫なんです。笙子さんが僕に気がないことは薄々感じていました。そして、日曜の話し合いのあと、一人で考えて、だいたいの覚悟はついていました。いつかはこうなるんじゃないかって。その『いつか』が結婚する前でよかった。今はそう思います」

「でも、それでいいのかい……?」

「僕としては、笙子さんのことは好きです。今の話を聞いても、そりゃないよ、って気持ちでいっぱいです」

「そうだろう?」

「でも、好きだからこそ、笙子さんのセクシャリティも尊重したい。その結果、僕が拒絶されるのなら、それは仕方ないし、受け入れたい。先日の話し合いのあと、考えていたことでもあります」

 志良山さんは、お父さまの目を見て言ってから、わたくしに向き直りました。

「笙子さんは笙子さんの思うように生きてください。あなたにはその権利があります。いや、山岡さん流に言えば、義務ですかね」

 微笑んで言いました。その笑みには、いろいろな感情がない混ぜになって、マーブル模様をしているようにも見えます。このひとはどこまで好青年なのでしょう。どこまで好青年を演じるおつもりでしょう。

「雄一さん」わたくしは呟くように言いました。「ありがとう。ありがとう。そう言っていただけて嬉しいわ。そして、ほんとうにごめんなさい」

「ごめんなさい、なんて言わないでください。それでは僕が惨めみたいじゃないですか。むしろ、僕のほうこそ感謝したいくらいです。お陰で、僕のほうも、また僕であることができるのですから」

「雄一さん……」

「はい。笙子さんのほんとうの気持ちに疑念を抱きながら、いい加減な結婚生活を送るよりは、今こうしてお話しすることで、僕は僕で、自分に正直に生きることができるかもしれないんですから」

「雄一くんはものわかりがよすぎる。もっと本心を言ってくれていいんだよ」お父さまが言いました。

「僕のほうも、それなりに考えてはいるんです。先ほども言ったように、先日の日曜の話し合いのあと、一人で考えたんです。うそをつき続けて、お互い本心を隠したまま結婚生活を送ることは、お互いのためじゃない。僕は、笙子さんにうそをつき続けてほしくないんです。僕の本心としても、そうして、うそをつき続けているひとと一緒に生活はできそうにもない、ということです」

「でもね、結婚生活というのはそういうものなんだよ。お互い少しずつ我慢して、やっと成り立つもんなんだ。二人はまだ若いから、わからないかもしれないけど」

 お父さまは並んで座るわたくしたちに言いました。

「でも……」

 わたくしは言いました。

「でも?」

「お母さまはうそをつき続けたことに、ほんとうに苦しんでらっしゃいました」

 場は、水を打ったように静まりかえりました。

 皆の心臓の音でも聞こえてきそうです。

「……父さんは、わからんよ」お父さまが言いました。

「なにがですか?」

「一時期は、その同性愛というものを心底嫌ったこともある。母さんにああして裏切られた、といういい方はひどいかもしれないが、そういう結果になったのは、同性愛が原因だろう? それは、他の男を好きになられて不倫されるよりも、ずっと気分の悪いものなんだ。あなたのことは、最初から好きじゃありませんでした、世間体のために結婚しただけです、とでも言われたも同然じゃないか。今まで、ふつうに男女として付き合ってきたけど、それはなんだったんだ、って。うそだったのか。なんとなく、わたしに合わせていただけだったのか……」

「いえ、決してそんなことは……」志良山さんが言いました。

「考え過ぎかな。でも、だからこそ、そういう人間は害悪だとさえ思った。そのときは」

「いやっ……」

 志良山さんは出かかった言葉を呑みました。わたくしも、どう返せばよろしいのか、わかりません。

「でもね、さっきからの笙子の言葉を聞いていて、思ったんだ。母さんにとって、好きにさせてあげたほうがよかったんじゃないかって。笙子も言うように、母さんは多分、父さんたちのことは好きだったはずだ。異性として、ではないにしても。それは、父さんも十分わかっている。そんな母さんを恨むのは、どこか違う気もする」

「お父さま……」

「それに、母さんと未知子さんをずっと日陰に押し込んでいたのは自分だ。世間体もあるかもしれないが、いちばん身近な自分が、見て見ぬふりをしてたんだよ。自分にとって、月崎家にとって、都合の悪いことをないことにしていた。それが結果的に母さんを苦しめていた。そのときはそれでよかったかもしれないが、笙子もそうだと知ったら、今回は、同じようにはできない」

 お父さまはそう言って、目を伏せました。

「お父さまは……お父さまは、ほんとうにお母さまのことが好きだったのですね」

 わたくしがそう言うと、お父さまは、ふっと笑いました。

「ばかなことを言うな」

「そうですわ。先ほど、お母さまは苦しんでらしたと言ったのは訂正します。お父さまからは、ほんとうに大事にされていたのかもしれませんもの。お母さまも、それは感じていらしたはずです。だからこそ、なにも言えなかったのかもしれません」

「恥ずかしいことを言うもんじゃない」

「いえ、申しわけありませんでした」

「父さんはねえ……」

 お父さまは、改めてわたくしのほうに向き直って言いました。

「父さんはね、笙子には日向を歩いてほしい。今、そう思った」

「お父さま……」

「月崎家の跡取りがどうとか、志良山さんとのこととかは、まあ、あとで考えることにするよ。今、とりあえず思ったのは、そういうこと。笙子には、日向を歩いてほしい。それができて初めて、笙子が笙子でいられる。そうだろう?」

 お父さまは優しく微笑みました。

「はい!」

 わたくしが言うと、お父さまは、泣きたいのか笑いたいのかわからない表情で、わたくしを見つめました。

「笙子には、明日も明後日も、一年後も十年後もあるんだ。このあともずっと、笙子が笙子であることは続く。それが笙子のしあわせなのかもしれない」

 お父さまは言って、席を立ち、ばつが悪そうに食堂を出てゆかれました。わたくしはそれを目で追っただけです。

「笙子さん」

 志良山さんが言います。

「僕も同じような思いです。笙子さんにとって、この選択がいちばんかもしれない。僕はそれから外れてしまったわけで、それはそれで悲しいけど、笙子さんを見ていると、不思議と勇気づけられるんです。自分の悲劇なんてひとごとみたいに、笑えるほど」

「志良山さんは……いいひと過ぎますわ」

「はは。そうかもしれませんね。でも、いいんですよ」

「もっと憎んでよろしいのです。わたくしはそれ相当のご迷惑をおかけしました。気分が悪いことと思います」

「いえ、ほんとうにいいんです。笙子さんは、笙子さんであることを選んだんです。僕も僕であることを選びたいと思います。もちろん、今回の件は残念ですけどね」

 志良山さんは、照れて、頭のうしろをぽりぽりと掻いています。

 山岡が、泣きそうな目で、わたくしを見つめています。

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