十四. 目覚め

 翌朝、わたくしは激しい後悔の念とともに目覚めました。

 昨夜わたくしは、志良山さんの口づけを拒否して逃げ出して、お屋敷に帰ってから、シャワーも浴びず、化粧も落とさずに、ベッドに潜り込みました。唇に残る志良山さんの感触がいつまで経っても消えないようで、リップだけは落としましたが、それでもその名残がある気がしてなりませんでした。

 一夜明けた今も、その動物的な肉感があるような気もします。手の甲で拭ってみても、それはむしろリアルに感じられるようで、わたくしは努めて気にするのをやめました。

 ベッド正面の鏡台に映ったわたくしは、無残で可哀な顔をしています。それなのに、窓の外は悲しいほどお天気です。

 スマホの着信履歴を見ると、志良山さんからの着信は、昨夜十一時ごろを最後に途絶えています。留守電もありません。少しほっとすると同時に、紫以菜からのメッセージに返信していないことに気づきました。〈笙子にもらったこうちゃ、おいし〜〉という文とともにある、紫以菜の自撮り写真を見て、わたくしの頬は自然と緩みました。少しだけ現実を忘れて、見失っていたわたくしに気づかせてくれるようです。

 それでも、昨夜の失態は消えるわけではありません。むしろ、時が経つほどに、ことの重大さを増しているような気もします。

 わたくしは志良山さんの口づけを、文字どおり体で跳ね除けました。志良山さんとして、どのような意図だったのかはわかりません。考えても、それは男性の傲慢のようにも、自信過剰のようにも思えます。

 ああいう場で、わたくしはどういう反応をするべきだったのでしょう? 受け入れて抱きしめる? 冗談ぽく恥じらう? 母親のように怒ってみせる? いえ、そうしている自分が思い浮かびません。

 しかし、志良山さんはそれほど気持ちの悪いひとでしょうか。少なくとも、ひととして受け付けないという方ではありません。清潔感はありますし、立ち振る舞いも好青年です。女として、そのような方からの口づけを、やはり拒否すべきではなかったのでしょうか。

 いえ、女として、すべき、などという一般論はやめましょう。わたくしは、拒否したのです。咄嗟のできごとで体が勝手に動いたという事実を、わたくしは受け入れようと思います。

 しかし、だからこその後悔の念なのです。わたくしの将来、志良山さんの将来、月崎家の将来を考えて、理性を働かせて要領よく動くべきでした。まだ全てが終わりになったわけではないとは思いながら、それでも、あと味の悪さを抱えて、朝を迎えたのでした。

 とりあえず、気の向くことからと思い、紫以菜に返信しようと思ってアプリを開くと、文字を打っている最中に、紫以菜からのメッセージが届きました。すぐに既読がついたので、驚いたかしら?

〈おはよ〜。今日は休み? 遊びにいってもいい?〉

 サングラスをかけた顔の絵文字も添えられていました。

〈もちろんですわ! お待ちしています〉

 わたくしは、すかさず返信しました。

 今日が休日でほんとうによかった。このまま仕事に出るなんて、考えられません。

 もう一度、鏡台に映った自分の顔を見ると、少しは生気を取り戻しているようにも見えました。


「笙子、やっほ!」

 紫以菜がお屋敷に来たのは、お昼前。お部屋をあらかた片付けてからすぐでした。

 ひらひらの付いた白のチュニックに、黒のパンツを履いた紫以菜は、黒髪のせいか、かなり大人びて見えました。そのことを言うと、

「中学生ですから」

 とひとこと。そのさり気なさに、少しどきっとしてしまった自分がいます。

「でも笙子、ほんと久しぶりだね。三月にカレー屋さん行って以来だね」

 いつか紫以菜とカレー屋さん巡りをしようと話して以来、わたくしの学業と就職の準備が忙しかったこともあって、それが実現したのは三月の最後の日曜日のことでした。

「久しぶりですわね。わたくしの部屋に入るのは、もっとではないですか?」

「そうだね。ずっと前な気がする。ひっさびっさの〜笙子の部屋!」

 紫以菜は体をくねらせて、わざとらしく喜んでみせて、籐椅子に腰掛けました。

 部屋に散らかっていた洋服や化粧品は、紫以菜が来ることがわかってから、あらかた片付けてあったので、いつもどおりのわたくしの部屋です。

「あ、笙子、紅茶ありがとね。すっごくおいしかった」

 籐椅子に座り、足をばたばたさせながら言いました。

「あら、そう? あれは月崎家ではよく使う茶葉ですの。いつだったか、紫以菜が興味深そうに見てらしたので、渡したんですの。お気に召して?」

「うん! あんな香りのいい紅茶、シーナ初めて。笙子はいつもあんなおいしいのを飲んでるんだ。やっぱすごいな〜」

 先月の二十日が紫以菜の誕生日でしたが、仕事、その他諸々のせいで、肉体的にも精神的にも、お誕生日会をやる余裕もなく、せめてそのプレゼントにと、茶葉をお渡ししたのでした。

