六. 『許された時間』

 自室の掃除をしていると、母屋のほうから呼び鈴の鳴る音が聞こえました。

 わたくしは離れの洋館にいますので、それは普段は聞き逃すことも多いのですが、今日はすんなりと耳に入ってきました。

 いつもなら、お手伝いの山岡がすぐに出て対応するのですが、呼び鈴は何度もしつこく鳴り続けます。

 仕方ないので、駆け足で向かいました。

 玄関の戸を開けると、志良山さんが立っていました。

「笙子さん。突然ごめんなさい」

「あら、いらっしゃるのなら、ひとことくださればよろしかったのに」

「いえ。ちょっと驚かせようと思いまして」

 志良山さんは、首のうしろをぽりぽりと掻いています。

「どういたしましたの?」

「実は、これから一緒に行きたい所があるのです」

 志良山さんはそう言って、わたくしの手を半ば強引に引っ張って、門の外に出ようとします。

「いけません。部屋着ですし」

「構いませんよ」

「わたくしが構うのですわ」

「そうですか。ならば、着替えてらっしゃい」

 わたくしは不承不承、部屋に戻って、着替えることにしました。

 変なの。これがサプライズとかいうものなのかしら。

 着替えて戻ると、志良山さんは、

「では、行きましょうか」

 と言い、またわたくしの手を引っ張ります。

「どこに行くのです? 歩いて?」

「ええ。ほら、以前笙子さんと歩いていたときに見つけた雰囲気のいい喫茶店、あそこに入ってみようと思いまして。あのときは入らずじまいでしたが、今回は入ってみましょう」

 確かにそんなこともあったような、と記憶は曖昧でしたが、最近は志良山さんと会うことも少なくなっていましたし、たまにはいいのではないでしょうか。

 そのお店は、お屋敷から歩いてすぐの所にありました。こんな近くにこんなお店があったのだと、少し驚きです。

 店内は、確かにいい雰囲気です。薄暗いけれど、それはおしゃれを狙ったものではなく、ごく自然とそうなった、というような暗さで、落ち着きます。小綺麗なというよりは、洞窟とかうろの中のような空間で、今にも水滴のひとつでも落ちてきそうです。

 わたくしたちの他に客はおらず、いらっしゃいませもありませんでしたが、とりあえず二人でテーブル席に着きました。

 しかし、志良山さんは、なぜかわたくしの隣に座ります。四人掛けのテーブルなので、対面して座ればいいものを、なぜかわたくしたちは、隣り合って座っています。

「ここはナポリタンが美味しいらしんですよ」

 志良山さんはそう言って、メニューも見ずに店員を呼びました。初老の男性が来て、注文を否応なしに聞くので、わたくしは仕方なく、そのナポリタンとやらを頼むことにします。

「今日は付き合わせてすみませんね。ずっと来たかったんですよ。驚かせてすみません」

 このひとは、こんなことをするひとだったかしら、と疑問に思いましたが、今までいかにも許嫁というような他人行儀な付き合いでしたし、こうやって一歩踏み出すようなことをしてみたのかもしれません。わたくしも、そういえば、自分からもこのようなデート然としたことを仕掛けたほうがよろしいのかもと、少し反省しました。

 しばらくして運ばれてきたそれは、ナポリタンと呼ぶにはあまりに麺が太く、まるで餡掛けうどんのようでした。それでも確かに、ソースはトマトソースらしく、つんと鼻を刺すような香りがいたします。しかし、麺は茶色っぽくて、あまり美味しそうではありません。

「これがここのナポリタンですのね」

 志良山さんは、わたくしの問いかけに「ええ」と言っただけで、いただきますも言わず、箸でそれを食べ始めました。まるで、ほんとうにうどんを食べるときのように、ずるずると音を立てて。

「いけません。もっとゆっくり召し上がらなくては」

 あまりに急に勢いよく食べるので、わたくしは心配になりましたが、志良山さんは構わず食べ続けます、勢いはとどまるところを知りません。

「いけません。いけません」

 はしたないですし、それにこのままでは、むせてしまいます。

「いけません。いけません」

 わたくしは、なぜかそれ以外の言葉が出てこないのですが、志良山さんは、やはり構わずナポリタンとやらをがつがつと口に入れていきます。

「うまい、うまい」

 食べる手を止めません。それどころか、

「ほら、笙子さんも」

 と、わたくしに促します。

 わたくしは、恐る恐る、それを口にしてみました。それは、わたくしの知っているナポリタンとは全く違いましたが、トマトソースの絡まる麺はもちもちで、癖になる食感です。悪くないのではないかしら、と思っていると、志良山さんは既に食べ終えたらしく、じっとわたくしの手元を見つめています。

