七. 橋を渡る

 午後の講義のあいだじゅう、わたくしは、学食で千草たちと話していたことを考えていました。

 家族って。

 お母さまが亡くなったのは、わたくしが十二歳のときでした。

 小さな島で生まれたお母さまは、高校に入学するときに本土に出て、県内の私立大学でお父さまと出会われました。

 月崎家の代々の入り嫁は、この地のかつての地主や豪商の娘、藩主の家系の娘ばかりで、庶民といってはいけないのでしょうが、そういう出の、ましてや島出身のお母さまがその候補として挙がったときには、月崎家ではひと悶着あったと聞きます。

 当時も、恋愛結婚などなにもおかしくはない時代です。なので、揉めたといっても、保守的な考えとしてそういう意見があっただけで、一応話題として議論しよう、という程度だったようです。ばあやだって、お母さまには優しかったですし、山岡もそのようなそぶりは見せていませんでした。

 ただ、葬儀の際、生まれが卑しかったとか、だからこんな死に方をしたのだとか、ほんとうは反対だった、だってあのひとは……とか、そして、後継ぎを考えると後妻を迎えたほうが、などという意見があったと聞きます。

 それでも、お父さまはそうはせず、深く悲しんだあと、いつもどおりの月崎家を作ろうとされていました。実際にそれを実現してきたと思います。子供だったわたくしにもそう見えました。

 いつの日か、なにかの折に、お母さまとわたくしの二人きりになったことがありました。お茶室だったと思います。何歳のときだったかは覚えていませんが、庭にはピンクの山茶花が、それこそ山のように咲いていたのを覚えていますので、時は秋の暮れ、ちょうど今ごろのことだったでしょうか。

 わたくしはお母さまに、お父さまとの馴れ初め話を聞いていました。

「大学にはサークルっていうのがあって、お母さんとお父さんはそこで知り合ったの」

 お母さまは、自分のことを「お母さん」と呼んでいました。わたくしは「お母さま」と呼ぶのに、変なの、と思っていたのを覚えています。

「でも、付き合ったのは卒業してから。卒業してからも、サークル仲間でちょくちょく集まることはあったからね。お母さんはある会社で働いていたんだけど、辞めて島に帰るかもという話をしたら、お父さんが急に接近してきて、なんだかんだで付き合うことになったの。だからお母さんは島に帰らないで、ここに残った」

 わたくしは黙って聞いていました。

「でも島のことは心残りだったわ。父さん、笙子のお爺さんね、父さんは体も弱くなって、畑仕事もしてなかったみたいで。跡継ぎもいないし」

「でも帰らなかったのですね」

「ええ。お父さんもそういう事情は少しはわかってたと思うけど、なぜか付き合うことになって。お母さんも流されたみたいなところがあるわ」

「なんで結婚したの? 大好きだったから?」

 わたくしは、子供のような(実際子供でしたが)ばからしいことを聞きました。お母さまはそれを聞いて、少しだけぴくっと体を動かしてから、笑って言いました。

「そうね。最後はお母さんが決めたことだからね」


 お屋敷の最寄り駅に降り立ったのは、午後四時半ごろでした。

 改札を出て、ふと、紫以菜のお宅に行ってみようかしら、と考えつきました。今ごろなら帰宅しているかしら、少し早いかしら、そもそもいきなり行っては驚くかしら、などと考えていてると、

「笙子だ!」

 うしろから声がかかりました。振り返ると、そこにいたのは紫以菜です。

「紫以菜ではありませんか!」と言って駆け寄ると、その隣に同じくらいの年ごろの男の子が立っているのに気づきました。

「このひとはね、凛人くんっていうの」

 わたくしの視線に感づいたのか、紫以菜がすかさず言いました。

 彼が以前、話に挙がった凛人くん……。どうやら紫以菜に気があるのではないかとわたくしは睨んでいます。クラス一モテるという、紫以菜の話のとおり、確かにかっこいい。今風の都会的な顔立ちが涼しげです。

