十五. うそ、うそ、うそ

 連休が明けてからのわたくしの日常は、そっけないほど以前とは変わらず、生徒に本を貸し出し、その本の返却を受け、たまにリファレンス業務をし、図書館利用授業の指導を行うばかりの日々でした。

 家に帰れば、お父さまとばあやと、たまに山岡と一緒に食事をとり、部屋に戻って読書をするくらいの余裕は生まれましたが、まだまだ、とれない疲労にもやもやとする日々が続いています。

 吉ヶ池先生とは、廊下で会ったときに軽く世間話をするようになっていて、米田さん以外に話し相手のいなかったわたくしの仕事生活に、少しばかり潤いが生まれました。

 その吉ヶ池先生が放課後、終業間際の図書室にやってきました。

「噂でお聞きしたのですが、許嫁がいらっしゃるとか」

 貸し出しカウンターの前に立ったと思ったら、出し抜けにそう言うので、わたくしは慌てて周りを見渡しました。幸い、だれも聞いているようではありませんでした。しかし、吉ヶ池先生はそんなことを言うひとだとは。このひとの予測不可能性にはむしろ興味深さを覚えます。

「しっ——。ちょっとそういう話は、ここでは困りますわ」

「では、どこでならよろしいのでしょう」

「いえ、どこもなにも……」

 まごついてしまいます。

「わたしは今日は残業もありませんから、このあと一杯どうです?」

 吉ヶ池先生は、お猪口を口元に当てる仕草をしまた。


 場所は、学校から最寄駅に向かう途中にある小料理屋で、カウンター席が十席ほどあるだけの、落ち着いた雰囲気のお店でした。行きつけのようです。

 金曜の夜六時、客席はスーツ姿のおじさま方で半分ほど埋まっていました。

「いらっしゃい! おっ、先生、今日は二人で?」

 入店早々、大将と思しき、割烹着を着た中年男性に声をかけられました。

「はい。同僚なんです」

 わたくしは、ぺこりを頭を下げます。

「珍しいね。お友達がいたんですね」

 大将の冗談を、吉ヶ池先生は鼻で笑っただけで、「いつもの、冷やで」と言いました。

「わたくしは、ノンアルコールビールで……」

 恐る恐る言いましたが、吉ヶ池先生は変な顔もせずに、わたくしに席を勧めました。

「先生、日本酒も飲まれるのですね」

「はい。場所には場所のお酒がありますから」

「あの、料理は……」

「お好きなものを頼んでください。多分、わたしはいつもお任せで、適当に出てきますから、一緒につまんでもいいですし」

「なるほど。かなりの常連なのですね」

 吉ヶ池先生はすました顔で、お手拭きで手を拭いています。

「お仕事は慣れましたか?」

「ええ。少しは余裕が出てきたと思います。まだこれといったトラブルはありませんし」

「わたしはまだまだ、慌てふためいていますよ」先生は自嘲するように言いました。「新任早々、副担任を任されたんですがね、一人問題児がいて、一昨日の夜遅くに電話で起こされました。補導されたって」

「まあ……それはお気の毒ですわ」

「万引きです。世間ではよくある話ですけど、いざ自分が関わってみると、流石に慌ててしまいます。親御さんより慌ててたかも」

「吉ヶ池先生も慌てるのですね」

 彼女のクールなイメージからは、慌てている姿が想像できません。

「こう見えて新社会人ですからね」冗談っぽく言いました。「でも、教師がこんな大変だとは思いませんでした。これくらいで大変だなんて言っているようじゃ、だめなんでしょうが」

「それに比べて、わたくしは、楽な仕事だと思いますわ」

「そんなことはないでしょう。わたし、月崎さんのしてらっしゃるような仕事は、案外性に合わないんです。文化系に見られますし、自分でもそう見られているだろうなとは想像できますが、じっと座っているだけの仕事って向いてないんですよね」

