十六. 神さまの意地悪
お昼前に起床したわたくしは、毎朝のルーティーンのように、鏡台に映った自分の顔と目を合わせました。朝日の差し込まない部屋の、柔らかい光に包まれたわたくしの顔は、どこかもの憂い表情をしていました。
努めて見ないようにして視線をずらすと、貝殻の耳飾りがそこに光っていました。
今日はこれを着けるべきでしょうか。
わたくしは、少しだけ考えて、それをすぐ下の抽斗に仕舞うことにしました。
抽斗を開けると、黒の小箱があるのに目が留まりました。紫以菜からのクリスマスプレゼントです。開けると、吹けば飛ぶような、儚げな羽が一対下げられた耳飾りが嵌められています。紫以菜がわたくしに合いそうだと言ってくれた、小さな耳飾りです。
わたくしはなにも考えずに、なんとなく、片方を右耳に当てて、鏡を見ました。
こころなしか、顔がぱあっと明るくなった気がいたします。
うん、これがいい。
わたくしは、それに水色の膝丈のノースリーブワンピースを合わせ、臙脂色の革製のポシェットを手に持ち、頭にはグレーのハットを被りました。
その姿を鏡に映すと、まるで一年前のわたくしに戻ったような気分がいたします。
志良山さんが指定した喫茶店は、何度か一緒にお茶をしたことのある、お屋敷の最寄り駅のすぐ前にあるお店でした。当時、二人は正式な婚約者とはなっておらず、友達ともいえない微妙な空気の中、当たり障りのない話を途切れ途切れにしていたことを思い出します。「今度の週末はどうしていますか」「大学の友達と遊びます」「サークルの仲間とかですか?」「いえ、サークルはしていませんの」「僕はまだ卒論のテーマも決まらなくて」「お忙しいのですね」……わたくしたちは、未来の夫婦となることになんの現実感も持てず、その場その場を埋めるパズルのピースを探していたのです。
お店に入ると、既に志良山さんは来ていて、目が合うと、気まずそうに会釈しました。
わたくしが席に着くと、志良山さんは背筋を伸ばして、姿勢を正します。
「そんな他人行儀にならないでくださいな」
わたくしの言葉に、照れて破顔します。
「なにを頼みます?」
「わたくしはセイロン・ティーを」
「いつもそれでしたね」
——それでした。
「志良山さんは、ここのオリジナルブレンドでしたね」
志良山さんはまた笑顔で応えました。
ウェイトレスが来たので、それぞれ注文します。
「三週間ぶりですね。お仕事は順調ですか?」
「ええ。二ヶ月近く経ちますが、もう慣れて日常になっています。大して複雑な仕事でもありませんし」
「それはよかった。僕はあれ以降、急に忙しくなりましてね。ずっと電話しようしようとは思いながら……いえ、いいわけはよしましょう。あのときは、ほんとうにすみませんでした」
「ええ、それはわかりましたわ。こちらこそ、失礼なことをしました」
「いえ、僕が悪いんです。出過ぎた真似を……。笙子さんのことを全然考えていない行為でした」
「それはもう怒ってはいませんわ。お互いさまです」
「わかりました……それで、その……簡潔に言いますと」志良山さんは、姿勢を正して、真っ直ぐにわたくしの目を見て言いました。「これからも変わらず、僕と付き合っていただけますでしょうか」
おそらく、こういうことを言われるだろうとは思っていましたので、わたくしは用意していた返答をしました。
「それに関しては、もちろん今後もお会いしたいとは思っています。でも……」
「でも?」
「でも、お付き合いはできそうにありません」
わたくしは、俯いて言いました。志良山さんの視線を感じます。
「それは……婚約解消ということですか?」
「そうなるかもしれません」
そう言うと、しんとした沈黙が訪れました。
わたくしは俯いたままでしたが、志良山さんが文字どおり肩を落としたのがわかりました。
そこに、注文していた飲み物が届いたので、場が改まったようになりました。
志良山さんが口を開きます。
「あのときの行動はほんとうに申しわけないと思っています。もうあのようなことは絶対にしませんので、せめてお付き合いだけでも、というのは無理でしょうか?」
と早口で言いました。
「お友達として、ではいけませんか?」
「いえ、これまで決めていたように、結婚を前提にしたいのですが。それもいけませんでしょうか?」
わたくしは、しばらく黙り込みました。
「……どうなのでしょう。雄一さんのことは嫌いではありません。お友達としてのお付き合いならできます。友達としてなら、なんて偉そうなものいいですが……でも、結婚は……できるのかどうか、自信がないのです」
