二〇. わたくしの初恋

 わたくしの初恋の相手は、女の子でした。

 十三歳。私立の中学に上がったわたくしは、新しい環境に右往左往しながらも、それなりに問題のない日々を送っていました。

 受験で入った学校なので、同じ小学校からの同級生は少なく、もともと友達も少なかったわたくしですから、ほとんど一人の状態でした。それは元来、苦ではありませんので、小学生時代と同じように、休み時間は一人で本を読んだり、外に出てグラウンドを眺めたりして過ごしていました。それじたいは、孤独だとは感じませんでした。

 そうような状態でしたが、徐々に世間話程度に話す友達も増えてきました。好きな本の話もできる友達もできました。完全に心を閉ざしたわけではないことは、わたくしのささやかな成長だったと思うことにしましょう。

 その中に、花という同級生がいました。

 所謂お嬢さま学校でしたが、お嬢さま然としたお淑やかなひとは一応はいるものの、その実、賑やかでかまびすしいのが日常です。

 花はそんなグループの中にいる一人でした。

 中心人物というわけではありませんが、いつもベランダで騒いだり、廊下に屯して活発にお喋りしているグループの一員として、楽しそうに笑っているのが彼女でした。

 ただ、その中にいながら、いろいろなひとに分け隔てなく話しかける子でした。わたくしもその例に漏れなかったようです。

 初めて話しかけられたのは、一学期の中間テストが終わったあたりでした。新緑が校庭中に繁茂する、光の眩しい季節でした。

「月崎さん?」

 わたくしの前の席の花が、三時間目の終了と同時に、こちらに振り返って聞きました。

「はい?」

「月崎さんっていう、名前だったよね?」

「ええ……そうですわ」

 当時わたくしは、彼女の名前がすぐには出てこず、曖昧に答えてしまいました。すると、あちらは、わたくしが名前を知っているものと思い込んだようでした。

「ねえ、いつも本読んでるよね。わたしも本好きなんだ。今なに読んでるの?」

 わたくしは少し戸惑いましたが、机の中から本を取り出して、見せました。

「メルヴィルの『白鯨』ですわ」

 花は、ふーん、と言って、わたくしの手からそれを取って、裏表紙のあらすじをじっくりと読みました。そのときの、伏し目になった顔には知的な印象があって、それが意外に思えたのを覚えています。

「なるほどね。この本、名前は聞いたことあるけど、読んだことはなかったな。わたしが読むのといったら、探偵小説とか、SFとか。へへ、男子みたいでしょ?」

「いえ、そんなことはありませんわ。わたくしもホームズのシリーズとか、江戸川乱歩も好きですわよ」

「ああ、そっちかあ。わたしはそういう、世界文学全集じゃないんだよなあ。赤川次郎とか、そういうの」

「まあ。わたくしは赤川次郎は読んだことがありませんわね」

「読んでみたい?」

 そう自然に聞くので、わたくしも自然と「はい」と答えました。

「わかった、じゃあまた今度!」

 花は、そう言って、席を立って教室を出てゆきました。

 わたくしは、もともと本の話ができる友達が欲しいとも思ったことはありませんでしたし、実際話してみても、新鮮な感じはありませんでした。それでも、単純に「嬉しい」という感情は湧きました。他の新しい友達とは、ほんの少しだけ違う感情だったと思います。それはほんの少しの差でしたが、なんとなく「嬉しいな」という、ほのかな、あたたかい灯りのようなものでした。

 その次の週あたりに、また花がこちらに振り返って言いました。

「ねえ、月崎さん」

「はい?」

「これ、持ってきたの」

 花はそう言って、ある本を差し出しました。赤川次郎の本でした。

「読んでみて。わたしのいちおしなの」

「あら、ありがとうございます。読んでみますわ」

 花は、にこっと笑って教室を出てゆきました。

 本は、その日のうちにお屋敷で読み終えました。

 翌週、月曜日の朝礼前に「ありがとう。とても面白かったわ」と言って、それを返すと、花はどこがどう面白かったかも聞かずに、

「今度は月崎さんのお薦めの本、紹介してよ」

 と言いました。

 いつもあちらのペースに持っていかれるので、わたくしもその場で「ええ、わかりましたわ」と言ってしまいました。

 言ったはいいものの、ひとに本を薦めたことのないわたくしは、お屋敷に帰って、さて、と途方に暮れました。

 子供のころから、ひとよりは本を読んできましたが、その中でどれをお薦めすればよろしいのでしょう? 全くわかりません。自室の書棚を眺めながら、これだけの本がありながら、お薦めするとしたら、どれを? そんなこと、考えたこともありませんでした。