「わたくしには、そう見えますわ。その、じっと座っていられないひとのように」

 ほんとうにそう思います。

「そうかしら。そう言うひとは初めてだわ」

「ええ。静かに見えて、腹の底になにか、燃えるものを抱えてらっしゃるように見えます」

「月崎さんって、意外とそういう目をもってるのですね」

 そう言われて、わたくしは照れてしまいました。

「すみません、出過ぎた真似を……」

「いいのですよ。そういうひと、わたしは好きですよ」

「まあ。お恥ずかしいわ」

 再度照れるわたくしを見て、先生は、うふふ、と上品に笑っていました。

「でも、そちらのお仕事はどうなのです? 米田さんとはうまくいってますか?」

「ええ。いい方ですわ。穏やかで、人当たりがよくて、上司がああいう方でよかったと思っています」

「そうなのね。わたし、あのひとのこと、よくわからないけど、けっこう面白そうだと思ってるの。なんだか、マイナーな文芸誌の編集長みたいな顔して」

「まあ!」

 わたくしは大きな声を上げて、あはは、と笑ってしまいました。吉ヶ池先生はびっくりしています。

「そんな面白いこと言いました?」

「いえいえ。失礼しましたわ。実は、わたくしも全く同じことを思っていたものですから。その、マイナーな文芸誌の編集長みたいって」

 そう言ってもう一度笑うと、今度は吉ヶ池先生も「でしょ〜?」と、わたくしを目を合わせて笑います。

 そのような当たり障りのない話を、運ばれてきた料理を突きながら、しばらく続けていました。鰆の天麩羅や、鰯、エンドウ、ジャガイモなどを煮付けた物など、旬の魚や野菜の数々です。

 しかし、吉ヶ池先生は、図書室での会話の続きをしたくてうずうずしているのが、なんとなく伝わってきます。話しながらも、この話を早く終えたい、とでもいうような、落ち着きのなさが見られるのです。

「でね、月崎さん」

 切り出したのは、日本酒が一合ほど進んだころあいでした。

「はい」

「許嫁って、どんな気分なんですか?」

 至って真面目な表情をしています。

「き、気分ですか?」わたくしは迷いましたが、「気分は……よくありませんわ」と言い切りました。

「でしょうね。そちらの事情はわかりませんが、気分はよくないと思います。でも、その人のことは好きなのですか?」

「いえ……」

「おや。これは困った。まだお若いのに、恋愛もせずにもうすぐ結婚だなんて、可哀想だわ」

「よ、吉ヶ池先生も同い年ではありませんか!」

 わたくしが突っ込むと、先生は愉快な顔をして笑いました。

「いやいや、すみませんね。決してからかっているわけではないのですよ。実はね、わたしと境遇が似ているな〜と思いましてね」

「はい? 吉ヶ池先生も許嫁が?」

「いえいえ。わたしは月崎さんみたいな、育ちのいいお嬢さんではありませんよ。でもね、就職早々、親から見合いの話を持ち出されて、困ってるんです」

「そういうことでしたか」

 同じ悩みを共有できるのかと期待したのですが、よくある話ではないですか。

「ええ。しかし、わたしも月崎さんも、まだ二十二歳ですよ。これからもっと自由に生きたいところではないですか」

「まあ、そうですわね……」

 わたくしは、自由に生きたいとも、生きたくないとも、思ったことはありませんでした。

「わたしは、もう少し頑張りたいですよ」

「なにをですか?」

「なにをって……青春?」

「まだ二十二歳ですしね。頑張りたいですか」

「はい。わたしはね」

 気づけば、頬を赤らめています。

「わたくしは、青春なんて無縁の十代でしたわよ」

「そうでしょうね。月崎さんについて聞いている話などから判断するに、恋にかまけているような十代でもなさそうですし」

 失礼なことを言うひとだと思いましたが、場の空気に合ったものいいで、不思議とむかっときたりはしませんでした。

「親の持ってきたお見合い写真を見てもね、こんなの他人じゃないですか。他人ですよ」

「当たり前ではないですか。会ったこともないのでしょう?」

「もちろん。でもなんか、こう、このひとは自分には関係ない、外の世界のひとだって、直感的に思うんです。二人の間の糸電話の糸は切れてるように思うんだ」

「だれでもはじめはそうなのではないですか?」

 わたくしは、いつかの歓迎会の帰りに大田先生が語ってくれた、地球と月の話を思い出しました。

「まあ、そうだろうけど。でも、女としての直感ってものがあるじゃないですか。直感ですよ。わたしはそれで生きてきましたから」

「まあ、素敵ですわ。わたくしなんて、ぐるぐると考えすぎてしまうひとですから」

「いえ。素敵なものでもありません」吉ヶ池先生は、目を伏せて、鰯とエンドウの煮付けを箸で突きながら言いました。「そのせいで、苦労続きです」

「苦労ですか。直感で生きていると苦労しますか?」

「しますします。直感というか主観ですな。己の感覚だけで判断していると、ろくなことがありません。現に教師なんてわたしは向いてなかったわけですよ」

「まだ始まって二ヶ月も経っていないではありませんか」

「もうわかるね。親には、あんたに教師なんて仕事ができるわけないじゃないか、って散々言われましたけど、わたしは聞き入れなかった。やっぱり、大事なことほど周りの意見を聞いたほうがいいんじゃないかって、今は思ったりして。心が折れそうなんです」