今度は志良山さんが黙り込んでしまいました。店内に流れるオーケストラのBGMが遠くに聞こえます。
「わたくしの意見としては、今のところ、そういうことです」
「で、でも、そもそも、僕たちだけで勝手にそういうことを決めていいのかも、わからないではないですか。いや、まあ、そこは今話すようなことじゃないかもしれないけど」
「それは、よろしいのではないでしょうか。お互い成人していますし」
「そうなのですが……」
「もちろん、お互いの家や、お父さまの会社のことも含めた利害関係については考えました。それについては、今度わたくしのお父さまや志良山さんのご両親や、皆で話し合いましょう。とりあえず、今は二人の間で話し合いたいと思うのです」
「……わかりました」
志良山さんは不承不承といった態です。
「ただ、もしそうなれば、法的には婚約破棄になるでしょう。わたくしの勝手な理由ですので。慰謝料だって発生すると思います」
「いえ、そういうことはどうでもいいんです。単に僕は、笙子さんと変わらずお付き合いしたいんです」
「思いはそれだけでしょうか」
「……はい。これまで決めていたとおり、笙子さんと結婚したい。これは僕の意思です。会社を継ぐとか、そういうことはどうでもいいんです」
「わたくしはその意思に沿うことは……。これはほんとうに申しわけないことです」
「なぜですか? やはりあの一件で?」
「そうとも言えますし、その件じたいは関係ないとも言えます」
「それはどういう意味でしょうか」
「詳しくは、いつか、お話ししたいと思います」
「そんな……。僕は納得いきませんよ。はっきり言ってもらわないと」
怒らせてしまうのではないかと危惧していたのですが、志良山さんはどちらかというと、落胆したようでした。
「雄一さんは悪くはないのです。あの件については、客観的に見れば、お付き合いしているのであれば、あってもおかしくはない行為ですし、雄一さんはそれほど気に病むことはありません。でも、別の意味でも、雄一さん自身が悪いというわけでもないのです」
「だからいったい、それはどういう……」
「今は『神さまの意地悪』とでも申しておきましょうか……」
「神さまの意地悪?」
急な言葉のせいか、志良山さんは、わけがわからない、といったふうに、わたくしの顔を見つめています。
「それは例えば、笙子さんに最近劇的な出会いがあって、その男性と熱烈な恋に落ちたとか、そういうことですか?」
わたくしは少し悩みましたが、
「いえ、違います」
と、イエス・ノーで簡潔に答えました。
「では、どうして……。いえ、もう聞くのはよしましょう。笙子さんとしては、もう付き合えないということなのですね。具体的な理由は置いておいて」
「何度も申し上げたように、雄一さんは悪くはありません」
「わかりました。理由はよくわかりませんが、それがどうであれ、僕は、少なくとも笙子さんとお付き合いを続けたいと思っている。それが僕の今の意思です。でも、それを拒絶されるのはやはり納得がいかない。いや、理由によりますがね。今度じっくりお聞かせください。それまで僕も十分考えておきます」
志良山さんはこんな場においても誠実なひとなのだと、わたくしは感心してしまうと同時に、心苦しいものがありました。
「すみません。今は、これだけしか申し上げることができませんの。話し出すと、場所的にも時間的にも足りません」
「ええ、わかりました」
「ご理解、ありがとう存じますわ。今はこれしか言えず、大変申しわけないと思っていることは事実です」
「僕は、笙子さんのことを信頼しています。そんなこと言うと、偉そうなものいいですが、これまでの付き合いの長さも伊達ではありませんし、お互いそれなりの信頼関係を築いてきたと思っています。少なくとも僕は」
——付き合いの長さ。
その言葉が、わたくしの心を抉るようです。
志良山さんは、誠意をもって今まで付き合ってきてくれました。許嫁とはいいながら、それを感じさせないように気遣ってきてくれました。最後にはわたくしのことを「好き」だと言ってくれました。
わたくしは、いちばん傷付けるかたちで、彼を裏切ってしまうかもしれない。
罪悪感と、惨めさと、虚しさで、わたくしの心は荒んでしまうようです。
「ありがとうございます」
そう返すことしかできませんでした。
志良山さんは、姿勢を正して、「うん」とだけ、独り言のように言いました。
「今日はありがとう。笙子さんはごゆっくり」
