十二. 新生活と吉ヶ池先生
図書室の窓から、校庭に広がる葉桜の群れを見下ろすと、ああ、わたくしも社会人になって、しばらく経つのだな、という実感が湧いてきます。
六時間目の終了を告げるチャイムが鳴りました。生徒たちが、本の返却や勉強のためにやってくるころです。
「月崎さん、今日は四時上がりでいいですよ」
先輩司書の米田さんに声をかけられました。
「よろしいのですか? でも、なぜ?」
「だってほら、今日は新任職員の歓迎会ではないですか」
「あら、そうでした。すっかり忘れていましたわ」
四月から高校の学校司書として働き始め、今日で約二週間。
市内の私立高校の図書室での毎日は、刺激的ではありますが、やはりまだ慣れていないせいか、帰宅するとぐったりとして、夕食もとらないという日も珍しくありません。
お父さまの斡旋で、関係のある学園の高校に就職したとはいえ、特別扱いを受けているわけではなく(当たり前ですが)、人並みに失敗し、人並みに注意される日が続いています。司書という仕事は、思っていたような長閑なものではないことを実感している毎日です。
手帳を見ると、確かに歓迎会が午後五時から、駅前の居酒屋で催されることになっていました。新任職員としては、わたくしの他に、吉ヶ池先生という女性教師が一人いるはずです。確か担当は生物だったと思います。ほとんど図書室に篭りきりの毎日ですから、その方ともいまだに話していないままです。朝は忙しく、職員の朝礼が終わると、皆はすぐに持ち場に散るので、どんな方かもほとんどわからないまま、二週間が過ぎました。なんとなく近寄りがたい雰囲気ではありましたが、それが逆にわたくしの興味をそそり、話してみたいとは思っていました。今日がそのチャンスです。
「米田さんは出られないのですか?」
「いいんですよ。そういうのには、ほとんど出たことがないんです。ほら、学校って、職員同士でも馴れ合ったりしない、個人主義なところがありますでしょう。そこがよくて、僕はこういう職種を選んだんですから。出ても出なくても、あんまり気にされないようなのがいいんです」
紐付きの銀縁眼鏡を首から下げ、ダークグリーンのチョッキを着、本を数冊肘で挟んでいる姿は、言われずともベテランの司書だとわかる風貌です。わたくしは、初めてお会いしたとき、司書でなければ、マイナーな文芸誌の編集者かだれかかと思ったのを覚えています。
「皆さまが参加するわけではないのですね?」
「そりゃそうですよ。この学校に教員だけで何人いると思ってるんですか」
「それもそうですわね」わたくしはこの学校がマンモス高であることを失念していました。「なんだか緊張してしまいますわ」
「月崎さんは確かに、こういうときに硬くなるタイプですから、リラックスなさい。お酒は飲まれるのですか?」
「いえ。嫌いですわ。ほんとうはそういうところには……」
言いかけたところで、返却に来た女子生徒に呼びかけられて、わたくしはそちらに駆けました。
「先生、これ、昨日までだけどいいよね?」
常連の生徒です。いかにも愛想を振りまいているという笑顔で言いました。
「だから、わたくしは先生ではないですって。司書なのですから。まあ、よろしいですわよ。今度からはお気をつけなさって」
「ありがとう存じ上げますわ!」
彼女は同じような笑顔を作って、走って出ていきました。
会場になっている部屋は、大きな角テーブルを十五〜六人くらいで囲める大部屋でした。既に幹事らしき若い男性教師(名前が思い出せません)が一人います。
「月崎さん! 早いですね」
部活で生徒を呼びかけるときのような、通る声で言いました。
わたくしは、どうも、と会釈するだけ。
すぐに続々と教師たちが入ってきて、吉ヶ池先生もいらっしゃいました。わたくしの隣の席に掛けます。どうも、とお互い会釈。
歓迎会は定刻どおりに始まりました。
幹事が形式どおりの挨拶をして、乾杯を済ませると、わたくしと吉ヶ池先生の自己紹介になりました。
「月崎笙子と申します。今年度から、図書室で司書を務めさせていただくことになりました。なにもわからない若輩者ではありますが、学園のために努力をしていくつもりでございます。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」
わたくしが頭を下げると、パラパラと拍手が起こりました。硬過ぎたのでしょうか。微笑と苦笑の入り混じる拍手でした。
次は、吉ヶ池先生が立ちました。
「生物担当の吉ヶ池です。好きな生き物は、チョウザメとペンギン全般です。よろしくお願いします」
