十一. 冬の日

 最後に紫以菜と会ってから、ひと月以上経ってしまいました。

 年末から、卒論の制作にずっとかかりっきりで、二月頭に提出は済ませましたが、その後も発表会に向けての資料作りで忙しく、気が気でない日々が続いていたのです。

 その発表会も、今こうして終えることができました。

 すると、わたくしの頭の中には、地下鉄のホームに次の電車が来るごとく、紫以菜のことがやってきて、それでいっぱいになりました。紫以菜に会いたい。自然と思っていました。

「笙子、お疲れ〜」

 千草が背後から来て、ホットレモネードのペットボトルをわたくしのほっぺたに当てます。

「上出来だったじゃ〜ん。これどうぞ」

「ありがとうございます。大山崎先生のツッコミにも上手く対処できましたわ」

 わたくしは発表時、担当教官と敵対関係にある教授からの意地悪な質疑を、なんとかかわしたのでした。それも事前に対処していたことでした。

「あたしもなんとか終わったよ。あ〜、すっきりした!」

 千草は大きく背伸びをしました。

「千草とあかりは卒業旅行に行くのでしたっけ?」

「うん。タイが待ってるぞ〜!」

 と虎が吠えるようなポーズをとっています。

「いいですわね。お土産話、期待していますわ」

「やっぱり笙子とも行きたかったな。お父さん、最後までだめだって?」

「ええ。国内ならいいが、外国はだめだと。最後まで譲りませんでした」

「流石だね」

「二人でゆっくりしてらして。あ、あかり、お疲れさまでした」

「お疲れ〜。このあとどう? 打ち上げなんて」

「軽く食事なんていいじゃん? ほら、こないだ、あたしが行けなかった喫茶店で」

 千草が言います。

 わたくしはそこで、「よろしいわよ」と言いそうになったのですが、考えてみると、一つ予定が入っていたことを思い出しました。志良山さんと、ご両親がお屋敷にいらっしゃって、お父さまも一緒に、五人でお食事をするのです。

「ごめんなさい! お昼は、ちょっと……」

「そうなのね。了解〜。じゃあ、あたしと二人で行こうか」

「そうだね」

「あかりと笙子が行ったのって、もう去年の話だっけ?」

「うん。いい感じだったよ」

 二人は、そう話しながら講義室を出ていきました。

 すっかり忘れていた用事を思い出すというのは不愉快なものですが、よりによって、志良山さんとの会食とは。

 わたくしは、とぼとぼと講義室をあとにしました。

 外は、晴れ空に風花が舞っています。

 歩道にも、薄らと雪が積もっていて、気をつけて歩かないと滑ってしまいそうです。ただ、今は雪が舞っているとはいえ、太陽は出ているせいか、空気じたいは思ったほどの冷えはありませんでした。むしろ、コートのフードのファーが肌に当たる感触が心地いいくらいです。それが唯一の救いのようでした。


 お屋敷に戻って応接間を覗くと、お父さまと志良山さん、ご両親がいらっしゃって、お茶を飲んでいました。

「笙子さん。おかえりなさい」

 志良山さんが立ち上がります。ご両親も会釈しています。

 わたくしは、おかえりなさい、という言葉に違和感はありましたが、にこっとひと笑い。

「ようこそ。遅れてしまって、申しわけありませんわ。今準備をいたしますから」

 お部屋に荷物を置いてから食堂に入ると、ちょうど料理人の富田が最後の一皿を並べたところでした。

「お嬢さま、ちょうどよかった。準備はできていますよ。おや、旦那さま、志良山さま、どうぞお掛けください」

 振り返ると、お父さまと志良山さんご家族が入ってきたところでした。

「すごいご馳走だ」

 志良山さんが言いました。

「志良山さまは、お肉料理がお好きと聞いております。本日は、牛ロースのステーキをメインに、地中海のシーフードパエリアやフォアグラのスープ、その他いろいろ、ビュッフェ形式でおもてなしいたします。どうぞごゆっくりとお召し上がりください」