伝票を取って、ゆっくりとレジに向かっていきました。店を出るまで、こちらを振り返ることはありませんでした。
わたくしは、ポットに残っていたセイロン・ティーをカップに注ぎ、溜め息を一つ吐きました。こんな事態を作ってしまった、自分自身のばからしさに対してです。
お屋敷に帰って居間を覗くと、お父さまがソファに掛け、新聞を読んでいました。いつもは暗い北側のお部屋ですが、障子戸を開け放してあるので、柔らかな光と、乾いた風が入ってきて心地がいい。
「あれ、出てたのか。おかえり」
お父さまは、新聞からひょこっと顔を出して言いました。
「ただいま帰りました。ちょっと用事がありまして」
「そうだ。山岡がケーキを焼いたみたいだぞ。ケーキというか、マフィンだとか言ってたな」
「あら。それでは、いただこうかしら」
「よし、じゃあ、お父さんも貰おうかな」
お父さまはそう言って、キッチンに行き、二人分のマフィンを持ってきてくれました。オレンジのスライスが乗っかっただけの、シンプルなマフィンでした。
「どうだい。新社会人というものは」
お父さまは、どっこいしょと座布団に腰を下ろしました。
「問題ありませんわ。みんないいひとです」
「そうか」
会話はそこで終わりました。沈黙。
「で……最近、雄一くんと会ってるか?」
お父さまは、話題を変えます。これが聞きたかったのでしょう。わたくしの心臓は、鼓動を一つ。
「ええ。ええっと。三週間ほど前に」
三週間前といえば、遊園地に行き、レストランで食事をし、そして口づけをされた日です。
「それは知ってるよ。それ以来か。まあ、あっちも忙しいだろうしな。まだ二年目なのに、小さなチームの副リーダーを任されたとか言ってたな」
「はい。あの日だって、なんとか時間を作っていただきましたの」
「笙子は楽でいいなあ」
大きく口を開け、マフィンを頬張るお父さま。皮肉かと思いましたが、どうやらそうでもなさそうな言い方でした。
「ほんとうに。楽でよかったわ。それでね、お父さま」
「なんだ」
お父さまは、二口めをもぐもぐしながら答えました。
「……なんでもありませんわ」
言葉を止めます。志良山さんとの話は、また今度にしましょう。
「なんだ……」
お父さまは、さして興味もなさそうで、新聞に目を移します。
そこで、軒先から、一陣の風が入ってきて、テーブルの上にあった紙を一枚飛ばしました。紙は部屋を出て、廊下に落ちました。
「あっ」
拾いにいって、見てみると、それはただの紙切れではなくて、縦長の茶封筒でした。宛名を見ると、そこに書かれていたのは、
月崎信子様
お母さまの名前でした。
なぜ? なぜお母さま宛の手紙が?
お父さまが昔の手紙を引っ張り出したのでしょうか?
しかし、お母さまが亡くなったのは十年前です。それにしては、紙が新し過ぎる気がしたので、消印を確認すると、三日前の日付になっていました。
つい最近、十年前に亡くなったはずのお母さま宛に手紙が届いた?
お母さまの死を知らない方が出したのかもしれませんが、わたくしはそこに、そうではない、なにかを感じました。なぜかはわかりませんが、筆跡に込められた想いが、ふつうのそれではないように思えたのです。
不思議に思い、封筒を矯めつ眇めつしていると、
「あっ!」
お父さまが大きな声を上げました。こちらに駆け寄ってきます。
「これはちょっと」
と言って、わたくしの手からそれを、半ばぶん取るようにします。
「これは……大事な手紙なんだ」
怪しむわたくしの視線に、そう言ってから、こほん、と小さく咳払いして、すたすたと居間を出てゆきました。
確かにあれはお母さま宛の手紙でした。消印は三日前。差出人の名前は、はっきりしないにしても、目には入ったように思います。しかし、ぴんときていないことを思うと、知らないひとだったのでしょう。ぱっと見の住所に違和感を覚えなかったことからも、おそらく県内。なんせ、それを確認するかしないかの瞬間に、お父さまが声を上げたのですから、定かではありません。
わけを聞こうと思い、廊下に出ましたが、お父さまは既に二階の書斎に入ったようでした。代わりに、山岡が階段を下りてきたところに出くわしました。
「あら、お嬢さま。おかえりなさいませ。マフィンがありますよ。オレンジの」
山岡は平然と言います。平然なのは当たり前なのですが。
「知ってるわ。もういただきました。ごちそうさま。それより、お父さま」
「旦那さまがなにか」