「まあ。あなたが凛人くんですね。紫以菜から聞いていますわ。初めまして。紫以菜のお友達の笙子と申します」

「よろしく」

 凛人くんは、未知の生物でも見るような視線で言いました。微妙な空気。

「今日はね、お習字教室だったんだ。学校は早あがりの日だったから、早めに教室が始まって、今終わったところ」

 と紫以菜。そういえば、紫以菜に通っている習字教室は駅前にあると言っていました。しかし凛人くんも一緒に通っているとは初耳です。

「そうでしたの。凛人くんもお習字やってらっしゃるのね」

 凛人くんはわたくしの言葉を無視して、紫以菜に耳打ちするように、

「だれこのひと。お嬢さまみたいな話し方」

 そう言ったのを、わたくしは聞き逃しませんでした。聞かないふりをしましょう。

「これから一緒に帰るところ?」

「うん。でも凛人くんとはすぐそこの交差点で別れるけどね」

「左様ですか」

 すると凛人くんは、つまらなそうな顔をして「じゃあ僕はもう行くよ」と言って、すたすたとロボットのように去っていきました。

「あ、行くの? ばいばい、凛人くん」

 凛人くんは、振り返って「ばいばい」と手を振りました。無表情なのが気になります。

「よろしかったの? 一緒に帰らなくて」

「別にいいよ。すぐそこで別れるって言ったじゃん」

「でも、駅前でデ……、じ、時間潰したりとか、遊んだりしないのかしら、と思いまして」

「そういうことは、いつもはしないな。それに凛人くんと二人でなんて、なんだか変な気分」

「変な気分といいますと?」

「変な気分は変な気分だよ。付き合ってるわけでもあるまいし」

 付き合ってるわけでもあるまいし……。なぜかその言葉に、どきりとしてしまいます。

「さ、左様ですか。では、わたくしたちも帰りますか。その格好では寒いでしょう」

 紫以菜はなにも羽織っておらず、長袖の白のブラウスに、膝丈の紺のプリーツスカートという格好でした。これでは夏の避暑地で過ごすときのようです。

「まあ平気だけどね。行こうか」

「気になりますわ」

「へーき、へーき」

 紫以菜はほんとうに平気な顔をして、歩き出しました。

「一緒にお習字に通っているお友達は凛人くんだけ?」

「そうだよ。あとは別の学年とか、別の小学校の子」

「そうですか。他の子たちも合わせて、生徒さんはどれくらいいらっしゃるの?」

「うーん、二十人くらいかな」

「なるほど。紫以菜が通い始めたのは一年ほど前でしたっけ? 凛人くんはそのときからいらしたのかしら?」

「ううん。凛人くんが来たのは半年くらい前かな」

 わたくしたちは、大きな石橋に差し掛かりました。抜けた空は、柿色と菫色のグラデーションに広がっています。

「綺麗な景色ですわね。ほら空が鮮やかですわ」

「ほんとうだ。綺麗だね」

「凛人くんはどの辺りに住んでるのかしら。川より向こう側かしら」

「うん。この橋は渡らないで、向こうの橋を渡ったほうが近いみたい」

 紫以菜はそう言って、川の南側にある、ひと回り小さな橋を指しました。

「じゃあ、寺屋町になるのかしら」

「多分ね。ていうか、なに、笙子。なんでそんな気になるのさ」

 少し前を歩いていた紫以菜は、振り返って言いました。

「いえ、そんなわけでは。単純に紫以菜のお友達はどんなひとかしら? と思っただけですよ」

「そうなの」

「そうよ。それだけですわ」

「でも、笙子ってば、今日はなんか変」

「すみませんわね。こういうひとなのですわ」

「ふーん」

 それからは凛人くんの話題は出ずに、無言で橋を渡り切りました。

「そうそう、笙子」

 紫以菜が口を開きました。

「今度の日曜日の夜は空いてる?」

 わたくしは、さっと手帳を確認して、夜は特に予定はなかったので、大丈夫だと言いました。

「実はその日、お父さんが仕事で遠くに行かなきゃいけないの。お泊まりだって。だから、家にシーナしかいなくて……。いつもは、そういうときは、お婆ちゃんの所に行くんだけど、お婆ちゃん、今入院中なんだ」

「あら、それは大変」

「つまり、シーナ一人だけで家にいることになりそうなの」

「まあ。一人で大丈夫?」

「う〜ん……」

 紫以菜はもじもじしています。

「大丈夫かしら?」

「うん、だから……笙子はその日、空いてるんだよね?……要は、一緒に留守番してくれない? ってこと」

「なるほど、そういうことでしたか。それは、つまり、夜どおしということですか?」

「そう。夜どおし。ってか、なにその単語」

「失礼しました。一晩、紫以菜のお宅で一緒にお留守番ですね」

「そう。だめ?」

「でも、それでしたら、わたくしのお屋敷に泊まればよろしいではないですか。きっとみんなも歓迎しますわ」

「それはいや。いや、というか、そんな理由で笙子のお屋敷に泊まるなんて悪いよ」

「そんなことありませんわよ。みんな紫以菜のことが好きですし」

「でも……なんだかシーナみたいな庶民が、笙子のお屋敷みたいな所に泊まるは気が引けるし……」

「そんなこと、気にすることではありませんわ」

「でも、やっぱり……う〜ん……だめ?」

 紫以菜がお願いするときの顔には反則的なものがあります。上目遣いで見つめるときの、媚びるような瞳と口元が、小動物のように可愛らしい。嫌と言えるわけがありません。

「よろしいですわ。紫以菜を一人にするわけにはいきませんから」

 気づいたら、そう口にしていました。

「ほんと!? ありがとう!」

 目がきらり。

「お父さまがそう言ったのですか?」

「うん。正確には、シーナが提案して、お父さんが、笙子ちゃんなら任せられるな、って」

「左様ですか。では、そうしましょうか」

「やったー!」

 紫以菜は、両手を挙げて喜びました。

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