十七. 母の恋人

「お母さまの恋人という方が……亡くなって、その方が書いたお母さまへの手紙が遺っていた。そして、その、お母さまの恋人は……女性……?」

 わたくしは、話を整理するように、山岡に確認しました。

「そのとおりです」

 山岡は、こくりと頷きました。

「その手紙を送ってくださったご両親というのは、お母さまが十年前に亡くなっていることをご存知なのかしら? もしかしてご存知ないのでは?」

「ええ、宛名が奥さまの名前でしたからね」

「まあ、それくらいあるかもしれないけれど。でも……そんなことより」

 わたくしは山岡の目を真正面から見ました。

「はい」

「お母さまに女性の恋人がいらっしゃったというのは……そんなこと、全くもって知らなかったわ」

 山岡は神妙な顔をして、ただ黙っているだけです。

「いつか全てを話すって言ったわね。今、話してちょうだい」

「では、お食事を終えられてから」

 山岡はそう言って、食器を片付けに厨房へと戻ってゆきました。


 山岡がわたくしの部屋をノックしたのは、住宅街にすっかり闇と静寂が訪れたころあいでした。たまに通る自動車やバイクのエンジン音と、子供のはしゃぐ声が間断的に聞こえるだけです。初夏のこの町は、例えこの世が終わろうとしていても、変わらずこのままなのかもしれないと思えるほどです。

 コンコンコン

「入って」

「失礼します」

 山岡は、きちんと回れ右をしてドアを閉めました。

「ちょっと、わたくしにはわけがよくわからな過ぎて……小一時間考えたのだけど、なにから聞けばいいかもわからないわ」

 山岡は、こほん、と一つ咳払い。

「どこからどこまで、お話しすればよろしいのか……」

「全部よ。全部話すって言ったじゃない」

「はい。ですが今度、先方のご両親、手紙を送ってくださったご両親の所に行かれたほうがよろしいかと」

「え、あちらに行くの?」

「はい。いけませんでしょうか」

「……わかったわ。それはあとで考えるにして、今話せるだけ話してちょうだい。整理する意味でも。こちらに掛けて」

 わたくしは、山岡に窓辺のソファを勧めました。わたくしもその対面に座ります。

 カーテンが開いていたので、それを閉めます。

 山岡は大きく背伸びをしてから、語り始めました。

「まず、奥さまに女性の恋人がいらっしゃると知ったのは、ご結婚されてから一年後のこと。お嬢さまが生まれる少し前のことです。正確には『いらっしゃった』でしょうか。当時は既にお別れになっていたのですから」

 わたくしは、「続けて」というふうに目で合図しました。

「しかし、ご想像のとおり、お別れになっていたといっても、しばらくして、たまにお会いするようになりました。もちろん、お嬢さまの子育てなどで忙しい時期は、そんな暇はなかったでしょうが、おそらくそれなりには。

 その方とは、旦那さまとのご結婚が決まる前から、お付き合いしていたようです。ずいぶん悩まれていたようですが、最終的には旦那さまとのご結婚を決め、形式上はその方とは別れ、外面上結婚生活を開始されたのです。

 山岡がなぜこんなことを知っているのかと言いますと、奥さまはそのことをずっとだれにも言えず、抱えきれずにいたようです。お嬢さまを妊娠され、臨月も近いという時期に、なぜか山岡に突然打ち明けたのです。

『わたしには恋人がいるの。そのひとは女性なの』

 と。

 山岡もそのときは戸惑いました。もしかしたら、初めてのご出産なこと、旦那さまの無理解などのストレスもあったのかもしれません。お腹の子が女の子で、つまり、跡を継ぐ男子ではないことの落胆もあったでしょう」

 わたくしはそこで、きっと口を結んで俯いてしまいました。

「失礼しました。お嬢さまは悪くありません」

「わかっているわ。続けて」

「はい」山岡は姿勢を正しました。「そのときは、山岡も詳しく聞くわけにもいかず、お嬢さまが生まれてからはしばらく、そのような話などなかったかのような日々が続きました。

 しかし、子育てなどで、なにかとつらい状況になるたびに、奥さまは山岡につらつらと愚痴を漏らしたあと、こう付け加えるようになりました。

『後悔はしていないけれど、満足もしていないの』

 遠くを見るような目で仰るのです。山岡は黙るしかありませんでした」

 わたくしも、それにはなにも返すことができず、黙ってしまいました。

「徐々にではありますが、お二人の関係がわかり始めてきました。

 まず、お二人の出会いは、ご結婚の一年前。きっかけはお話ししてくれませんでした。しかし、そのときには旦那さまとのご結婚は決まっておりましたので、それに抗うことはできず、決まっていたとおり、ご結婚なさったのです。その一年後にお嬢さまがお生まれになったのですね」