「召し上がります?」

 聞きましたが、志良山さんは出かかった言葉を無理に飲み込むように堪えながら、首を横に振っています。

「変なひとね。いつもはもっとクールなひとなのに」

 わたくしは不思議に思いました。

 ふと気が付いたら、わたくしたちの前の席には、五歳くらいの小さな男の子がちょこんと座って、こちらを見ていました。よく見ると、わたくしたちの息子です。

 息子も、じっ、とわたくしの手元を見ているだけで、無言です。

「そんなに食べたければ、どうぞ」

 二人のどちらにというわけでもなく、皿を差し出すと、二人とも「とんでもない」とでもいうように、口を固く結んで首を横に振ります。

「変な二人ね」

 すると、息子はふと思い立ったように、席を立って走り出しました。

「こら、走っちゃだめだぞ!」

 志良山さんが怒鳴りました。

「どこ行くんだ!」

 息子は構わず店内を走り回っています。店員はそれをなんとも言わず見ています。

 志良山さんは息子を叱るだけで、席を立ちません。まったくもう、といったふうに半ば呆れて、半ば嬉しそうにしています。

 この光景が、家族、というものなのかもしれません。

 わたくしは、急にぴんときました。

 しかし同時にそれは、選びようがなく、やり直しもきかない、抗いがたい残酷な事実なような気がして、急に血の気が引くような心地がいたしました。

 これでよかったのでしょうか。

 志良山さんは、終いには、にこやかな顔で息子を眺めています。

 わたくしの視線に気づいたのか、

「笙子さん、どうしました?……笙子さん? 笙子さん?……笙子?……お〜い、笙子〜?」

 目が覚めると、わたくしはゼミ室の丸椅子に座って、壁に背をもたげていました。足元にはレジュメが散らばっています。

「ミーティング、終わったよ」

 千草がわたくしの頭を、ポン、と叩きます。

「呆れたひとだ。忙しいのはわかるけど、みんなそうなんだぜ」

「わかるわかる」あかりは笑っています。「どんな夢見てたの?」

 そう聞かれましたが、わたくしは、

「忘れましたわ」

 とだけ答えました。

「ま、めしでも食おうぞ」

 千草が自分のお腹を、ポン、と叩いて言いました。

 文学部棟を出ると、わたくしたちと同じ、昼休みどきの学生で溢れていました。女子大ですので、キャンパス内はかなり華やかです。

「笙子が寝るなんて、珍しいね」とあかり。

「珍しいじゃん。先生も笙子には甘いからな。熟睡してたし」と千草。

「ええ、ほんとうに熟睡していましたわ」

「徹夜? もうそんな卒論ぶっ飛ばしてるわけ?」

 卒論提出期限は来年一月中旬ですので、今十一月現在、それほど焦る時期でもありません。

「そういうわけではありませんわ」

「じゃあ、なにか悩みでもあって眠れなかったとか?」とあかり。

「いえ、そういうわけでもありませんが」

 二人は、ふーん、といった態です。

「ねえ。お二人は『家族』ってなんだと思います?」

 わたくしは聞きました。

「おお?」

 千草は身を乗り出しました。

 あかりは意味深に笑っています。

「それはつまり、そういう悩みですか?」

 千草が言いました。

「それは学食でじっくり聞こうではありませんか」

 あかりも茶化すように言います。


 食券を買い、わたくしたち三人は定食のレーンに並びました。

「もう、すぐにその許嫁氏と結婚するわけ?」

 千草が聞きます。

「いえ、そういうわけでは」

「でも、将来を真剣に考えてるんだ」

「それなりには……でも、そんな、真剣だなんて」

「じゃあ、なんでいきなり『家族とは』なんて言い出すのさ」

「わたくし、きちんと考えたことはございませんでした。お母さまが亡くなったときも、志良山さんを紹介されて、このひとと結婚するぞ、なんて言われたときも」

「それで、結婚が迫ってきて、初めてちゃんと考えたわけだ」

「ええ」

 ちょうど三人座れる席があったので、そこに掛けました。

「あかりはどう思う? つまり、家族って?」

 千草が聞きます。

「そうだね。質問が漠然とし過ぎてるけど、わたしの両親は人並みに仲も好かったり悪かったり、ともに公務員、収入も中の上、ひとりっ子。平均的な家庭だけど、それはそれで、しあわせだとは思ってるよ。ま、ふつうがいちばんじゃない?」