「決めつけるのは早いですわ。これから努力次第で、なんとかなります」

 無責任かとは思いながら、励ましの言葉をかけたくなりました。

「ありがとう。でも、お見合いはなあ……」

「やはり、嫌なんですか?」

「ええ、月崎さんと同じく、気分は悪いです。はっきり言って」

「でも、その判断は正しいと思います。ほんとうに、ほんとうに大事なことほど、自分の感覚を大切にすべきです」

「ありがとう。まあ、親がどう言うか。けっこう、あっち本気だから」

「それは、なんとかするしかないですわね」

「それにわたし、彼女がいるんですよ」

 吉ヶ池先生はそう言って、お猪口の残りをくいっと飲み干してから、追加の日本酒を頼みました。

 わたくしはしばらく、ぽかんとしていましたが、あまり唖然とし過ぎるのも失礼かと思い、

「なるほど。そうですか。なるほどなるほど」

 と、意味のない言葉を繰り返していました。

「わたしが女なのに、『彼女』っておかしいって思いましたよね。それがふつうだと思います」

 吉ヶ池先生は、また煮付けを転がしています。

「いえ、おかしいとか変だとかは思いませんわ! ただ、いきなりだったものですから……」

「いえ。いいんです。わたしはこういうことは、信頼できる相手になら、わりとすぐ打ち明けるんです。もちろん、そういう流れになったら、の話ですが」

「いえいえ、畏れ多いですわ」

 わたくしが信頼できる相手だなんて言われて、正直戸惑いを覚えます。

「今日の場合は、流れになった、なんて言い方は適切ではないかもしれませんね。自分から飲みに誘っといて、ほぼ自分から話し出しておいて」

「でも、わたくしは……なぜ、わたくしなのですか?」

「月崎さんは大丈夫。経験上わかります。新任同士仲もよくなったし」

「はあ……なるほど」

「まあ、言ってしまえば、そういうことですよ。だから、結婚なんて無理なんです。男とは、ね」

 そこで追加の一合瓶が運ばれてきました。わたくしがお酌しようとすると、手で止められ、手酌していました。わたくしは黙って続きを聞こうとしています。

「彼女はね、大学のときに知り合ったんです。同じ大学に通ってるんじゃないんですが、大学生限定の、そういうひとが集まるコンパがあったんです。そういうひと、ね」

「はあ……」

「そういう集まりって、実はこの世界にはよくあるんですよ」

「知りませんでしたわ」

「わたし、学生のころは、超が付くほど引っ込み思案でして。今でも他人よりはそういう傾向がありますが、現にこうして、月崎さんを飲みに誘うくらいには社交的になったんですよ。これでも、頑張ったほうなんですよ?」

「そうでしたか」

「でね、そういう集まりを知って、数週間迷いに迷って、締め切り前日に、清水の舞台から飛び下りるつもりで参加希望のメールを送ったんです。今でも覚えてますが、送信ボタンを押すときは、手のひらには汗びっちょりでした」

 吉ヶ池先生はそう言って、お猪口を口に運びました。

「コンパ当日。それは忘れもしない、夏休みのある一日でした。エアコンの壊れたアパートの部屋で、緊張のせいもあってか、日中、ずっと汗だくになりながら、じっとしてたのを覚えてます」

「で、そこで出会われたと」

「まあ、わたしのひと目惚れですね」

「直感ですか」

「そうそう、まさに。ドタイプだったわけです。でも、話しかける勇気もなくて、ワイン片手にうろうろしてました。あ、立食パーティーだったので、所在なさ気になってたんです。そしたら、こちらの視線を感じたのか、彼女がこちらを見て……そのとき、目が合ったんです!」