 わたくしは、こくりと一つ頷きました。

「ご結婚を機に、一旦お別れになったことは先に申し上げたとおりです。思えば、山岡に愚痴を漏らす頻度は、お二人がお会いになっていない時期に特に激しかったように、今になると思います。

 奥さまが外出されることが多くなったのは、お嬢さまが幼稚園に行かれるようになってからでした。最初は、余裕ができて、奥さまもママ友の皆さんとお茶などしていらっしゃるのかと思い、山岡は安心していたのですが、どうも違うような気もし始めました。上手くは言えないのですが、お戻りになったときのお顔が、ママ友とのお茶程度の気晴らしではないように思えるのです。なんというか、気持ちの晴れやかさと、そして、わずかなうしろめたさを感じたのは、山岡の邪推でしょうか。

 その後も度々外出することが日常になりました。もちろん、全ての外出がそうだったとは言いませんが……」

 わたくしは、もうそれ以上聞きたくないという気持ちになり、

「ちょっと待って」

 とだけ言い、山岡に話を中断してもらいました。

 お母さまが、わたくしが生まれてからも、恋人とお会いになっていた?

 わたくしが幼稚園や小学校に行っている間、その方と密会していた?

 わたくしは、いい方は違うかもしれませんが「裏切られた」という強い反発を覚えました。お父さまを置いて、恋人と会っていたなんて。その方は女性ですが、やはり不倫になるのでしょうか。夫のいないあいだに、内緒で恋心を抱いている相手と会うのなら、それは不倫になるような気もします。しかし……。

 しかし、それと同時に、自分のことを振り返ってみて、その感情はひとごとではないというような、己を恥じ入る気持ちも生じました。

 もちろん、不倫(かどうかは置いておいて)を肯定するわけにはいきません。少なくとも、人道に悖る行為ではあるでしょう。例えそこに、ままならない恋愛感情があったとしても。

 いえ、これもわたくしが偉そうなことをいえたものではありません。ままならない恋愛感情。

 わたくしだって……。

 そこまで考えて、山岡に続きを促しました。

 山岡は、わたくしの顔色を窺うようにしてから、ひと呼吸置いて話し始めました。

「あの手紙が郵便受けに入っているのを見たとき、山岡は宛名が奥さまだったことに妙だなと思ったと同時に、差出人の名を読んで、驚愕しました。心臓が早鐘を打つとはこのことかと。名前こそ違えど、苗字がその方のものだったのですから。珍しい苗字ですので、これは偶然ではないと思いました。

 山岡は、封を切らずにはいられませんでした。旦那さまには絶対に内緒にしておいて、自分だけで見ておこう。そう思い、一人で……」

「読んだのね」

 山岡は、無言で、なにかを飲み込むように強く頷きました。

「で、それはなぜお父さまに見つかったの?」

「単なる偶然です。網戸はどこかとかいうことで、旦那さまが女中室にいらっしゃったのです。そのときに……。なんせ、奥さまの名前が書かれた物ですから、一瞬のうちに目に入ったのでしょう。これはなんだ、と言って、表裏を確認してから、そのまま無言で持っていかれました」

 わたくしは、そこで小さく溜め息をつきました。

「内容は、どんなだったの?」

「一度しか読んでないので、はっきりとはしませんが……」

「いいわ。言ってちょうだい」

 わたくしは気が急いてしまいます。

「あれはごく最近書かれた物でした」

「どういうこと? お母さまが亡くなったのは十年前よ」

「末尾の日付が去年のものでしたから。その方は、奥さまの死をもちろんご存知です。それについては、のちほどお話しします。天国の奥さまに向けて書かれたのかもしれません」