 結局、翌日にわたくしが持っていった本がなんだったかは記憶にありません。ただ、そのときに、わたくしはまだ彼女の名前が曖昧だったことがきっかけで、その名を初めてはっきりと知ったことは覚えています(正確には、顔と名前が初めて一致したということですが)。

「あの。ねえ」

 わたくしが前の席の花の肩を叩いて言うと、振り返りました。

「あ、月崎さん、もしかしてわたしの名前、よくわかってない?」

 そう言うものの、特に傷ついたふうでもありませんでした。

「わたし、草木。草木花。意味わかんない名前だよね。全部植物じゃん」

「そんなことありませんわ。よろしくお願いしますわ。草木さん」

「花でいいよ。わたしは笙子って呼ぶから」

 そうして、わたくしは花、笙子と呼び合う友達付き合いを始めたのでした。

 花と話すのは、昼休み以外の休み時間や、朝礼前の数分のあいだが主でした。

 本以外にも、他愛もない話ばかりしました。

 わたくしにとってそれは、純粋に心の安らぐ時間でした。他の表面上の友達には感じない、体温がありました。

 一日のうちにある、十分かそれくらいの時間が積み重なるにつれて、わたくしは徐々に花との時間に馴染んでいきました。

 それで気がかりになってきたことは、花がわたくしの側のひとではないということです。

 花は、ベランダではしゃいだり廊下でお喋りに興じる賑やかなグループの一人です。友達は多く、わたくしなど、その一人に過ぎません。

 それを思うとき、わたくしは、胸の奥がきゅっと締め付けられる思いになりました。

 花が他の明るいタイプの友達と楽しそうにしているのを見る度、結局、わたくしは花にとってとくべつな存在ではないのだ、ということを思い知らされるのです。

 そういうとき、わたくしの心は、急な夕立がやってくるように、暗くかき曇るのでした。

 それは、罪悪感を伴う、複雑な感情でした。

 そして、わたくしをそう思わせている花こそが、罪な存在だとさえ思うこともありました。

 とはいうものの、日常生活での花との時間は、至極穏やかな時間で、花も安心してお話をしているのがわかります。だからこそ、わたくしの気持ちも、過度にかき乱されることもなく、平穏に過ごすことができたのです。

 花との時間は、そういう、大切な時間でした。


 夏休みの最初の二日間、クラスのキャンプがありました。

 海辺の隣市まで行って、一泊二日で海水浴、炊事、レクリエーションなどをする、よくある行事です。

 事前に籤引きがあり、わたくしと花は食事の準備をする班になりました。昼間泳いでから、夕方、クラス全体の食事を作るのです。

 メインはカレーでした。ほとんどは問題なく作ることができました。

 しかし、それを運ぶ段になって、わたくしがちょっとしたヘマをしたのです。

 大きな寸胴のカレー鍋を、調理台から一旦地面に下ろそうとしたときに、思った以上の重さだったもので、ずどんとカレー鍋を落としてしまい、わたくしは腰を抜かしてしまったのです。幸い、鍋はひっくり返ることはありませんでした。ただ、蓋がなかったものですから、衝撃でカレーが少しだけこぼれました。

