五. 秘密の願いごと

「ねえ、笙子。どこがいい?」

 紫以菜が、旅行ガイドブックの頁を繰りながら言いました。

「どこがいいかしら。水族館なんてどうかしら」

 大学の夏休みも明け、いつもの生活が再開して、落ち着いたところで、紫以菜と二人で日帰り旅行を計画したのです。

 大学生活最後の年、本格的に忙しくなる前に、自由を満喫しようと、ふと思い立ったのです。

 というよりは、単純に紫以菜と一緒に旅行がしたかっただけなのですが。予定日は明日。

「水族館ね。水族館っていいのかな。シーナにはよくわかんない」

「素敵ではありませんか。小学生なのに水族館には興味がないなんて、珍しいですわね」

「そんなもんだよ」

 紫以菜は無表情で頁を繰っています。

「周りのお友達はどんな所に遊びに行くのかしら?」

「知らない。ゲーセンとかなんじゃない」

「紫以菜はそういう所には興味ないの?」

「興味ないことはないけど、笙子と行くのは違うかな」

「確かにそうですわね」

「だって、旅行でしょ? そもそも笙子が行きたいんでしょ? 希望はないの?」

 わたくしに向き直って聞きました。

「わたくしは……紫以菜の行きたい所に連れていきたいのです。一人では行けないでしょう?」

 わたくしはただ、紫以菜と旅行がしたかっただけで、特別行きたい所があったわけでははありませんでした。

「そうだなあ」

 二人して、さっきからずっと、ガイドブックの頁をいったりきたりしています。しばらく無言で捲っていたのですが、紫以菜があるページに目がいって、

「ここは?」

 と言いました。そこには、紅葉で有名な神社が載っていました。

「……た、じんじゃ? なんて読むの?」

「やたじんじゃ、ですわ。弥田神社」

「いいんじゃない、ここ?」

「なかなか渋いチョイスをなさいますのね。でも、今は紅葉の時期でもありませんし……」

「いいのよ。なんか、ぴんときたの。シーナ、ここに行きたい」

 直感が働いたのでしょうか。

「ええ、よろしいのではないかしら。わたくしも行ったことがございませんし。ここならバスで一時間半くらいですから、日帰りにちょうどよろしいかと。もちろんお金はわたくしが出しますわ」

「だめ! お金持ちだからって、そんなこと言ってはだめ。シーナだってお小遣いくらいありますわよ」

 紫以菜は、声を張り上げました。

「あら、ごめんなさい」

「子供だからって、甘く見ないでほしいですわよ」

「ほんとうにお金はお持ちで?」

「大丈夫!」

 紫以菜はランドセルの中から、燕脂色の布製の財布を出して広げて見せてくれました。中には五千円ほど入っていました。

「貯めたの。貯金って楽しいね。少〜しずつ溜まっていくのがわかると、なんだか、わくわくする。このままシーナ、すんごい強い人間になっていくみたい」

 わたくしは、そんな貴重なお金を使わせるわけにはいかないと言おうと思ったのですが、それは逆に紫以菜のプライドを傷つけることになるのではないかと思い、出かかった言葉を止めました。

「まあ、すごいではないですか。紫以菜は強いお方」

「ふんだ!」

 紫以菜は勝ち誇ったように、籐椅子の上に立ち、両手を腰に当ててポーズをとります。

「神社の他には?」

 座り直して、聞きました。

「そうですわね。歴史博物館や市立美術館なんかも通り道ですが、紫以菜は面白くないでしょう?」

「そうかもね」

「それでしたら……近くには湖もありますわね。でも、どちらも行こうと思ったら、交通の便が悪いので、一日では……」

 逡巡していましたが、紫以菜は、

「シーナは神社だけでいいよ」

 先ほどの迷いはなかったかのように言いました。

「左様ですか。まあ、近くには他にもなにかありますでしょうし」

 と、行き先は決定。

「笙子はさ、一人で旅に出たことってある?」

 紫以菜が、ガイドブックをパタンと閉じてから聞きました。

「ありませんわ。お父さまがお許しにならないわけでもありませんが、そもそも、自分から旅行に行こうという気は起きませんわ」

「家族とか、友達とかと一緒は?」

 家族、と聞いて、わたくしにある記憶が呼び起こされました。

「ありましたわね。あのころは、まだ、お母さまが生きていらっしゃいました」

「お母さま?」

 紫以菜は目を丸くしています。

「ええ。お母さまのご実家は小さな島なのですがね、そこに家族で行ったときのことが思い出されましたの」

「そういえば、そんなこと言ってたね」

 その島は、港町からフェリーで半時間ほど行った所にある、漁を生業とするひとたちの暮らす、なんでもない島です。

 数回行った程度ですが、わたくしの記憶に濃いのは、十一歳のとき、お母さまが亡くなる前の年のこと。

 お盆の時期でした。フェリーのデッキから見える海と空は、ラピスラズリのような濃いブルーに染まっていて、風は強く、帽子が飛ばないようにするのが大変だったのを覚えています。