「お父さまの知り合いで、世界各国から茶葉を輸入販売している会社をやってらっしゃる方がいましてね。あれはインドの物ですのよ。あの品種は、どこかチョコレートのような香りがありましたでしょう?」

「う〜ん。よくわかんないけど、シーナはお花みたいだなって思った」

「確かにフローラルな品種ではありますが、その香りじたいは珍しいものではありません。淹れ方にもよるのかもしれませんがね」

「まあ、難しいことはよくわかんないけど、また飲んでみるね。ありがと」

 白い歯を見せて笑います。

「紫以菜は連休中どうしていたのですか? お父さまとどこかに行きましたか?」

「ど〜こも行ってない。お父さん、フリーランスだから、別にお休みは関係ないし。お父さんの実家もお婆ちゃんがいるだけだけど、そのお婆ちゃんはまだ入院中だしね。だから、お見舞いに行ったくらいかな」

「そうですの。案外、どこもそういうものなのでしょうね」

「あとは、お母さんが会いにきた。一年ぶりだったな。シーナの背が大きくなったことに驚いてたなあ。ちょっと話して、すぐ帰っちゃったけどね。笙子は? どこか行ったの?」

「いいえ。わたくしの家は特にどこかに行ったりはしません。むしろ、毎年叔父さま一家がいらっしゃるのです。従姉妹とも久々にお会いできて嬉しかったですわ」

「病弱でなかなか会えない子?」

「そうです」

「そっかー。じゃあ、どこも行ってないんだね」

「そうですね。どこにも……」と言いかけて、昨日、志良山さんと遊園地に行ったことに思い当たり、思わず「あっ」と発してしまいました。

 すると、紫以菜はすかさず、

「おや? さてはどこかに行きましたな?」

 わたくしは狼狽えてしまいました。さらに畳み掛けるように、

「さては、デートですな?」

「そ! そんな!」と言いかけて、「……そうです」白状してしまいました。

 秘密にするのも逆に怪しいでしょう。いえ、実際怪しいのですが。

「やっぱり。笙子、いつも返信速いのに、ずっとなかったから」

「ごめんなさい」

 あのメッセージに救われる思いをしたことは、流石に言いません。

「順調そうでいいじゃん。シーナは応援してるよ」

 さらっと言ってみせますが、それがわたくしにとっては、この上ない残酷な言葉に思えるのです。わたくしは、照れとも恥じらいともとられるような表情で応えました。

「シーナは、笙子にはしあわせになってほしい。できるだけ協力したい。だから、なんでも言ってね。恋愛経験なんて全くもってないけどね」

 笑って言いました。紫以菜の好意は、ほんとうはありがたいことなのでしょうが、どうしてこんなに胸が苦しくなるのでしょう。今にも「違うの!」と叫び出してしまいそうです。