「天国の、お母さまに……」

 わたくしはその意味するところを測りかねていました。

「それは、つまり……」

「遺書なのかとも思いましたが、それはよくわかりません」

「わかったわ。それは今度その方のご両親と話し合いたいと思う」

「行かれるのですか、お嬢さま?」

 山岡が大きな声を上げました。

「あなたが行けと言ったのでしょ。どうやら、山岡の知っていることだけでは埒が明かなそうだわ。わたくしだけでも会いにいくわ」

「いえ、そこは旦那さまとわたくしめも……」

「わかった。それは、そのときに決めましょう。で、どんな内容だったの?」

「食堂で申したとおり……」

「お母さまへの愛を綴ったものだったのね?」

 わたくしの言葉に山岡は、そのときの言葉選びを今更恥じ入るように俯きました。

「ごめんなさい。皮肉ったわけじゃないのよ。わたくしはその言葉が気にかかってしょうがないの」

「はい。それは静かながらも、勁い、奥さまへのラブレターでした」

「読んでみたいわ。でも、それは今、お父さまの手許にあるのね」

「はい。わたくしめがいい加減なことを申すわけにはいきませんので、どうにかしてそれを手に入れられて、読まれることをお勧めします」

「わかったわ。お父さまとは話してみる。それで、お母さまは結婚してからもその方、恋人とはお会いになっていたのね。それだけ?」

「それだけです。山岡が知っているのは、そのときどきの睦まじさとか不和とか嫉妬とか、もちろん表面上だけのものしか窺い知ることはできませんでしたが、そういうことをお話ししてくれました」

「その方のことはあまり知らないの?」

 わたくしは、その恋人とやらのことをほとんど聞いていなかったと思い当たりました。

 山岡は、カーテンの合間に外を窺うようにしてから、

「少し窓を開けてもよろしいでしょうか」

 と言ったので、観音開きの窓を少しばかり開けさせました。風が、レースのカーテンを揺らします。

 山岡はこちらに向き直って話し始めました。

「どうやら、お相手はお近くに暮らしていらっしゃったようです。こちらから、そう遠くはありません。なぜ住所がわかるのかというと、手紙が頻繁にくるものですから。当時は携帯電話は普及していませんでしからね。まあ、日中の空き時間で行って帰ってこられるような所でもありますから」

「場所はどうでもいいのよ。どんなひとなの?」

 また気が急いてしまいますが、山岡は気にすることなく、マイペースに話しています。

「どのようなおひとかは、もちろんお会いしたことがございませんし、言えることはほとんどありません。ただ……」

「ただ?」

「この方かもしれないという心当たりはありました。一度だけ、お屋敷の玄関口にお立ちになっているのを見ましたから。そのときは、奥さまは、お嬢さまを幼稚園までお迎えに行かれていて不在でして、山岡がご用件を伺おうとしたのですが、その方は『いいの。今度にしますから』とひとことだけ仰って、帰られました。そのとき、ああ、奥さまの恋人はこのひとかもしれない、と思ったのです。奥さまから聞き齧っていた『そのひと』のイメージとほぼ重なったものですから、山岡にはもう、そうとしか思えなかったのです」

「どんなひとだったの?」

 わたくしは山岡の目を見て聞きました。

「なんと申しますか……風のようなお方でした」

「風のようなひと?」わたくしは、くすっと笑いそうになりました。「どういうひと?」

「妙な例えで申しわけありません。もちろん、実在の人物です。ショートカットが似合う、爽やかなお方でした。そのときは、紺の襟なしシャツに真っ白のパンツ、黒のパンプスを履かれていました。黒のレース模様の入った日傘を片手に持たれていました。今でも覚えております。サングラスを外したときの目は、瞳は黒々としていて、クールな中にも優しい眼差しがありました。客観的には、中性的というのでしょうね。言葉の抑揚に上品さがありました。二言三言しか話してはいませんが。どうしてこんなことまで覚えているのでしょうね」

 山岡はそう言って、口に手を当てて、くすっと笑いました。今日初めて見せる笑顔でした。調子が出てきたのか、さらに話を続けます。

「山岡は思いました。奥さまの恋人は、このひとかもしれない。というより、このひとであってほしい。不倫になるのかはわかりませんが、妙な話、そのお相手がこのひとだったらいいな、という思いが出てきたのも事実です。このひとなら、奥さまと心の深いレベルで通じ合えるのではないか。このひととなら、奥さまは奥さまらしくしているような、そんなイメージが浮かんだのです。

 いえ、こう申しますと、奥さまがこの家での結婚生活にご不満をもたれていたように聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうではないということは、お嬢さまもご承知のことでしょう」

「ええ」

 わたくしの記憶にあるお母さまは、明るく清楚で、それこそ風のそよぐ草原に、真っ直ぐに立っていそうなお方でした。

 しかし、たまに見せるもの憂い表情が記憶にあることも確かです。当時はそんな大人の憂鬱などわかりもしませんでしたので、妙だなとは思えど、あまり気にすることはなかったと思います。

