第48話

 食器を洗い、自分の部屋に戻って、上着を羽織って玄関に向かう。特に持っていくようなものはなかった。財布と鍵くらいあれば良い。


 靴を履いて玄関を出るとき、リィルは笑顔で見送ってくれた。


 その笑顔が、不吉なものには見えなかったので、僕は安心した。


 乗り物には乗らずに、徒歩で友人の所へ向かう。彼が経営する企業は、企業と呼べるほど規模の多きいものではなく、実際に彼は一人ですべての作業を行っている。僕たちが暮らすこの街で起こる問題に干渉し、問題を起こした側とそれによる被害を受けた側の仲介を行うというのが表向きの事業内容だが、僕たちがそうしてもらっているように、集めた求人の中から最適なものを選んで紹介するようなこともしている。一言でいってしまえば便利屋で、報酬を支払えば大抵のことはこなしてくれた。


 彼の仕事場は、もともと図書館として使われていた建物を、改装して再利用できるようにしたものだ。土地は特別広いわけではないが、建物自体は一人で使うには大きすぎる。全部で三階建ての横に長い建造物で、一階のフロアにはいくつかのコンピューターが配置されている。


 目的地に到着して入り口のドアを潜ると、室内がなぜか暗くなっていた。


 フロアを奥に進むにつれて、ぼんやりとした光の集合が浮かんでいるのが分かる。コンピューターが灯すランプやスクリーンの明かりが、そこに密集して空間を映し出していた。


 僕が近づいてきた気配を察知して、コンピューターの向こう側に座る人影が、こちらを確認するように顔を出す。彼は僕に軽く手を上げ、手もとに置いてある小さな端末を天井に向けて操作する。照明の電源が入り、たちまち部屋全体が明るくなった。


「やあ」


 椅子に座ったまま、友人が僕に挨拶をした。彼はキーボードを使って何やら作業を行っているようで、こちらに顔を向けようとしない。


「どうして、部屋を暗くしているの?」僕は尋ねる。


「いや、別に」彼は答えた。「少しは節約できるかな、と思って」


 彼の名前は、たぶん、ベソゥという。たぶん、と断ったのは、暫く会っていなかったから、それで合っている確証がなかったからだ。それは嘘だが、ときどき、そういう事態に遭うことがある。人の名前では滅多にないが、使っていない英単語だと、形の似ているもの同士で意味を取り違えてしまうことがある。


 脚に車輪が付いた椅子が辺りにいくつか置いてあったので、その内の一つに腰をかけて、僕はベソゥの傍まで近寄った。画面を覗き込むと、メールのリプライを書いている最中らしい。見るな、と手で払われたので、僕は素直に顔を引っ込めた。


 五分くらいが経過して、ベソゥはキーを打つ手を止めた。


 椅子を回転させて、彼はこちらを向く。


「久し振り」ベソゥは言った。「変わりないようで、安心した」


 僕は少しだけ笑う。


「君に心配されても、全然嬉しくないから、不思議だ」


「まあまあ、そう言うなって」彼は立ち上がり、傍にあるシンクの方に向かう。「コーヒーでも淹れてやるから、それで落ち着けよ」


「落ち着けって、何に対して落ち着くわけ?」


「昨今の、厳しい社会情勢に対して」


 僕は、そんなつもりはなかったので、彼の言っている意味は分からなかった。


 依頼が無事に完了したことについては、昨日の時点でメッセージを送信しておいたが、改めて彼に口頭で伝えておいた。それから、クレイルが依頼した内容の内、事実とは異なる部分についても、話せるところは話した。彼自身が経営している企業だから、彼より上の立場の者はいない。彼なら外部に情報を漏らすことはないだろうから、後々面倒なことにならないように、事実を共有しておいた方が良いと判断した。


「そう……。それは大変だったね」ペーパーフィルターにコーヒー豆の粉末を入れながら、彼は言った。「君たちも、なかなか、堪えたんじゃない?」


 僕は黙って頷く。


「そうか……。その歳で、亡くなるというのは、仕方がないにしても、悲しいことだね」


「最初から、悲しい依頼だったよ」僕は話す。「母親が死ぬか、子どもが死ぬかの違いでしかない」


「でも、子どもが死ぬというのは、母親が死ぬよりも、悲しいと思ったんだろう?」


「うん、まあ……」


「いつの時代になっても、若い人材が失われるのは、大きな損失だよ」


 二人分だから、コーヒーはすぐに入った。彼はそれをカップに注ぎ、僕にそのまま手渡す。カップには所々黒ずんでいる箇所が見られたが、言っても仕方がないと思って、僕は何も指摘せずにコーヒーを飲んだ。


 ベソゥは僕の対面に座る。


「それで? 今日は、何のために来たんだい?」


 何も考えていなかったので、僕はその通り彼に伝えた。


「ただ、顔を見に来ただけ」僕は話す。「最近、会っていなかったからね」


「それは、どうも、お気遣いありがとう」


「仕事は、大変?」


「いや、全然」ベソゥは言った。「仕事をしているという感覚は、皆無に等しい」

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