「ありがとう」

 笑顔で答えたつもりですが、もしかしたら、苦々しい顔をしていたかもしれません。

「でも紫以菜……」

「なあに?」

「わたくしが、その結婚を望んでいないとしたら、どう思います?」

 わたくしはおずおずと聞きました。

 紫以菜は、ぽかんとしています。

「望んでいないとしたら?」

 わたくしの言葉を繰り返しました。

「もし、もし仮にですよ」

「仮に……? 仮にって言われても。そんなこと聞いてどうすんさ?」

「紫以菜はわたくしの大切なひとです。もし、わたくしにそういう難しい事態が起こったら、どう思うのかしらと、気になりまして」

 紫以菜は、ごくり、と唾を飲み込みました。

「シーナは……さっき言ったように、笙子にはしあわせになってほしい。だから……そういう場合は……どうするんだろう? てへっ」

 わたくしは肩を落としました。紫以菜にいったいなにを聞こうとしているのでしょう。なにを聞き出したいのでしょう。

「笙子」

 紫以菜が小さな声で聞きました。

「笙子は……結婚したくないの?」

「紫以菜。聞いてくれますか?」

「うん。シーナがわかるような話じゃなさそうだけど、聞くよ。話してごらん」

 わたくしは、昨日の遊園地デートのこと、そのあとのレストランでの食事のこと、そしてそのあとの車での口づけのことを、包み隠さず話していました。

 ひととおり聞いた紫以菜は、ふう、と一つ息を吐いて、

「で、笙子はどうしたいの?」

 と聞きました。

「どう、と申しますと」

「今話してくれたのは、いわば、きゃっかん的事実だよね。こんなことがありました。小学校の絵日記と一緒じゃん。いや、絵日記でも感想を書けって言われるよ」

「絵日記ですか……」

「そう。笙子はそれをどう思ったの? つまり、その、キス? のことを」

「どう思ったのか……」

「うん。嫌だった?」

「……嫌でした。なにか……怖かったです」

 わたくしは白状しました。

「そう。じゃあ、そのひとのことは好きなの? 嫌いなの?」

 考えないようにしてきたことをずばり聞かれてしまい、わたくしの心臓がドクンと一つ大きな鼓動を打ちました。

「好き……。好きってなんなのでしょうか」

「そんなこと聞かれてもわからないよ。シーナは笙子の半分しか生きてないんだよ。でも結婚って、好きなひととするもんなんじゃないの?」

「そうなのでしょうね」

「そうなのでしょう、じゃなくてさ、笙子はどうしたいのさ?」

 わたくしはしばらく考え込みました。紫以菜の視線をずっと感じます。

「わたくしは……結婚したくありません」

 それを聞いて紫以菜は、ほっと胸を撫で下ろしたようでした。

「よかった」

「よかった? よかったのかしら?」

「うん。笙子がどうしたいのか、聞けてよかった。笙子が心の中でどう思っているのか、きちんと確かめられてよかった」

「それはどういう……」

「これでひとつ安心だ」

「いえ、でも、わたくしは望まない結婚をさせられようとしてるのですよ?」

「それは問題だけど、その問題をどう解決すればいいのか、笙子の気持ちを確かめることで、ひとつ糸口になるでしょ? そういうこと」

「それはそうなのですが」

 確かにそうではありますが。

「現に今さっき、『望まない結婚』って言ったでしょ? それは大問題だけど、笙子はそれを『望まない』ってはっきり言ったじゃん。今までそのひと、志良山さんっていうひとのことを聞いても、笙子がいったいどう思っているのか、いまいちよくわかんなくって、焦ったかった。でも今、はっきりと言った」

「そうですわね」

 わたくしは今までずっと、許嫁との結婚と、その未来について抱えていた不安を見ないようにしてきました。月崎家のためなどとしかつめらしいことをいい聞かせて、無理矢理周りの敷いたレールに乗るように努めてきました。でも、それが自分の意思とはそぐわないことを、たった一人ではありますが、いや、いちばん大切な一人に伝えることができました。

「笙子がどうしたいのか、今はわからなくても、シーナはずっと側にいるし、話を聞いたりできるよ。笙子が望まない結婚をすることについて、それをどうもっていきたいのか。一緒に考える」

 紫以菜はそう言って、右手を差し出しました。籐椅子が、ぐらり、とこちらに傾きました。わたくしも右手を差し出して、柔らかく握手を交わしました。

「ありがとう。わたくし、考えてみますわ」

 紫以菜は笑みを浮かべています。

「紫以菜」

「なあに?」

 わたくしは、両手で紫以菜の手をぎゅっと握りました。力を込めて、わたくしの想いに気づいてほしいとでもいうように。

「どうしよう……不安なのです」

「うん」

 紫以菜も、両手でわたくしの両手を握りました。

「紫以菜。わたくしたち、一緒になれないかしら?」

 わたくしは、思わず、そんな言葉を口にしてしまいました。

 紫以菜は、はっと目を見開いて、わたくしの目を見つめました。

 言ってしまった。

 しばし、沈黙が続きました。砂漠の中に一人残されたようで、一瞬のようにも永遠のようにも感じられる沈黙でした。

 そして、紫以菜は籐椅子から降り、わたくしと同じ目線に座りました。両手は握り合ったままです。

「笙子。シーナ、笙子のこと、ほんとに大事に思ってる」

「はい」わたくしは、息を呑みながら、次の言葉を待ちました。

「そして、笙子のことを大事に思う、そういうシーナの気持ちも大事に思ってるんだ。これって、ほんとにすごいことなんだよ」

「ほんとにすごいこと……」

「だから、今、笙子が自分の気持ちに少しは正直になってくれたことが嬉しい。笙子が不安だったことを知れて嬉しい。結果がどうなるかはわからないけど、それも全部含めて笙子だし、迷わなくっていいと思う」

 紫以菜は、握り合った手を自分の胸に引き寄せました。

「ねえ、笙子。こんな子供に言われるのもしゃくかもしれないけど、子供だから言えることもあると思うの。シーナ、中学に上がって、なんというか、子供と大人のあいだみたいな時期だけど、自分の人生についてよく考えるようになったんだ。

 そしたら、笙子のことも真剣に考えるようになった。

 笙子、確か今、二十二歳だったな。今のシーナくらいの歳のときはどうしてただろう。どんなことを楽しんでたんだろう。または、どんなことに悩んでたんだろう。そういう楽しいこと、苦しいことを、どんなひとと分かち合ってたんだろうって。それから、笙子のこの先にいったい、なにがあるんだろう? シーナには? って。」