 お母様にとっては帰省。

 デッキに佇むお母さまは、近くも遠くも見ていない、ゆったりとした目をしていたのが思い出されます。

 その顔を思い出すと、わたくしまで、同じような穏やかな表情になれるのです。

 なぜそのときのお顔が記憶に濃いのか、何度か考えたことがあるのですが、あるとき、思い当たりました。

 そのときにお母さまがしていらした耳飾りが、今わたくしの手元に、形見としてあるからなのだと。

 わたくしは無意識に鏡台に目を遣りました。鏡の脇のフックには、それが一対、掛かっています。それは、島の浜で採った、小さな巻貝の貝殻を下げた耳飾りです。

「笙子〜?」

 紫以菜がわたくしの目の前で手を振っています。

 わたくしは我に返りました。

「よかった、帰ってきた」

「あら、ごめんあそばせ」

「なんもないのね」

 少し考えて、島のことを言っているのだとわかりました。

「ええ、そう。なにもないのです」

 紫以菜は島の話には興味がないようで、またガイドブックを開いて、無意味に頁を繰り始めました。

「でもさ、そもそも、なんでシーナと旅行に行きたいと思ったの? 旅行なんて好きでもないのに」

「それは、もちろん、紫以菜と一緒に行きたいからよ」

「そう」

 紫以菜は、そう言ったきり、ガイドブックに目を戻しました。


   * * *


 翌日。気持ちのいい、秋晴れの日となりました。

 駅前のバスターミナルに着くと、紫以菜は花壇の縁に腰掛けて待っていました。黄色のワンピースを着て、頭にはつばの広い麦わら帽子、ポーチを肩掛けしています。

 紫以菜のお宅まで迎えにいって、一緒にここまで来ればいいのですが、紫以菜が、

「待ち合わせようよ。だって、デートでしょ?」

 と言ったので、わたくしはうきうきとして、そうすることにしたのでした。デート……。

「笙子だ〜!!」

 わたくしに気づいた紫以菜が駆けてきました。帽子からはみ出たロングの黒髪が、艶々と光りながら揺れています。光の粒がこぼれ落ちるようです。

「お待たせ。お召し物、可愛らしいわね」

 紫以菜は、照れ笑いを浮かべました。

「笙子も素敵よ。耳飾りもね」

「ありがとう。よくお気づきね」

 花火の日にもしていた、お母さまの形見の耳飾りを、今日もしてきたのです。それを褒められると、気分は上がります。

「うん、前にも見たけど、やっぱりそれ可愛い!」

 目的の神社は、路線バスの終点になっています。

 わたくしたちは、発車待ちのバスに乗り込み、うしろの座席に並んで掛けました。ちらほらと数人乗り入れたら、間もなくバスは発車しました。

「晴れてよかったね!」

 紫以菜が言いました。

「ええ。お父さまはなにか仰っていましたか? しっかりとしてろよ、ですとか」

「なんにも。笙子ちゃんによろしくって。それだけ」

「左様ですか。でも紫以菜、どこかに行ってしまったりしないのですよ」

「わかってるよ。子供扱いして。笙子こそ、ぼけっとして、はぐれちゃいそうだよ」

 紫以菜はわたくしの肩を、コツンと拳骨で突きました。

「それにしても、二人でお出かけなんて初めてのことですわね。なんだか新鮮ですわ」

「シーナは不思議な感じ。笙子があの素敵なお部屋にいないのが不思議だなあ」

「左様ですか」

 バスの乗客の数は、住宅街のあたりでピークを迎え、神社に近づくに連れて減っていきました。

「笙子はさ、彼氏はいないって言ってたじゃん……」

 いよいよ到着というところで、紫以菜がぽつりと、と言いました。

「はい?」

「彼氏、は、いない」

「ええ、そうですわ」

 答えると、紫以菜は、

「じゃあ彼女は?」

 と聞きます。

「彼女? 彼女も……いませんわ」

 わたくしは少し戸惑いました。彼女?