冷淡な口調で言うので、冗談なのか本気なのか、わかりません。本人としては、ただ事実を言ったまでなのでしょうが。しかし、会場は妙な空気にもならず、またまばらな拍手が起こりました。
そのあとは、申しわけ程度の問いかけがあるくらいで、酒が回ってくると、銘々好きなように移動して、飲み食い、お喋りが続きました。
吉ヶ池先生についてもっと知りたいと思い、話しかけようかと二の足を踏んでいると、ベテランの男性の体育教師が、ビールジョッキを片手にわたくしの隣に座りました。
「鈴木です。初めまして」
目を細めて紳士的に言いましたが、隠せないおじさんくささが垣間見えます。
「初めまして」
「どうですか。もう慣れましたか? 米田さん、あのひと、よくわかんないひとでしょ。なに考えてるか、おれにはよくわからんです」
「そうでしょうか……。わたくしはとても好きですわよ」
「そうか。おれは苦手だな」ビールを一口飲んで、「そうそう。月崎さんって、あの月崎さんなんだってねえ。お父さんは理事長の友達の、社長さんでしょ?」
酒くさい息を吐き出しながら、言いました。
「ええ、左様ですわ……」
「なるほど、確かにお嬢さんだ。いつもそんな話し方なの?」
「そうですわね……」
「話に聞くべっぴんさんだ。彼氏とかいるんでしょう。いや、そこはお父さんに厳しく制限されているのか」
なんら悪びれることなく言うものですから、わたくしは怒りと困惑で、なにも言い返すことができませんでした。
「鈴木先生。セクハラ、モラハラ。ダブルペナルティで、あと一枚で退場ですよ」
吉ヶ池先生が助け舟を出してくれました。しかし、もう少し冗談ぽく言うのなら笑って済まされますが、鋭い口調で言うので、鈴木先生も完全に白けたようです。
「若いひとはわかんねえな……」
しょげながら元の席に戻っていきました。
「吉ヶ池先生……ありがとうございます」
「いいんですよ。今どきあんなひとがいるのかと思うと、この学園も心配です。やれやれ」
吉ヶ池先生はそう言ってから、ビールを一口。
「先生はご自分というものをお持ちですわ。あんなこと、わたくしにはとてもではないですが言えません。でも、少し言い過ぎでは……」
「わたしだって、言いたくて言っているのではないですよ。でも、黙ってられなかった。それに、酔いが回ってなかったら言っていないかも」
先生は、かなりの急ピッチでビールを飲んでいるようでした。
「それでも凄いですわ。あの、こうしてお話しするの、初めてですわよね? お話しできて光栄ですわ」
「確かに、入学式からほとんど会話らしい会話もありませんでしたね。でも、光栄だなんて大袈裟です」
「わたくし、どんな方か、ずっと興味があったんです」
「大して面白い人間でもないですよ。さっき自己紹介したとおりです」
「ええっと……チョウザメと、なにかがお好きだとか……」
確か、自己紹介で仰っていた情報は「好きな生き物」二種だけでした。
「ペンギンです」
「そう、ペンギンですわ! ペンギン、お可愛いですわよね」
そう言うと喜ぶかと思ったのですが、先生は表情を崩さず、中ジョッキを飲み干して、手を挙げて店員におかわりを頼みました。これで五、六杯目でしょうか。
「ええ。まあ、可愛いね。暇さえあれば、水族館に行くんです」
「それは素敵ですわ。わたくし、あそこには小学生のときに遠足で行ったきりです。大人になると行かないですしね。お好きなんですね」
「はい。知ってますか? あそこのペンギンにオスのカップルがいることを」
「はあ……そうなのですか」
わたくしは、初会話早々、ペンギンのオスのカップルの話になるとは思ってもいませんでした。
「ふつうは知らないでしょうね。でも、研究のために、東京から学会の人もよく来るんですよ」
「はあ……」
「面白いでしょう?」
「ええ」確かに面白いとは思いますが。「しかし、ペンギンにもオスのカップルがいるのですね。それって、その……同性愛というのでしょうか」
「そうです」
そこで、店員が吉ヶ池先生のビールを運んできたので、先生は早速それに口をつけました。ごくり。
「ペンギンにもそういったものがあるのですね。その、ど、同性愛というものが」
「もちろんです。ペンギンに限ったことではありません。研究によると、何百種類もの動物で同性愛が確認されています。オス同士もメス同士も」
「それは存じませんでした」
わたくしは素直にそう思いました。
「では、吉ヶ池先生もそういうことを研究しに動物園に行くのですか?」
「いえ」きっぱりと言いました。「単純に萌えるからです」
「も、もえ……」
ペンギンのオスカップルに萌えるとは……?