わたくしは少し考えてから、「なんでもないわ」と言い、引き返しました。
「あっ。お嬢さま」
「なあに?」振り返って聞きます。
「いえ。夕飯はビーフシチューですから……」
山岡は、尻すぼみに、そう言葉を続けただけでした。
妙な感じがしましたが、わたくしは、お父さまの手紙の謎が気になったので、洋館の自室に戻って、一人になって考えようと思いました。
部屋に戻り、耳飾りを外して、鏡台のラックに掛けました。紫以菜から頂いた耳飾りです。金属の羽がふわっと、一度だけ揺れます。
ここのところ、わたくしには事件が多すぎるような気がしています。
新社会人としての生活が始まったことからして、わたくしの日常には大きな変化が起こったのはもちろんそうなのですが、それも落ち着きを見せ始めたころに、志良山さんとの一件です。
翌日、紫以菜と会いました。
翌週、吉村先生が急に声をかけてきて、一緒に飲むことになりました。
その日に志良山さんから、あの日以来の電話があり、話し合うことになりました。
そして、今日、話し合い、わたくしの気持ちを伝えました。お互いの気持ち、意思を確かめ合いました。
そして先ほどの一件。お母さま宛の手紙を慌てて取っていったお父さま。
いろいろなところで、いろいろなできごとがありました。それは、あちらこちら行っているうちに、なんとなくうやむやになりそうなことの数々ですが、今のわたくしには、喉に刺さった魚の骨のように気にかかることなのです。
夕食を囲む食卓の空気は、気のせいか重たいものでした。
わたくしがあの封筒に気づいたことが原因なのかはわかりませんが、お父さまの口数はいつにも増して少なく、ビーフシチューを掬うときのカチカチいう音と、ばあやの独り言だけが静かに響いています。
「脂身が多いねえ……」
「ちょっと味が濃すぎるような……」
「ワインでもあればちょうどいいかもしれないが……まあ、やめておこう」
独り言つばあや。
わたくしは、二人を見比べるようにして見てしまいます。
「笙子、ビーフシチューは嫌いだったかい?」
ばあやが言いました。
「いえ。美味しい。美味しいですわ」
取り繕うわたくしでしたが、ばあやは気にしていないようでした。
手紙の話題は出すべきなのでしょうか。わたくしは、ずっとそのことを考えていました。
「お父さま」
一度、声に出しますが、そのときのお父さまの目は泳いでいるようで、わたくしは直感的に、今はよそうと思ってしまいました。
それでも気になります。
お父さま
と喉まで出かかって、思い直してやめることを数回繰り返しているうちに、お父さまは食事を終えられ、ごちそうさまも言わずに、そそくさと二階へ上がってゆかれました。
ばあやも食事を終え、出てゆきました。
わたくしは、一人でビーフシチューを掬っています。食べ始めてから、ほとんど減っていません。
お父さまとばあやの食器を片付けに、山岡が厨房から出てきました。
「ねえ、山岡」
そう声をかけずにはいられませんでした。
「はい、お嬢さま」
「お母さま宛の郵便物が届いていたようだけど」
単刀直入に言いました。郵便物を受け取って、仕分けするのは山岡の役目です。山岡はあの茶封筒を見たはずです。もちろん、あの世のお母さまには渡せませんから、お父さまに渡したでしょう。それをわたくしは、帰宅後に見つけたのです。
「ああ……あれ」
山岡は曖昧に頷きました。しかし、目は、はっきりとなにかを見ている目でした。
「あの手紙。気になったんだけど、だれからだったの?」
「あれは……」
山岡は、わたくしのすぐそばまで忍び歩くようにして寄ってきて、
「あれは、奥さま……お母さまの恋人からのお手紙なんです」
と耳打ちしました。
「はあ?」
お母さまの恋人から?
わたくしは、次の言葉が続きませんでした。
「あの手紙が来たとき、山岡は、近いうちにお嬢さまに全てをお伝えしようと思いました。いつがいいかとは考えていたのですが、見てしまったのなら仕方ありません」
「なに、どういうこと……?」
わたくしはそれしか言うことができません。
山岡は、ふう、と息を一つ吐いて、
「申し上げます。あの封筒には、奥さまへの愛を綴った手紙と、その方の死を知らせる短い文が書かれた便箋が一枚入っていました。遺品の中にその手紙を見つけたご両親が送ってくださったのです。そして、その恋人は、女性です」
わたくしは、もう言葉が出なくなってしまいました。
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