第9章 感情を揺さぶる作業
第41話
次の日を迎え、僕たちはクレイルの家を去ることになった。
朝食を用意してもらい、それをいつも通り全員で食べた。ココとヴィは、僕たちがいなくなるのを寂しがってくれたようで、いつもより多く話してくれた。リィルは昨晩、また会えるとヴィに言ってしまったから、その約束を守るように彼女からしつこく要求されていた。
食事のあと、手紙の内容をクレイルにもう一度確認してもらった。特に不備はなかったから、それで作業はすべて完了した。報酬は現段階で貰うことはない。一応、この仕事はある企業を通して紹介されたものなので、まずはその企業に報告をしなくてはならない。
僕とクレイルが応接室で作業をしている間、リィルはリビングでココとヴィと話していた。確認が終わって僕たちがリビングに戻ると、思いのほか三人は満足そうな顔をしていた。ヴィに関しては、泣いていてもおかしくないと思ったが、そんなことはなく、三人ともきちんと別れを告げられたみたいだった。
ココにとっては、それが最後の別れになる。
ヴィと同じように、もう僕たちに会うことはできない。
けれど、そんな様子を感じさせないような、自然な別れに僕には思えた。
玄関を出て、僕とリィルは三人に挨拶をした。ココもヴィも見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。クレイルは最後まで笑顔だった。
こんな経験は、もう二度とできないかもしれない。そう思うと、ここに来て彼女たちと出会えたことが、素晴らしいように思えた。
草原を通る道を進み、やがて森の中に入る。木々が茂ったエリアに一歩足を踏み入れただけで、たった今までいた場所が、幻の世界だったように感じられた。後ろを振り返ると、太陽に照らされた草原が広がっているだけで、ほかには何も見えない。
日の光が遮られると、まだ少し寒かった。
地面は湿っている。左右に広がる太い木々の群れが、時間の経過をゆっくりと感じさせる。
クレイルたちと別れると、リィルの顔からは嘘のように明るい表情が消えた。代わりに、何かを思い詰めるような顔になり、途中で何度か溜息を吐いた。僕も同じような気持ちだったが、昨日ココと話せたことで、気分はいくらか軽くなっていた。
「もう、考えるのはやめよう」僕は言った。「ココも、君には感謝しているはずだ。君だって、ココに出会えて、よかったと思っているんだろう?」
「それは、そうだけど……」
「考えても、仕方がないさ」
「でも……」リィルは唇を噛む。「辛いものは、辛い」
僕も、辛かった。
森はずっと続いている。途中に別れ道はないから、ひたすら真っ直ぐ進むだけだ。休憩場所のようなものが時々現れたが、僕たちは休むことなく前進した。周囲には、ときどき動物の気配を感じる。クレイルの家の傍では、そんな気配はまったくしなかった。やはり、あの場所は、空間的に特異な条件下にあるように思える。閉鎖的といえばそれまでだが、自然だけではない何かが関わっているような、そんな雰囲気があの一帯には漂っていた。
考えても仕方がないとリィルには言ったが、僕自身、クレイルたちが抱える悲しみについて、まったく考えないようにしようとは思っていなかった。それは、今回の依頼を通して僕が学んだことの一つだ。悲しいのは確かだが、その悲しさを完全に失ってしまうわけにはいかない。悲しいのも、それはそれで自分のためになっていると考えるべきだ。これからは、ココのことを思い出す度に、きっと悲しい気持ちになるだろう。けれど、それで良い。そうでなければ、彼女とともに過ごした時間が意味のないものになってしまう。
「ココは、凄い子だったね」唐突に、リィルが呟いた。「私、絶対に、あんなふうには行きられないよ。自分が死ぬって分かっているのに、あんなに気丈に振る舞うなんて……」
「たしかに、いい子だったね」
「どうしたら、あんなふうに、強くなれるのかな?」
「さあ……」僕は首を傾げる。「ただ、僕は、君も充分強いと思うけどね」
リィルはこちらを見た。
「どうして?」
「君だって、ココのことを知っても、彼女たちと普通に接していたじゃないか」
「……まあ、そうだけど……」
「僕にはできない。僕は、彼女たちと接する機会が少なかったから、なんとか取り乱さなかっただけだ。もし僕が君の立場だったら、上手く対処できる自信はない」
実際に、ココに対して、僕は少し感情移入しすぎてしまった。ココからしてみれば、僕はリィルの付添人くらいに捉えられていたかもしれない。それなのに、彼女を呼び出してあんなことを言ってしまった。思い返してみると恥ずかしいが、それでも、彼女と話せたこと自体は良かったと思っていた。
クレイルも本当は辛かっただろう。彼女は、ココが病気だと分かっていても、できる限り普通の生活をさせようと工夫していた。本当なら家で安静にしているのが一番だろうが、外で遊ぶのを禁止したりしなかった。そんなふうに、平常を装っているのが、本当は何よりも辛いはずだ。もっとも、いくらこんなふうに考えても、僕には彼女の辛さなど微塵も理解できないのだろうが……。
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