 富田はそう言って、厨房に戻りました。

「ささ、雄一くんもお掛け。好きに食べて、飲んで構わないんだよ。お父さまお母さまもどうぞ」

 お父さまとわたくしが横並びに、志良山さん家族も同様に、対面に並びました。わたくしの目の前は志良山さんです。

 三人で乾杯をして、食事が始まりました。

「笙子さん、卒論発表はどうでしたか?」

 早速、志良山さんが聞きます。

「なんとか無事終えられましたわ。学生生活もこれで終了ですわ」

「それはよかった。僕も、去年の今ごろは大変でした。徹夜明けで発表会に出て、ぼけっとした頭で、質疑に答えられなかったのを今でも夢に見ます」

 志良山さんははにかんで言います。わたくしも苦笑い。

「雄一くんのテーマはなんだっけか?」

 お父さまがワインを飲みながら言いました。

「大まかに言えば、ゲーム理論です。日本の地方におけるそれのモデル化を再定義するといったところでしょうか」

 志良山さんは地元の私立大学で経済学を学ばれて、去年卒業したところです。

「しかし、経営学ではなくて、経済学だというのがこだわりなんだったね」

「ええ。会社を経営しようと思ったら、経営学だけではいけません。グローバルな、そして地域の経済を包括的に学ぶ必要があると思うんです」

「そうだったね。頼んだよ」

 なにを言っているのか、ちんぷんかんぷんです。

「笙子さんの専攻はアイルランド文学でしたよね?」

 志良山さんのお母さまが聞きました。

「はい」

「アイルランド文学といったら、ジョイスを読んだくらいだけど、アイルランドにはいつか行きたいと思ってるんですよ。そうだ、二人の新婚りょ……おっと、失礼」

 その言葉に、一同苦笑い。

 その後も、いつもどおりの当たり障りのない会話が続き、お父さまのワインも、志良山さんのビールも進み、頬が赤らんできたころあいです。

「そうそう。で、今日の話なんだがね」お父さまが改まったように言いました。「ちょっと気は早いかもしれないけど、笙子も卒業することだし、それと同時に二人が正式に……まあ、二人は婚約者、ということで。という取り決めですし」

 決まりの悪そうに言います。

「まあ、二人はこれまでどおりでいいんだよ。もちろん、僕たちも。一応、ほら、言った言わないとなるとあれだから、今日正式に、ってことで」

 と、しどろもどろながら言いました。

「笙子さん。そういうことで、よろしくお願いします」

 志良山さんが、背筋を正して言いました。そういうことで、とはどうなのでしょう。こういうときは、曲がりなりにもご自分で申したほうがよろしいのでは? そして、わたくしの気持ちは……?

 ただ、わたくしとしては、今更という話です。結婚するのでしょう、それならそれでいいわ、といった、投げるような思いです。

「こちらこそ、よろしくお願いしますわ」

 冷たい口調で言うと、皆は拍子抜けしたようでした。

「では……これを受け取ってください」

 志良山さんは、紺のスウェード地の小箱を差し出しました。開けると、指輪が埋められています。〇・五カラットほどのダイヤが、そこに輝いています。

 わたくしは、「はい」と言ってそれを受け取りました。自分宛の郵便物でも受け取るように。

「まあまあ。改めて乾杯としますか」

 お父さまの言葉で、志良山さんのご両親も一緒になって乾杯。パラパラと、まばらな拍手が起こりました。

 なんとなく、ぎこちない雰囲気にはなりましたが、しばらくすると、なにごともなかったかのように、元の空気に戻りました。

 わたくしは、このなにごともない場の空気に、むしろ、事態の取り返しのつかなさを思い知らされるような気がして、徐々に、怖ろしくなってきたように思えます。

 もしかしたら、ものごとは、大事なものごとほど、なにごともなかったかのように進められるのかもしれない。世のひとびとの人生の節目節目も、もしかしたら、こうなのかもしれないと。

 かといって、嫌だ! と言えばよろしいのでしょうか。それは違う。今更なにを言う、大丈夫か、と言われるのがオチです。では、もっと話し合いましょう、と持ち掛ければいいのか。持ちかけたところで、その後のビジョンはない。イメージができない。そもそも、わたくしに拒否権はあるのだろうか。そして、拒否したいのか、したくないのかも、わからないのです。

 いえ、ほんとうのことをいうと、わからないという言葉に逃げているのです。

 この瞬間、わたくしは、逃げた先にあるこの道を歩くことになり、うしろのドアは閉ざされたのでした。わたくしの外の世界では、なにごともなかったかのように、お喋りが続き、料理が口の中に消えてゆき、時間は一秒のあいだに一秒だけ進んでゆきます。

