第45話

 一時間くらい経過して、一度駅で乗り換えをした。さらに二十分くらいかけて、僕たちは最寄り駅で電車を降りた。


 たった一週間離れただけなのに、自分たちの住む街が、とても懐かしく思えた。人々の気配がすぐ傍に感じられ、少しだけ安心する。空はもう暗くなっていたが、その分人工的な明かりが街を彩っていて、自分たちの街だと実感することができた。


 歩いて家に向かう。変哲な住宅街を歩いているだけでも、日常を取り戻したような気分になった。


 家に到着し、玄関を開けて室内に入る。


 洗面所で手を洗ってから、僕とリィルはリビングに向かった。


「あああ、疲れたあ……」


 上着を羽織ったまま、リィルは思いきりソファに腰を下ろす。


 硝子戸の鍵を開け、僕はその向こう側にあるシャッターを持ち上げた。一週間停滞していた空気を外に追い出し、新しい空気を室内に取り入れる。


「今日は、もう、私がご飯を作らなくても、いいよね?」リィルが僕に訊いた。


「うん、まあ……。今日くらいは、いいかな」


「いつも作ってもらっておいて、その言い方は、何様のつもりなのか」


「とりあえず、荷物の片づけをしよう。といっても、着替えを仕舞うくらいだから、すぐに終わると思うけど……」


「嫌だなあ……。もう、このまま、だらだらしたいなあ……」


「片づけが終わったらね」


 自分の分の荷物を持って、僕は二階の自室に向かう。


 洋服を一通りクローゼットに仕舞い、リュックの中身をデスクの上に出した。翻訳に必要なデバイスと、いくつかの筆記用具が出てくる。


 その中に、予期しないものが含まれているのを見つけて、僕はそれを手に取った。


 万年筆だった。


 それは、クレイルの家で、僕が手紙を執筆するときに使っていたものだ。


 間違えて持ってきてしまったのかと思ったが、そんなはずはなかった。僕はあの家で一度も万年筆と自分の筆記用具を併用しなかったし、万年筆を応接室から持ち出したこともない。


 万年筆の蓋を外す。すると、ペン先に短く切った紙が巻き付けられていた。僕はそれを丁寧に剥がし、紙の裏を確認する。



『必要でしょうから、持っていって下さい』



 そこに書かれている文字を読んで、僕は首を傾げた。これはクレイルのものだから、彼女が書いたと考えるのが自然だ。


 必要、と書かれている意味が、僕には分からなかった。


 なぜ、彼女は、僕にこれを預けたのだろう?


 階段を上って、リィルが二階にやって来る。開いているドアの隙間に手をかけて、彼女は僕の部屋に入ってきた。


「それ、どうしたの?」僕の傍まで来て、彼女は尋ねる。


 僕は黙って首を傾げた。


 デスクの上に置かれた万年筆を手に取り、リィルはそれを見つめる。


「君への、感謝のつもりなんじゃない?」彼女は言った。「もしくは、思い出の品のつもりとか」


 僕は隣に立つリィルを見る。


 彼女は僕に万年筆を手渡した。


 ペン先には、少しインクが付着している。クレイルの言葉を綴った残滓が、まだそこに残っている。


「誰かに、手紙を書こうか」僕は言った。


「誰に書くの?」リィルは尋ねる。


 僕は瞬時に候補を思いつく。


 君にだという答えは、今は口には出さないでおいた。

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