 急に大きな声を出したので、周りのお客さまがこちらを振り向きましたが、すぐに元の雰囲気に戻りました。

「失礼。で、恐る恐る近付いたんです。はじめまして、と言って」

「おお。すごいではないですか」

「ええ。でも、なにを話せばいいかわからず、まごついていたのですが、彼女はすごく落ち着いたひとだったので、優しく会話をリードしてくれて。『こういう会は初めて?』とか、『その服可愛いですね』とか言ってくれて、舞い上がっちゃって。彼女はわたしの一つ上なんですがね。そのあとはずっと二人で話してました。はじめは緊張していましたが、気がついたら、わたしたち、ごく自然と会話してて、お互いリラックスしてるのがわかるんです。初対面のひととそんなすぐにリラックスできるなんて、それまで経験したことがなくて、自分でも驚きました。あとで聞いたら、彼女もそうだったらしいです」

「素敵なことだと思います。わたくしにはそういう経験は……」

 素直にそう思いました。

「ありがとうございます。忘れられない体験でした」

「それで、先生は変わられたのですね。それが、ブレイクスルーとなって」

「そうかもしれませんね。それで今に至るってわけです。かれこれ二年近くになりますか」

 そう言って、ふう、と息を一つ吐きました。気のせいか、にやついているようにも見えます。

「でも、話し過ぎちゃったな。でも、話したかったんですよ。話したくてうずうずしてた。ストレスもあるんでしょうね」

「わたくしでよろしければ、いつでもお聞きしますよ」

「ほんとう? ありがとう。新任仲間が月崎さんでほんとうによかった」

 吉ヶ池先生は今日いちばんの笑顔を見せました。

 そのあとは、事実上の惚気話に終始し、お酒も進みました。

 わたくしはずっと聞いているだけでしたが、こちらも心の底がぽかぽかとするような気持ちになりました。

 店を出て、同じ電車に乗って帰り、降りてからも、その暖かい気持ちは熾火のように、わたくしの心を暖めてくれていました。

 ふとスマホが気になってバッグから出して見てみると、着信が二件入っていました。

 どちらも志良山さんからでした。

 熾火となって残っていた暖かさは、さっと水をかけられ、煙を立てて消えてしまいました。

 わたくしは額に手を当て、しばし立ち竦んでいました。


 わたくしのほうから連絡を全くしていなかったのも考えものですが、半ばできなかった、半ばすべきでないと思っていたのです。怒りも反感も呆れもありましたが、ただ考えないように過ごしてきました。

 お屋敷に帰って、シャワーを浴びてから部屋に戻ったわたくしは、しばらくスマホを睨みながら、こちらからかけ直そうかどうかと逡巡していました。すると、いきなり大きな音で着信音が鳴ったので、

 きゃっ!

 わたくしはびっくりして、スマホを投げ出してしまいました。拾って、表示を見ると、

〈志良山雄一〉

 と表示されています。

 ふう、とゆっくり息を吐いて、応答ボタンをタップしました。

『もしもし、笙子さん?』

 すぐに志良山さんの声が耳元に響きます。

『はい』

『夜分遅くにすみません』

 時計を見ると、夜の十時になっていました。

『いえ、いいんです。わたくしも、今かけ直そうとしていたところでした』

『なんの話かはわかるとは思うのですが……先日は、ほんとうに申しわけありませんでした』

 志良山さんは語尾を強めて言いました。

 思えば、例の一件から、十日ほど経っています。

『わたくしは大丈夫です。こちらこそ、大変失礼なことをしてしまったと、申しわけなく思っているのです』

『いえ、悪いのはこちらです。なんというか、思い上がったことをしてしまいました。重ねて謝罪します。すみませんでした。また、謝罪が遅くなってしまい、申しわけありません』