 時間がきて、志良山さんご家族が帰られることになりました。玄関でお見送りをしたときの志良山さんは、節目がちにはにかむような顔で、わたくしに「それでは」と言って門を出てゆかれました。なにが、それでは、なのでしょう。わたくしは、笑顔で応えました。


 紫以菜に会いたい。

 山岡と一緒になって食器を片付けながら、自然とそう思っていました。最後に会ったのは、確か、年が明けてしばらくしてから。偶然、大きな石橋の近くでお会いしたときでした。そのときの紫以菜は、三学期の始業式を終えて帰る途中でしたので、お昼ごろだったと思います。

 どちらからともなく、お互いに気づいて、クリスマス以来の再会を大袈裟に喜び合ったものです。

 わたくしは紫以菜がくれた年賀状(出すことじたいが楽しいのでしょう)の可愛かったこと、いよいよ卒論の締め切りが迫っていて精神的に参っていること、文学論をテーマにした論文なのに、別の本を読む時間はむしろ癒しの時間であることなどを話しました。

 紫以菜は、元日は例年にない雪が降ったので、お父さまと一緒に雪遊びをしたこと、わたくしがクリスマスにあげた手帳を使い始めたこと(〈笙子そつろんてい出〉の日程が可愛らしい字で書いてありました)、クラスの女子グループのリーダーが学校に来なくなったことなどを話してくれました。

 それからというもの、紫以菜も気を使ってか、自分から会いにくることもなく、わたくしも物理的にそれどころではありませんでしたので、それからひと月以上経ってしまいました。

 紫以菜には、今日の卒論発表会が終われば、晴れて卒業ということは伝えてあります。もちろん、査読が通ればの話ですが、よっぽどのことがない限り卒業できるでしょう。わたくしは、お片付けを終えて、すぐにでも会いにいこうかと考えていました。

「お嬢さま?」

 山岡の声に、はっと驚きました。

「お嬢さま。そこは先ほども拭いていましたよ」

「あら、そうだったわね」

 慌てて言うと、山岡は意味深な笑みを浮かべていました。

 部屋に戻って、ベッドに倒れ込むと、今日の二大イベントから解放されたことの実感がやっと湧いてきました。スカートの皺など気にせず、体全体を預けていれば、やっと学生生活が終わったという達成感に浸れます。そして同時に、もう片方のイベントを思い浮かべて、暗澹たる気持ちになるのですが。もやもやと考えていると、わたくしは、そのまま寝入ってしまいました。


 毛布も掛けずに寝ていたものですから、寒さで目が覚めました。この時期は、西日が窓の真正面から差すので、わたくしはその光に目を細めました。

 体を起こすと、鏡台に映ったわたくしの顔と目が合いました。

 その顔は、寝不足からくる隈と、ぼさぼさの髪のせいで、眠っていたあいだに十歳ほど歳をとったのかと思えるものでした。しばらく見つめて、自分の顔だとわかったとき、鏡台の脇に飾ってあった貝殻の耳飾りが西日を反射して、鈍く光りました。それは、いつもの位置にあるいつもの耳飾りですが、その輝きが殊更眩しいのは西日のせいだけでしょうか。

 お母さま。わたくしはこれでよかったのでしょうか。四年前から決まっていたとはいえ、それは、ふわふわした約束ごとなどではなくなり、重みをもった物体になったのです。

 わたくしには、だれかがなにか重大な間違いを犯していながら、だれもそれに気づいていない、気づかないふりをしている、そのような気がいたします。

 いえ、気づかないふりをしているのは、わたくしです。こうしていれば、自動的に問題はだれかが解決してくれて、気づけば自分はしあわせになっているのだろう。そう思っているのです。ばかな話です。でも、今更どうすることもできません。

 ドアは閉まりました。そして、そのドアには取手が付いていません。振り返って、ゆき先を見てみても、ただ、暗闇の中に細い道が続いているだけです。それも、途中で闇に消えて見えなくなっています。