「痛たた……」

 尻餅をついたわたくしを見て、「笙子、大丈夫!?」とすぐに駆け寄ってきたひとがいます。

 花でした。

 ほんとうに心配しているような表情で、走ってきました。わたくしよりも慌てていたくらいです。

 しかしそのとき、

 ずるっ

 花もずっこけてしまいました。こぼれていたカレーに足を滑らせたのです。そして、わたくしの体にのしかかるようにして倒れ込みました。

 どさっ

 重なるわたくしたちの体。花の体は完全にわたくしの上に乗っかり、顔と顔は、ほっぺたがぴったりと重なり合い、花の吐息がわたくしの耳もとにかかります。

 柔らかい。わたくしは、その柔らかさに抱かれました。

 いい匂い。わたくしは、花のような薫りに包まれました。

 ひとの重み。わたくしは、花という重みを、わたくしの体だけで受け止めました。

 ふわふわしている。

 あたたかい。

 そして、少しの汗の匂いと感触。

 わたくしは、気づいたら、花の体を、ぎゅっと両腕で抱きしめていました。

 音のない時間に、お互いの脈打つ音だけが聞こえます。

 どれくらい、そのまま花を抱きしめていたでしょうか。正確には一瞬だったかもしれませんが、わたくしにはそれが何秒間とはいい表せない、時間のない時間でした。

 はっと我に返ったわたくしは、両手をすぐに引っ込めました。

「ははっ!」

 花は体を起こして、明るい声で笑いました。

 わたくしは、ばつが悪くなって、黙ってしまいました。

「可笑しい! 笙子、変なの!」

 続けて笑います。その顔があまりに明るかったものですから、

「そうですわね!」

 わたくしも、笑い返しました。

 笑い合ったはいいものの、わたくしは、頬が赤らんでいるのが自分でもわかります。胸がどくどくと波打ちます。

 そしてすぐあとに、いいようのない安らぎを覚えたのでした。

 凪いだ海の上を漂っているような、深い草原を歩いているような、そんな安心感がありました。わたくしは両手を胸に当てて、自分をその時間から逃さないように、ぎゅっと自分の体を抱えていました。

 それから、なにごともなかったように立ち上がり、二人でそのカレー鍋を片手ずつ持って、食事場まで運びました。

 しばらくして冷静になったわたくしは、花の顔がどうにも見ることができず、もちろん話すこともできず、別の友達と話したりしながら、キャンプの時間を過ごしていました。

 キャンプ以降は、夏休みが続きましたので、一ヶ月ほど花とは顔を合わせませんでした。

 九月になって二学期が始まると、それまでの友達と距離を測りかねてしまうのはよくあることかもしれませんが、わたくしは、しばらく花とそれまでのように接しかねていました。おそらく、花としては普段とは変わらず接しようと思っていたはずです。それでも、わたくしは、夏休み前のような感覚では対応できなかったのです。

 なので、花としては妙な感じだったかもしれません。その原因は、花としては思い当たる節はあったのかなかったのか、それはわかりません。

 しかし、わたくしとしては、クラスキャンプでの一件が発端であることは、当時から完全に認めていました。

 もちろん、それまで、女の子の体に触れることが全くなかったわけではありません。小学生のころから、女子は男子に比べれば、文字どおり同性と触れ合う機会は多いものです。

 ただ、それまでの違いがあるとすれば、単純に年齢というものがあるでしょう。

 いい方を変えるなら、体つきが違うのです。

 女の子は、柔らかく、ふくよかになります。

 花の体がわたくしと重なったとき、わたくしは、自分の中でなにかが弾ける音を聞いたような気がします。気がついたら、その体をぎゅっと抱きしめていました。

 それ以降、わたくしは花の顔を見ることもできなくなっていました。


 そのころ、わたくしに、花とは別に、野田さんという新しい友達ができました。

 夏休み明けすぐに、鈍った頭を刺激する意味で、実力テストがありました。その国語のテストの返却があったとき、休み明けの席替えでわたくしの隣の席になっていた彼女に、わたくしの解答用紙が見えたことがきっかけで、話すようになったのです。国語が苦手だという彼女に、ときどきアドバイスをすることになりました。

 中間テストが近くなると、その個人教師の機会は頻繁になりました。花との付き合いは、なくなったわけではありませんでしたが、それが少なくなった分だけ、野田さんとの付き合いが増えていったのです。

 野田さんとは、気が合うというよりは、気を使わずに話せるような仲で、隣の席なこともあり、自然と彼女と話すようになりました。

 そんな時期のある日、放課後に、私と野田さんだけで教室に残って勉強していたときのことです。

 だれかが教室に入ってくる気配を感じて、振り返って見ると、出入り口に二人の女子生徒が立っていました。一人は花、もう一人は同じクラスの島本さんという方でした。忘れ物でも取りにきたのでしょう。

 入ってきた瞬間、わたくしと花は、全く同じタイミングで目が合いました。そして、また同じタイミングで、相手側の隣にいるひとに目を移したのです。わたくしは島本さんを、花は野田さんを。

「あ、笙子か。野田さんも」

 花は、一瞬驚いたような表情をしていましたが、そう言っただけで、自分の席に行き、机からなにかノートらしきもの(忘れ物でしょう)を取り出して鞄に入れ、出入り口で待たせていた島本さんの所まで戻りました。