「だって、素晴らしいではないですか。あの可愛いペンギンのオスのカップルですよ?」
先生は急に鼻息を荒くして、ジョッキをドンとテーブルに下ろしました。素晴らしい……?
「ペタペタペタペタと歩きながら、二人は一緒に巣を作ったり、卵を温めたりするのですよ。それは卵状の石なのですが。わたしは、そんな二人をずっと観察して、その成長を見ているのが、この上ない幸福なのです。なんたって、リアルで目の前にペンギンのオスのカップルがいるのですから」
顔が上気しているのは、お酒のせいだけでしょうか。
「なるほど。では、今度連れていってくださいな」
言った瞬間、先生は急にガクッと頭をテーブルに落として、動かなくなりました。驚いていると、近くにいた女性の教師が「あら、まあ」といった具合に微笑んでいます。おやすみになったようです。わたくしも、その教師と顔を合わせて苦笑い。
仕方がないので、わたくしが羽織っていたカーディガンを掛けてあげ、あとはそのままにしておきました。
「吉ヶ池先生はなかなかの人物だ」とか「今度また誘ってやろう」などと嬉しそうに話している教師たちを軽蔑しながら、ほどなく、歓迎会は自然と終了となりました。
「カラオケ行くひと〜」
体育の鈴木先生の声に、何人かの教師が付いていきましたが、もちろん、わたくしはお断りの言葉を入れました。幸い、引き止める方もいません。しかし問題は、吉ヶ池先生です。
「大丈夫ですか?」
声をかけますが、ああ、とか、うう、とか言いながら、立っているのがやっとのようです。
「吉ヶ池先生? 大丈夫?」
先ほど、先生が急に寝入ったときに隣で微笑んでいた教師が寄ってきました。
「吉ヶ池先生は確か、わたしと同じ駅でしたから、わたしが送ります。一人暮らしらしいですから。月崎さんも路線は同じですよね? あ、わたし、古文の大田といいます」
銀縁眼鏡をかけた、清楚な感じの中年女性でした。
「よろしいのですか? でも、助かりますわ」
「職員名簿を見て、家もだいたい知ってますので、大丈夫だと思います。途中まで一緒の電車で行きましょう」
大田先生と吉ヶ池先生の最寄り駅は、わたくしの最寄り駅の数駅先になるようでした。とりあえず、ほっとしました。
「あ……」
だれの声かと思って見ると、吉ヶ池先生が空を見上げていました。
「わたし、星って好きだなあ……ほし。孤独だけど、それは強がりで、ほんとうはだれかを求めていそうなところ」
そう言って、立ち尽くしています。
「吉ヶ池先生、わたしと一緒に帰りますからね。ほら、同じ駅でしょ?」
「はい……」
わたくしたちは三人で駅まで歩き始めました。
「確かに、今夜は星が綺麗ですね」
大田先生の言葉にわたくしも空を見上げると、市内最大の繁華街の明かりの下でも、その輝きは十分にわかるほどでした。
「春の大三角が、微かにですが見えますよ」
「春の大三角ですか」
夏の大三角なら知っていますが、春のそれについては聞いたことがありませんでした。
「ほら、南の空の高い所、わりと大きめの星が三つ見えるでしょう」
「はあ……」
わたくしには、どれのことだかわかりません。
「デネボラ、アルクトゥールス、スピカ。この三つなんです」
「なるほど……」
「吉ヶ池先生、星は孤独だと言っていましたね」
吉ヶ池先生は、朦朧としながら「はい……」と、かろうじて言いました。
「わたしはそうは思いません。ああして光っているのは、恒星といって、自分で光っている星です。太陽のように。それは知っていますよね?」
わたくしと吉ヶ池先生は、頷きました。
「恒星の周りには、だいたい惑星が周っています。恒星も惑星もとても大きいので、物体全てが必ず持っている万有引力が大きく働きます。ぐるぐる周っていながら、ハンマー投げのように飛んでいかない、もしくは、ボウルの縁を周っているビー玉みたいに真ん中に落ちていかないのは、見えない力で、絶妙にお互い引き合っているからです。飛んでいこうとする力と、くっつこうとする力が釣り合っているのです。そうやって、付かず離れず、周り続けるんです」
「そうなのですか」