「なるほどね。『ふつうがしあわせ』か……」

 千草はそう言いつつも、どこか引っかかるようでした。

「そういうわけではないよ。でも、家族でいて、しあわせだなって、思ったことはあるよ」

「なるほどね。あかりは恵まれてるね」

 千草はそう言いつつも、皮肉ではなさそうな口調です。

「そりゃ、どうも」

「でも、わからなくはないかもな。あたしも、そういう意味で『しあわせ』って思ったことはあるんだ」

 千草はそう言って、お水をひと口飲みました。

「そうなの?」

「うん。正確には『しあわせだった』かな。ほら、あたしって、お婆ちゃん子じゃん? 両親自営業で、けっこう忙しくて。家では、主にお婆ちゃんに育てられたの」

 あかりは興味深そうに聞いています。続けて、というふうに。

「お婆ちゃんは、うちの小さい庭で家庭菜園みたいなこともしてて、それを手伝ったり、一緒に買い物行ったりしてたんだ。

 一方、両親は厳しめで。あたし、妹いるんだけど、お姉ちゃんだからしっかりしろ、って直接言われたことはないけど、実際意識するじゃん? だから、のびのびとは育ってないよね」

「なるほど」とあかり。

「成績は別に悪くはないし、非行にも走ってないし、悪い友達もいないし、別に子供として両親を困らせるようなことはしてなかったつもりなんだけど、な〜んでか、常に親の目に怯えて暮らしてた、って実感があるわけだ」

「なんで?」あかりが言葉を挟みます。

「な〜んでか。まあ、そういう『空気』というか『視線』を感じるんだよね」

「わたしはひとりっ子だからか、よくわからないな」

「わたくしもひとりっ子ですが、ちょっとわかるかもしれません。わたくしも、お父さまは厳しめでしたから」

 千草は続けます。

「それで、結局なにが言いたいかっていうと、お婆ちゃん命なわけ。お婆ちゃんは、あたしの全てを肯定してくれた。だれよりもあたしを愛してくれた。あたしがそこにいるだけで、それじたいはなにも悪いことではない、ということを当たり前のように思わせてくれたんだ」

「そりゃあ、千草がそこにいるだけで、なにも悪いことじゃなくない?」

 あかりが、あっけらかんとして言います。

「それは、あかりだから当たり前に思えるんだよ。あかりは両親に愛され育ってるから」

「そんなことないわよ」

「比べるもんじゃないけど、あたしよりはそういうことに悩まずに生きてる気がするな。まあ、ひとことでいうなら、両親の目に怯えて育ったあたしにとって、お婆ちゃんとの時間は『許された時間』だったんだ」

「許された時間」「許された時間」

 わたくしとあかりが、ほぼ同時に復唱しました。

「今思うと、ね。だから、しあわせ『だった』って言ったわけ。お婆ちゃんはもういないし」

 なるほど。

「なるほど、左様ですか。いうなれば、なにも無理しなくても、着飾らなくても、頑張らなくても、『そのままでいていい』という時間、みたいなことでしょうか?」

 わたくしの言葉に、あかりは「ほほう」と唸りました。

「うん。そんな感じかな。そりゃ、あたしだって向上心はあるつもりだし、常に努力、自己研鑽を重ねたいとは思っているよ。綺麗であろうとかもね。つまり、ビューティーを求めて」

「ビューティー」とあかり。

「でもさ、そんなことしないでも、ただ存在するだけで許されるような時間がないと、やっていけないじゃん?」

「確かにそうだよね」

「でも、大人になると、そういう時間ってなくなるから、なんか嫌だよね」

「千草にとってしあわせとは、『許された時間』ってこと?」

 あかりが確認するように聞きました。わたくしも相槌を打ちます。

「だね。そういう意味では、それさえあれば、しあわせだと思う。家族なんてものは関係なくね。だれを許そうが、だれに許されようが、そういう関係が築ければ、それはしあわせなことなんじゃないかな」

 あかりはそれを聞いて、うんうん、と唸っています。

「それはさ、逆に考えると、許す側もそれは喜びなんじゃないかってことなの。あたしの話でいうと、お婆ちゃんにとっても、あたしをそうして甘やかすことは喜びだったんじゃないかな」

「なるほどね」とあかり。

 なるほど。

「だから、これからはあたしたちが、そっち側になるわけだ。つまり、許す側に……な〜んてね」

 そのあとは、他愛もない会話をしながら食事していました。

 食後、わたくしだけ午後の講義に、二人は資料集めにゼミ室に戻ることになり、別れました。

 わたくしはなぜ、あの夢で、家族、という言葉が出てきたのでしょう。それも、恐怖のような感情とともに。

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