 そして、そこで、二人は手を繋いで去っていったのです。

 そのとき、わたくしは、声を呑むのようなショックを受けました。

 中学生の女子同士が手を繋ぐことじたいは、よくあることです。冷静に考えてみれば、花だって、そういうノリでしたに過ぎないのかもしれません。

 しかし、わたくしにとってそれは、花との関係が終わってしまったとでもいうようなショックだったのです。

 そのときは、なぜそれをそんなにも重大に捉えたのか、考えもしませんでした。冷静に考える考えない以前に、ただただ、そのショックの前に戸惑うばかりでした。

「月崎さん? どうしたの?」

 野田さんの言葉に、わたくしは我に返りました。

「ええ、なんでもありませんわ」

 わたくしは、気にしないふうを装い、野田さんとの時間に戻りました。

「そういえば、月崎さん、草木さんと仲よかったよね。最近、あんまり一緒にいるの見かけないけど」

「そんなことはありませんわ。いえ、仲はよろしいですわ。確かに最近は疎遠にはなりましたが……」

 野田さんは「ふーん」と言って、ノートに顔を戻しました。

 それ以降、花とは、話はすれど、どこかぎこちなく、完全に以前のような距離感ではなくなったような気がいたします。

 それは、わたくしのほうに原因があるのでしょう。

 花の顔を見ると、胸がそわそわする。

 花が別の友達と話しているのを見ると。だれかと手を繋いでいるのを見ると。

 なんだか、自分の心が、雨雲のように黒く濁っていくような気がする。

 わたくしは徐々に、こんな醜い感情に心をかき乱されるくらいなら、花のことを見ないようにしたほうがいいのではないかと思うようになり、花とはまるっきり話さなくなってしまいました。


 そのまま、二年に進級して別々のクラスになってからは、ほとんど顔を見ることもなくなりました。

 これでいいのだと、自分にいい聞かせているうちに、ほんとうにそれでいいと思うようになっていったように思います。

 進級してしばらくして、わたくしはある男子生徒と仲よくなりました。

 別のクラスの玉木くんという生徒で、同じ図書委員に入ったことで、話すようになったのです。

 どちらかというと、楽天的な性格で、「このひと、深く悩むことはなさそうだな」というのが第一印象でした。黒縁眼鏡と短髪がよく似合う、都会的で垢抜けた雰囲気のあるひとでした。

 玉木くんのほうから積極的に話しかけてきたのですが、わたくしはそれを嫌だとは思いませんでした。清潔感のあるひとでしたし、話も面白く、退屈しませんでした。

 六月の下旬ごろだったと思います。玉木くんから、下校時は一緒に帰らないかという提案が上がりました。二人とも帰宅部でしたので、帰る時間は合います。

 わたくしにとっては、その提案じたいは自然な流れに感じられて、その意味するところもなんとなくは理解していましたが、断るのは違うような気がしたので、承諾しました。

 同時に、もし玉木くんとそういうことになれば、思春期の女の子として、ある意味「まっとう」な存在になれるのではないかという、打算的なところもあったのです。

 ずっと一人でいるのが苦ではなく、かといって楽だとも思っていませんでしたが、そんなわたくしでも、周りの甘酸っぱい青春らしさに憧れていなかったわけではありません。

 玉木くんと付き合うことがあれば、今どきの女子中学生として「まっとう」な青春を送ることができるのではないか。

 花への不確かな感情を封印しつつも、それを持て余していたわたくしは、玉木くんとの関係を探る中で、なにか解決できるのではないかという打算もあったのです。

 わたくしたちが共にした道のりは、学校から駅までの、徒歩十五分くらいのものでした。わたくしと玉木くんは、駅からは反対方向の電車で帰るからです。

 わたくしたちは、放課後の十五分の道のりを、お互いの日常の他愛もないことを話しながら歩いていました。ほとんどは、玉木くんの家族のことですとか、ペットのことで、玉木くんはそういう生活感のある話をよく好みました。お姉さまとの仲がよく、ミニチュアダックスフントも溺愛していて、その犬の話をしているときの顔は、ほんとうにしあわせそうでした。

 わたくしは、適度に家のことは話していましたが、それはある場所に線が引いてあり、そこより内側には入ってこさせないようにしていたと思います。玉木くんに限らず、それがわたくしの当時のひととの付き合い方でした。玉木くんがそれを気にしていたかどうかはわかりません。とりあえずわたくしは、玉木くんだからといって、特別な距離の取り方をしていたわけではありませんでした。

 当時は、帰宅部は珍しい存在で、一緒に帰るわたくしたちを見かける生徒は、少なかったとは思いますが、噂になるまでには、それほど時間はかかりませんでした。

 玉木くんは、どうやらそれをいち早く察知していて、かなり気にしているようでした。二人での帰り道は、極力そういう話は出さないようにはしていたようでしたが、それでも話しているときの目線の具合とか(話しながらも目は外に向いていたり)、校内で会ったときの挨拶の仕方とかに、その手の意識を感じていました。わたくしとて、全くの鈍感ではありません。