「そういえば、夕方に紫以菜ちゃんが来ましたよ」

 夕食時に、山岡が言いました。思わずわたくしは箸を止めました。

「え?」

「ノックをしても、返事がありませんでしたので、お休みでしたのでしょう? そう告げると、わかったと言ってすぐに帰られましたが」

「そうなの? なんで起こしてくれないの?」

 わたくしはつい、大きな声を出してしまいました。

「そんなこと申されましても……。今日で卒論発表が終わることをご存知のようでした。また遊ぼう、と仰っていましたよ」

「ええ。今日が発表会だとは伝えてあるわ。そうね、これで久々に紫以菜に会えるわ」

「また紫以菜ちゃんと遊ぶのか。卒業が決まっても、なんも変わらないんだな」

 お父さまが、ヒレカツを食べながら、皮肉を言います。

「よろしいではないですか。わたくしの数少ない心の安らぎなのです」

「そうかい。でも、いつまで一緒になって遊んでる気だ。紫以菜ちゃんだって大人になっていくんだぞ。笙子も四月から社会人だ」

「そんなこと、関係ないではないですか。大人になっても、ずっと一緒にいますわよ」

「別に、お父さんはかまわんが」

「なら、よろしいではないですか」

「……好きにしろ」

 言いたいことはわかる気もします。小学生と遊んでばかりいる、結婚の決まった大学生(四月には新社会人)を子にもつ気持ちは、微妙なものかもしれません。現実逃避のように映るのでしょうか。しかし考えてみれば、ご近所さん同士の付き合いです。それが異性なら、お父さまも気に病むでしょうが、わたくしと紫以菜も女の子。

 部屋に戻って寝る支度をしていると、スマホの電話が鳴りました。

〈須磨家〉

 と表示されています。紫以菜の家電(いえでん)です。

『もっしー、笙子?』紫以菜はいきなり大きな声で呼びかけました。『今日そつろん発表会だったんだよね? お疲れさま!』

『紫以菜! お久しぶりですわね! ありがとうございます。これで楽になりましたわ。紫以菜はお元気でしたか?』

『もちろんだよ。ちゃんと手帳に「笙子そつろん発表」って書いてあるから、今日までずっと待ってたんだよ』

『嬉しいわ。夕方、こちらにいらしたみたいですね?』

『うん。お疲れさまって言いにいこうと思ったの。疲れてるだろうから、玄関先で話すくらいにしようと思ってたんだけど、ほんとに疲れてたみたいだね』

『失礼いたしましたわ。山岡ったら起こしてくれればいいのに、まったく……』

『え、なに?』

『いえ、独り言ですわ。気を使わせてしまって、申しわけありませんこと』

『だいじょぶ、だいじょぶ。でも、笙子はこれから忙しくなるの? その、しゅうしょくとか、新生活? とか』

『いえ、四月からも、こちらから通勤できますし、生活じたいはあまり変わりませんわ。まあ、今までが学生で、生活が不規則でしたので、むしろ規則的になって健康的です』

『そっか。笙子、遠くに行くのかもって思ってたから、安心したよ』

『そんなこと、そもそもお父さまがお許しになりませんわ。わたくしはいつもどおり、紫以菜の近くにいます』

『ふふ〜』

 にたにたしている紫以菜の顔が浮かぶようです。それを想像して、わたくしの口元も緩みます。

『紫以菜は、今度は中学生ね。しっかりしなければいけませんわよ』

『まだ二月じゃん。まだひと月ほど授業があるんだから。それに、しっかりしなきゃだなんて、別に今までどおりだよ。笙子こそしっかりしてよね』

『まあ、失礼だこと。でも、ほんとうね。わたくしが社会人だなんて、なんだかうそみたい』

 わたくしは冗談のように返しましたが、皮肉を言われたのかもしれません。

『しゃかいじんになっても、一緒に遊んでくれるよね?』

 紫以菜が聞きます。

『もちろんですわ。なにも変わったことなど、ありはしません』

『でも安心した〜。とりあえず元気そうで。こないだ橋の近くで会ったときは、なんだか目がうつろで、近付き難かったもん』

 わたくしは、そうかもしれないと、恥ずかしい気持ちになります。

『だ、だってあのときは、徹夜もしてましたし、大変な時期だったのですよ? それに寒かったし、お腹は空いてたし……』

『あはは、いつもの笙子だ』

 あたふたとするわたくしを、紫以菜は笑いました。

『もう。大人をばかにして』

『ははっ!』

 また受話器の向こうで笑う声が聞こえます。

『じゃあ、今度、笙子のおうち行くね! しばらく暇なんでしょ?』

『暇だなんて。まあ、ほんとうのことですが。いつでもいらして』

『うん! 今度は元気な笙子の顔が見たいな!』

 紫以菜は、すっと通る明るい声で言いました。

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