『…………』

 なんと返せばいいか、わかりませんでした。謝り返すのも違う気がします。

『許してもらおうとは思いません。とりあえず謝罪だけはしたくて』

『謝罪は十分わかりましたわ。ほんとうにこちらこそ、どうしようかと、ぐるぐると考えていたのです』

『とりあえず、今度、直接会ってお話ししませんか?』

『……はい』

 少し迷いましたが、そう答えました。

『よかった。では今度の日曜はお仕事はお休みですか? 場所はそちらの駅前の喫茶店で』

『ええ。よろしいですわ。わたくしもお話ししたいと思っていたのです』

 また同じような事態が起こるのではないかと危惧しましたが、さすがにそれはないだろうと思い直し、承諾しました。

『ありがとうございます。ああ、でも話ができてよかった。ほっとしましたよ』

 電話口でも、ほんとうにほっとしているのが伝わってくる口調でした。

『こちらもお話ができてよかったですわ』

『はい。では、日曜の午後三時で、大丈夫ですか?』

『ええ、大丈夫ですわ。よろしくお願いします』

『こちらこそ、よろしくお願いします。失礼します』

 電話はあちらから切られました。

 ずいぶんと他人行儀になって、初対面のときを思い出すようでした。

 わたくしは、一気に不安と緊張で体が満たされるような心地になりました。

 手帳の次の日曜のページに、〈志良山さん〉と書き込むと、また一層体が重くなった気がいたします。


 ——シーナは笙子にしあわせになってほしい。

 紫以菜の言葉を思い出し、それはなんと残酷な言葉なんだろうと、今になって思います。この状況で、それはどこか、突き放すようにも、ひとごとのようにも響きます。それでも、わたくしのことを「好き」だとは言ってくれました。

 しかし、わたくしは、しあわせになりたいと思ったことがあるでしょうか。

 結婚? それは、しあわせ?

 この短い人生の中で、それがほんとうなのか、ほんとうでないのか、まだはっきりとはいい切ることができません。もしかしたら、志良山さんと結婚すれば、年月を重ねるにつれて「しあわせ」になるのかもしれません。そうなる保証があるわけではないけれど、慣れというものもあるかもしれませんし。

 考えようによっては、それでわたくしは「しあわせ」になるのかもしれない。

 わたくしは、許嫁というかたちではあるけれど、志良山さんという方と結婚して、子供を産み、母になる。志良山さんは、月崎に苗字が変わって、お父さまの会社を継ぎ、会社は成長を遂げる。わたくしが産んだ子供が男の子だったら、その子はさらに会社を継ぎ、またまた会社は大きくなる。それに貢献できたわたくしは、月崎家の成長の物語の一つのピースとなって、小さいながらも家族史に名を残す。

 志良山さんという方はとてもいいひとで、仕事はばりばりこなすし、家庭でもいい父親。たまにけんかはするけれど、わたくしとも順調に愛を育て、二人め、三人めの子供ができるかもしれない。たまに家族旅行に出かけるかもしれない。そこで思い出を作り、月崎家のアルバムは、笑顔とときどき膨れっ面の子供達の写真でいっぱいになる。

 わたくしはときに耐え、ときに無理をしながらも、子供たちの成長を見守り、その子たちが独立してからも、志良山さんとは仲睦まじく穏やかな日々を過ごす。病めるときも、健やかなるときも。

 ああ、わたくしはしあわせな人生を送ることができました。

 人並みの苦労と、人並みの喜びを享受し、なんやかんやありましたが、わたくしはしあわせでした。

 ——うそ、うそ、うそ!

 しあわせがなんなのか、そんなこと全然わかりませんが、それがわたくしにとってうそだということが、今はわかります。

 確かにそれは、世間一般でいわれている「しあわせ」でしょう。多くの女性が憧れ、多くの女性が努力して手に入れ、それを享受してきたことでしょう。でも、それはわたくしが着る服ではありません。

 わたくしは、「ふつう」ではないのですから。

 もっと取り返しのつかないことになる前に、わたくしは、なにか手を打ちたいと思うようになっています。

 ほんとうに取り返しのつかないことになる前に。

 そうなってしまうと、偽った自分がいつか、周りから見た「ほんとう」になってしまって、わたくしは、その「ほんとう」を演じるしかなくなってしまう。そして、ほんとうのことをだれにも言えなくなってしまうのです。わたくしが、わたくしを偽っていることは、わたくし以外に知るひとはおらず、ほんとうの自分を曝け出す相手は、だれひとりとして、いなくなってしまう。

 今わたくしが、うそ偽りのない自分を曝け出せる相手。これからも曝け出したいと思える相手。

 わたくしの手は、自然とスマホに伸びてアプリを開き、紫以菜へのメッセージを打ち始めました。

〈今度、志良山さんと会うことになった〉

 しばらくしてきた紫以菜からの返信は、

〈待ってる〉

 というものでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る