 しかし、わたくしは、彼の好意を嬉しくは思っていましたが、しっかりと受け止めようとはせず、宙ぶらりんのまま、放ったらかしにしていたのです。

 結果的に、その好意は大事にすることができませんでした。

 どうしても、玉木くんと付き合うというのは「違う」気がしてならなかったのです。

 玉木くんとの帰り道は、楽しいといえば楽しいのですが、駅で別れてしまえばそれっきりで、玉木くんのことを考えるのもそれっきりでした。

 お屋敷に帰ってから、たまにメールはきてはいましたが、ぎこちないやり取りで、二往復くらいして終わりでした。

 わたくしが玉木くんに掛けていた「打算」は、いつの間にか、霧が散るように消えていきました。

 そんなわたくしの思いを察したのか、それとも嫌気が差したのか、または、思春期特有の青さなのか、ある日を境に、わたくしたちは一緒に帰ることがなくなりました。

 その日、玉木くんは別の男友達と寄り道をして帰ると言い、わたくしは一人で帰ったのですが、それ以降も、なにかと理由をつけて一緒に帰ることはせずに、数日経つと、なにも言葉を交わすこともなく、当たり前のように、別々に帰ることになったのです。

 そしてそのまま夏休みに入り、玉木くんとはそれっきりになってしまいました。

 一人で帰るようになってから、帰り道に考えるのは花のことでした。

 玉木くんと帰っていたある日、彼が故意なのか不意なのか、手を伸ばしたとき、お互いの手が触れ合ったことがありました。軽く組むようなかたちになったのです。

 そのときの硬い感触に、わたくしはなぜか、花を思い出したのです。

 花だったら、もっと柔らかくて気持ちいいだろうな。ふと、そう思ったのです。

 一年近く前の記憶をいまだに持っている自分にも驚きでしたが、それよりも、もう一度花に触れたいという気持ちにリアリティをもっていました。

 玉木くんと一緒に帰っていた期間は、だいたいひと月ほどで、一人で帰るようになったのは、元の生活に戻っただけです。それはなにも虚しくはないはずなのに、なぜかわたくしの心には、ぽっかりと穴があいたような気がしました。

 最初、それは、玉木くんがいなくなったからだと思っていました。わたくしにも玉木くんを恋しく思う気持ちがあったのか。そう思っていました。でも、だからといって玉木くんのことを考えるようになったかというと、そうでもありません。そもそも、一緒に帰っていたときから、お屋敷に帰ったあとは、それっきりなのが日常だったのですから。校内で見かけたときも、恥じらいや後悔があるわけではなく、気まずさがあるだけです。

 でも、なんだか虚しい感じがするのは、なぜなのでしょう。

 そう思ったとき、この虚しさは、玉木くんと一緒にいたときにも感じていたものだということに気づきました。

 よく玉木くんから、「話聞いてる?」ですとか、「あ、これ興味ない?」というようなことを言われました。本人は気にしていないように見えましたが、考えてみれば、気にしないひとがいないはずがありません。

 この触れた手が花のものだったら。そう思ったのが、虚しさの始まりだったようにも思います。なにかにつけて、玉木くんを介して、花のことを思い出していたのかもしれません。

 わたくしはその思いを、自分の中に密かにもっていただけでしたが、いつの間にか、それを花に伝えたいと思うようになりました。

 本格的に思ったのは、夏休みに入ってからです。一年前のクラスキャンプでのできごとを思い出したからでしょう。それをきっかけに、花への気持ちを整理して、今のこの考えを伝えたい。そう思うようになっていました。

 最初は、こんなことを言ったところで、花としてはどうすればいいのか、わからないだろう、いったいなんの意味があるのだろう、わたくしの勝手な自己満足のために、花の心を乱すようなことをしていいのだろうか。そう思いました。それでも、もやもやをもやもやのまま残すよりは、夏休みが明けたら、一応は伝えてみたいと思うようになっていました。

 しかし、そもそも、わたくしはなにを伝えたいのでしょう?

 玉木くんといても、いなくても、あなたのことを考えてしまう。一年前の一件以降、妙に意識してしまう。あなたと手を繋いで帰った島本さんを妬ましく思う。

 もう一度、あなたに触れたい。

 それをそのまま伝えればよろしいのでしょうか?

 当時、それがどういう感情だったのか、わたくしには見当がつきませんでした。

 そして、それが恋の感情、愛しく思う気持ちだと知ったときには、もう遅かったのです。

 夏休みの間に、花は家族の都合で遠くに引っ越していました。

 わたくしは、そのときにやっと、それが恋心だったと気づいたのです。

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