「ご存知のとおり、奥さまと旦那さまは問題のないご夫婦でした。そうですよね? それでもなお、なお、という思いは山岡にはあります。山岡は結婚したことがございませんので、実感としては、世の中の妻というものがどのような苦労をするのかはわかりませんが、奥さまのそれは、どこか心の内面の苦しさだったのでしょうね。事実として、そういう話を聞いているわけですから」

「山岡は、そのことはだれにも言っていないのよね?」

「はい。当時から墓場まで持っていくつもりでおりました。でも、奥さまが亡くなってから……」

「わたくしには話そうと思うようになった?」

「はい。奥さまの遺志ではありません。言えとも言うなとも聞いておりません。なんせ、奥さまは事故死ですからね。遺志を知る由もありませんから」

「ええ、事故だったわね。山道をドライブ中に、谷に落ちて」

「ほんとうに急なことでした。それから次第に、お嬢さまには、このことは話そうと思うようになりました。多感なころはよそうと思い、成人なさったら、いえ、ご結婚なさったら、お子がお生まれになってから、いえ、山岡が死ぬ間際に、などとあやふやに考えていただけですが。でもそこに、あの手紙が届いたのです」

「そして、わたくしに見られてしまった。偶然だけど。でもわたくしは、あれはだれからのなの? 程度に聞いただけよ。怪しいとは思っていたけど、こんな話になるだなんて……」

「そこは山岡の気の焦りもあるのかと思います」

「それで、とにかく、そのひとは亡くなった。もう、いない」

「はい。同封されていた便箋には、先日、四十九日の法要を納めたこと、葬儀は家族葬だったということが書かれていました」

「ということは、亡くなったのは四月頭くらいか。ところで名前は? 別に重要ではないけど」

「氷見沢未知子さまという方です。未知の領域の未知に、子供の子」

「おかしな名前ね。偽名ではないかしら」

「そうかもしれませんが、先日届いたお手紙にも、当時から届いていたお手紙の宛名欄にもその名が書かれていました。奥さまの話では、奥さまより二つ年上。少なくとも当時は独身。基本的な情報はそれくらいです」

「わかったわ。ありがとう。今日はこれくらいにしておかないと、わたくしの心と頭がはち切れそうだわ。話してくれて感謝するわ。もう遅いからお戻り」

 山岡は、ほんとうに話してよかったのか、とでもいうような表情を浮かべながらも、どこか晴れやかな顔をしていました。

「お嬢さま。よくお考えになってください。山岡はその方のご両親とお会いになればよろしいなどと申してしまいましたが、そのときの気の迷い、言葉の綾のようなものです。お会いになるのなら構いません。なにが起ころうと、それは山岡の責任と心得ます」

「いえ、わたくしはわたくしの責任で会いにいくわ。山岡は関係ない。わたくし一人で会いにいく」

 山岡はなにか言葉を言いかけて、それを飲み込むようにしてから、

「山岡は、このことで、旦那さまにお暇を出されても後悔はありません」

 とわたくしの目を見て言いました。

「わかったわ」

 わたくしは、そうひとこと言い、帰らせました。

 山岡の話を聞いたことは、わたくしをさらに混乱させたようです。

 わけのわからない事件が頻発しています。気持ちの整理がつくどころか、事態は深刻さを増したように思います。

 お母さまの、女性の恋人。

 その方は、もういない。

 ご両親が、遺品の手紙を郵送してくれた。ご両親は内容をご存知なのかしら?

 そもそも、どういうおつもりでお母さま宛にそれを送ったのでしょう。お二人の関係をご存知だったからこそ送ったとも思えますが、ご存知でなかったから、無遠慮に送ってしまったとも考えられます。

 わたくしが見たものは、A4三つ折りくらいの大きさの茶封筒でした。山岡の話では、その方の死を知らせる便箋が一枚入っていたということですが、ぱっと見ではそれも含めて、中身はちゃんと見られませんでした。持った感じでは、「ラブレター」の便箋が三枚ほどあったように思います。

 お二人のほんとうの関係。山岡の話にうそ偽りはなく、ほとんど全てを語ってくれたにしても、わたくしにはまだ知りたいことが多過ぎます。

 本人が亡くなってしまっては、どうにもならないことですが、わたくしはご両親に会いにいくことを、ほぼ決めたようなものです。そうしないことには埒が明きません。

 とにかくお母さまのことが知りたい。

 わたくしは、それに取り憑かれたようになっていました。

 山岡の話を聞いても、なお引っかかっていることが数点あります。

 しかし、ご住所がわからない。お父さまの書斎に忍び込んででも、それを手に入れないといけません。

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