 紫以菜は、握っていたわたくしの両手をほどいて、下ろしました。

「紫以菜。そんなことを考えていたの……」

 それは驚きであると同時に、大きな喜びでもありました。

「わたくしも、もちろん、紫以菜のことは大切ですわ。だから、紫以菜がそんなふうに思ってくれていたと知って、すごく嬉しい」

「笙子はシーナが好きなんだね? シーナも好きだよ」

 その言葉に、わたくしははっとしました。

「ええ、紫以菜が好き。好きなの!」

「うん。でもね、今笙子が考えるべきことは、シーナじゃない。こんなこと言って、混乱させるようだけど、笙子がシーナのことを大事に思うんだったら、笙子の今の状況をしっかり考えて。答えを出して」

「答え……ですか?」

「そう」紫以菜は、正座に座り直して言いました。「シーナなんかが、笙子の人生に答えなんてあげられない。シーナは、笙子が大事だからこそ、笙子に答えを出してもらいたいの。だから、考えて。そして行動して」

「紫以菜……」

「——な〜んてね。ま、シーナはいつも笙子の味方だから! はっはっは!」

 紫以菜は、照れ隠しのように大仰に笑いました。

「紫以菜。わたくし、紫以菜がいてくれてほんとうによかったわ。わたくし——」

 コンコンコン

 扉をノックする音が聞こえました。

 時計を見ると、ちょうど昼の十二時を指しています。三度のノックは山岡の合図。昼食の用意ができたことを告げに来たのでしょう。

「なあに? お入り」

 ドアを開けたのはやはり山岡で、

「お嬢さま、昼食のご用意ができました。紫以菜ちゃんもご一緒にいかがでしょう?」

 と言いましたが、紫以菜は、

「お誘い、ありがとうございます。でも、シーナは、おうちでパパが待ってるから」

 そう言って、さっさと支度をして出てゆこうとします。

「ちょっと待って、紫以菜。一緒にいいではないですか。そう、お父さまも呼んで」

「ううん、ほんとにいいの。山岡さん、ありがとうございます」

 お部屋から駆け出てゆきました。山岡はそれを目で追ってから、

「けんかでもしたのですか?」

 と聞きました。

「そんなことはないわ。プライベートなことに突っ込んでこないでちょうだい」

「おやおや、失礼しました。お食事、ご用意できておりますので」

 山岡は、目礼して母屋へと戻ってゆきました。


 昼食を終えたわたくしは、久々に河原まで散歩に出ることにしました。

 五月の河原は、わたくしの心を嘲笑うかのような晴れ空の下で、ひとびとの往来を湛えています。

 萌黄色にどこまでも広がる芝生は、短く刈り揃えられていて、その感触がわたくしの気持ちを幾分か癒すようです。

 望まない結婚。

 見ないように、答えを出さないようにしてきたことに、今更ながら抵抗している自分は、つくづくばからしいと思います。

 考えてみれば、この結婚を望んでいるとか望んでいないとか、それじたい意識したことはありませんでした。

 望んでいようがいまいが、わたくしの意思は、それとは関係のないものだと思っていました。

 いずれ結婚はしなければいけません。世間のひとたちはそうしているし、跡継ぎのいない月崎家にとって、婿を迎えるのは当然のことです。その相手として白羽の矢を立てられた志良山さんという方と一緒になるということは、当然のことだと思っていました。

 望んでいない、とはどういうことでしょう。最初は、望んだことでもなければ、望んでいないことでもありませんでした。結婚とはそういうものだと思っていたのです。小説や映画のような、燃えるような恋というものに、漠然とした憧れは抱きつつも、男女の恋愛というものをしないまま、わたくしはここまできたのです。

 わたくしの答え。それはどうなるのでしょう。

 最初は、このひととならいいかもしれない、とは思っていました。好青年ですし、なによりお父さまに認められた方です。わたくしは、このひとと一緒になることを、少なくとも否定はしませんでした。このレールに乗っていれば、問題はないだろうと思っていたのです。

 ですから、婚約の契りを交わしたあの食事会で、反発することはしませんでした。そうしていれば、問題はないと思っていたのです。

 しかし、あの口づけです。

 わたくしは漠然と、志良山さんとは、口づけ以上のことができると思っていました。それができないことには跡継ぎは生まれませんし、するのが「まっとうな」夫婦というものでしょう。

 しかし、わたくしは、そのもっと前の段階で躓いてしまったのです。

 でも、もう戻ることはできません。

 わたくしは立ち上がって、土手に上がり、大きな石橋を渡りました。

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