「そうなんだ。わかった」

 紫以菜はそう言ったきり、視線を窓の向こうに向けて、黙り込んでしまいました。


 土曜日の神社の参道は、思った以上に混み合っていました。観光バスが来ているようで、おばさま方が賑やかに喋りながら屯しています。

 降りたバス停がちょうど参道の始まりになっていて、土産物屋や団子屋、食堂などが並んでいます。道沿いには小さな川が流れていて、先にある橋を渡ることで、神社の境内に入ることになっているはずです。

 それ以外に、わたくしがこの神社について知っていることといえば、初詣で渋滞ができるくらいに賑わうらしい、ということくらいです。わたくし一人では、そのような所には行く気も起きませんでした。月崎家では、別の神社に初詣に行きますし。

「わあ。きれいな所だね、笙子」

 紫以菜は目を輝かせています。

「走っちゃいけませんよ」

「だから大丈夫だって」しかし、言ったそばから「あ、お団子!」と言って走り出します。

「ですから、いけませんって!」

 慌てて追いかけますが、追いついたときには、

「おばちゃん、これいくら?」

 財布を取り出してそう聞いています。三〇〇円という値段を聞くと、すぐに百円玉を三枚。

「よろしいのですか? こんなにすぐにお金を使ってしまって」

「だいじょうぶ! おばちゃん、ありがとう!」

 紫以菜はすぐにお金を支払い、四個刺しの草団子を手に取って、歩きながら食べ始めました。粒餡が乗っていて、わたくしもよだれが出そうです。

「美味しいよ。笙子も一口食べなよ」

 口をもぐもぐさせながら言います。わたくしが、結構ですわ、と言うと、

「ふ〜ん」

 と言って、一気に全部平らげました。

 それから次々と、土産物屋などを物色し出す始末で、わたくしは、それに付いていくのに精一杯です。

「またお団子! さっきもあったのに、なんで何軒もあるんだろうね」

「このお土産、別の店でも売ってたよ」

「わあ、耳かきがいっぱい。でも、なんで耳かきなんだろう。関係ないのに」

「ガチャガチャ回していい?」

 などと、燥ぐので、鳥居をくぐるころにはへとへとでした。


 斜面に建つこの神社の境内は、階段が折れながら続いてて、よくある神社のような単純明快な造りにはなっていません。その端々に、カエデやイチョウなどが植わっています。小ぶりな可愛らしい葉が、今はしっかりと枝に付いています。紅葉の時期はさぞかし綺麗でしょう。

 わたくしたちは、観光客に混じって、境内を歩きました。じっくり回ろうと思ったら、小一時間はかかりそうな規模です。

「これはなんて木?」

 紫以菜が、指差した先にあるのは、マユミの木でした。

「これは、マユミね。わたくしのお屋敷にも植わっていますわ。紅葉しても、薄く色づくくらいですが」

「これは……カエデ?」

「そうですわ。正確には、トウカエデかしら」

「これは?」

「イロハモミジ。定番ですわね」

 どの葉も、色付くのはもう少し先のようですが、今の時期の爽やかな色彩も絵になります。美しくなるように計算されて配置されているのでしょう。

 本殿までの階段は一〇〇段近くあります。

 わたくしは、運動をやめた二十一歳女子。それをぜいぜい言いながら上っていました。一方、紫以菜はすたすたと上っていき、余裕綽綽の態。認めたくはありませんが、差は歴然です。

「笙子、遅い!」と頭上から声がかかりました。「遅いですわよ。おでぶでもないんだから、さっさと上がりなさいよ」

 わたくしは偉そうにもなれません。ここにきて、紫以菜に優位に立たれていることが、なんとなく悔しい。いつも、わたくしがなんでも教えているような気がしていたものですから。

 わたくしが本殿に着いたときには、紫以菜は石段に腰かけ、涼しい顔をして待っていました。

 拝殿は唐破風の屋根で覆われていて、太いしめ縄がそこに掛かっています。それを背後にした紫以菜は、ひときわ堂々としているようです。

「二礼二拍手一礼ってご存知?」

 聞きますが、紫以菜は、

「知ってるよ。神社でお詣りするときのやり方でしょ」

 と、また勝ち誇った表情です。

 わたくしは、適わないな、という顔をして、お賽銭を投げました。

 ぺこり、ぺこり、パン、パン、ぺこり。

「紫以菜はなにをお願いしたの?」

 聞きましたが、紫以菜は、にっと口を横に広げて笑うだけ。

「笙子は?」

「わたくしは、無事卒業できますように、ですかね」

「な〜んだ、つまんないの」

 紫以菜は、ほんとうにつまらなそうな表情で、拝殿を下りてゆきました。

 社務所には、様々なお守りや絵馬、お神籤が売られていました。中でも、恋愛成就、縁結びのお守りが大々的に並べられています。どうやら、ここは縁結びの神様を祀っているようです。