わたくしは相槌を打ちましたが、吉ヶ池先生は聞いているのかいないのか、わかりません。
「いやね、なにを言いたいかというと、太陽が地球と離れたりくっついたりしないで、ずっと何億年も同じ距離を保ちながら、延々と周り続けているのは、奇跡的な力の微妙なバランスがあってこそのことなんですよ。そういう関係をずっと続けてきているの。何億年も。これって、孤独というかしら?」
「くっつけないのなら、孤独なのではないでしょうか」
わたくしは、答えました。
「まだまだ子供だね。二人は、その距離で、その重さでなければならないの。そうでなければ、そもそも成立すらしていない。月と地球だってそう。二人はそういう究極の関係でもって成り立っている。もし、月が今よりもう少し重かったり軽かったりしたら、月なんてどこかに行ってるし、わたしたちの夜空はずいぶんと寒々しいものになっているはずよ。かぐや姫だって帰る所もないわ」
「究極すぎて、よくわかりませんわ」
わたくしは正直に言いました。
「人間だって同じでしょう。それぞれ自我を持っているように、その人がその人でなければいけない理由があって、自分の中身は自分の他に替えがないの。だからこそ、われわれ教師という職業があると、わたしは思っている。話はずれるけど。でもだから、月と地球がそれぞれ自身じゃないと今のように成立していないのと同じように、人間それぞれには、お互いがお互いじゃないと成立しない、掛け替えのない関係があるはずなんです。その二つは、それぞれ自身じゃないといけない理由の上で、成立してるのです。人間、ああ寂しいとか孤独だとか思いながら、見えてない、わかってないだけで、ほんとうは形影相弔ってるわけじゃないのよ。必ず、引き合う関係の物というのがあるの」
大田先生はそこまで言って、また空を見上げました。
「では大田先生は、旦那さんとはそういった、その、二人じゃないとだめみたいな、関係性で、寄り添って……」
わたくしは、恥ずかしさから、尻すぼみな言い方になりました。
「わたしは結婚してません」
大田先生は、きっぱりと言いました。あっ……。
「恋人もいません。でも、どこかにいるはずなのよ。まだ現れていないだけで」
そう言って、また空を見上げました。至極論理的な説明が、結果として、ここまでのベタなロマンチックなところにいきつくとは思いませんでした。この年齢で(四十代半ばでしょうか)、まだ白馬に乗った王子さまを待っているとは。
「そうかもしれませんわね。わたくしだって、そうですわ」
わたくしは、曖昧な返答しかできませんでした。
「そう思いません? ねえ、吉ヶ池先生?」
大田先生は、いきなり吉ヶ池先生に振りました。
「わたしは納得いきませんけどね。そうやって、引き合っているひとが必ずいるなんて証しはどこにもないですから。いても、世界はどれだけ広いと思ってるんですか」
吉ヶ池先生は、酒臭い息を吐きながら言いました。ちゃんと話を聞いていたようです。
「証しはないですよ。でも、絶対にないともいえない。あるかないかは、確かにだれにもわからないけれど、実際にそうやって一緒になったひともいるのだから、あると思っていたほうがずっとしあわせじゃないですか?」
「あるかないかわからないのなら、別に信じる義理はないです」
「現実的なのね」
大田先生は憮然として言いました。
「あの!」わたくしが割って入りました。「大田先生も仰っていましたよね? 見えていない、気づいていないだけ、って。独りじゃないって。実は、大田先生のすぐそばにも、わかってないだけで、そういう方もいらっしゃるのではないかしら?」
しかし、大田先生は、ただにやけているだけです。
駅に着いて電車に乗ってからは、三人は、水を打ったように押し黙って、横並びの座席に掛けていました。金曜夜の下り電車はすし詰め状態で、ほろ酔い客のがやがやがてんでばらばらに響いています。
わたくしの最寄り駅に着いて別れるまで、三人はずっと黙ったままでした。
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