「男女の神様を祀ってるんだって」

「そうそう。ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメでしょ」

 周りの観光客から、そのような会話が聞こえてきました。なるほど。

 紫以菜は、爪先立ちしながら、社務所のカウンターに並べられているお守りを一生懸命に眺めています。

「お守りを買うのですか?」

 紫以菜は、う〜ん、と唸りながら真剣に品定めをしています。考えてから、

「お神籤を引く!」

 と宣言しました。

 巫女さんに料金を支払い、直接それを貰うかたちでしたので、わたくしが紫以菜のお金を渡して、それを受け取りました。受け取った瞬間、紫以菜の手がさっと伸びて、それをひっさらっていきました。

 紫以菜は、わたくしに見られないように、こっそりとそれを開いて、なぜか納得したような顔をして、それをポーチに仕舞いました。

「あら。結果は?」

 紫以菜は、また先ほどのように、にっと笑って誤魔化します。

「変な紫以菜」

 その言葉をよそに、紫以菜は小走りに走り出しました。

 そのあとは、境内から河原に下りられるようだったので、水辺を歩いたりして、ひと遊びしていました。

 紫以菜はわたくしの前を、小石を踏みしめるようにして、ゆっくりと歩いています。

「ねえねえ、紫以菜。お神籤の結果はどうでしたの?」

 紫以菜の背中に呼びかけました。

「だから秘密だって」

「今日はずっと秘密だらけではないですか。なんだか、もやもやいたしますわ」

「なんだよ、気にし過ぎだよ」

「結果だけでも! 大吉? 小吉? それとも凶?」

「大吉だよ!」

「あら、それはよろしかったではないですか! 詳細は? 学業ですとか、金運ですとか、それから恋愛運ですとか」

 紫以菜は振り返ることもなく、黙っています。

「紫以菜のけち!」

 そう言うと、紫以菜は振り返って、

「えへへ」

 と笑いました。

 そうしているとお腹が空いたので、参道沿いの食堂でお昼をとることにしました。レトロな雰囲気のお店で、窓辺の席からは川が見下ろせます。

 わたくしたちは、そこでかけ蕎麦を食べることにしました。ちょうどお昼時でしたので、店内も賑わっています。

 注文を済ましてから、わたくしは思い出して、今日ここに来るきっかけになったガイドブックをリュックから取り出しました。特に予習もせずに来たので、今更ながらお勉強でもしてみようと思ったのです。

 この神社に割かれている頁は、数ある頁の中の一頁だけ。紅葉の写真をメインに、神社の謂れなどが書かれています。そこには、縁結びの神様を祀っているということについても書いてありました。

 もしかして。

 紅葉のシーズンでもないのに、紫以菜が思いついたようにここに決めたのは、もしかして、これが理由なのではないかと。

 もちろん、神社としての荘厳さや、ロケーションのよさもありますが、そこに惹かれるには、紫以菜は若すぎる気もいたします。

 学校では恋愛話には興味はないと言っていましたが、ほんとうは興味があるのではないでしょうか。

 紫以菜にも好きな男子がいてもおかしくはありません。そういえば、こないだ話に上がった凛人くんはどうなのでしょう。紫以菜に気があるらしいことは、なんとなく推測できます。紫以菜が凛人くんのことをどう思っているのかは、はっきりとは言ってくれませんでしたが、それは紫以菜も凛人くんに気があるかもしれない、ともいえるのでは?

 これほど美しい紫以菜です。考えてみれば、男子から注目を浴びてもおかしくはないでしょう。いえ、浴びてしかるべきです。

 そして、男子を恋愛的な目で見てもおかしくはない年ごろです。

 紫以菜は、自分の恋愛を成就したいのでしょうか?

 そのことについて、わたくしは聞きたかったのですが、聞くのが怖い気もします。

 そうなんだ! 凛人くんと付き合えたら嬉しいな!

 という答えが返ってきたら。そう想像すると、心臓が一つ大きく鼓動します。

 根拠もない連想はそこでやめました。

 紫以菜は、足をぷらぷらさせながら、興味深そうに、店内に貼られたメニューの数々を眺めています。

 帰りのバスの車内は、来たときよりはかなり混んでいて、発車待ちのバスに乗り込めたわたくしたちはラッキーでした。

 発車してしばらくすると、やはり疲れたのでしょう。紫以菜はうつらうつらとし始め、しまいに、わたくしの肩に頭をもたげて眠り出しました。終点の駅前バスターミナルに着くまで、眠ったままでした。

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